08.元婚約者フェリクス王子
『また日を改めて、お話を伺ってもいいかしら?』
前回の訪問時、確かにオレーリアはそうディランに声をかけていた。初めて知る事実に混乱してしまったからだ。
だが、その後テオから事情を聞き、知りたかったことはすべて分かった。
(もう十分だわ)
そう考えてオレーリアは、ディランに訪問を断る手紙を書いていた。
ここは王都から馬を走らせても、半日以上もかかる領地だ。わざわざ来てもらうほどのことではない。
『幼馴染のテオドールに、フェリクス様が調査してくださったこと、心より感謝しておりますとお伝えくださいませ。事情も理解いたしましたので、どうかお気遣いなさらないでください』
そんな内容をしたためて、ディランには手紙を送っていた。
(これでおしまいね)
これで全てに片がついたと、そう思っていたのだ。
だが、現実はそう甘くないらしい。
手紙を出した2日後の夕方。
オレーリアの目の前には、ディランと――
『氷の王子』と呼ばれるフェリクスが立っている。
顔を合わせるなり目を見開いたフェリクスに、オレーリアも目を見開いた。
(え……待って。なんでフェリクス様もここにいるわけ?!)
呆然と思いがけない訪問者を見つめる。
「オレーリア嬢、久しぶりだな。……今日は、いつもとは違う姿なのだな」
やがて口を開いたフェリクスは、珍しく言葉を選ぶように間を置いた。
「このようなお姿で失礼いたします。ちょうど温泉に入っておりましたので……」
(ちょっと!そんなに驚かなくてもいいじゃない。すっぴんの何が悪いのよ)
そんな思いで、オレーリアは曖昧な笑顔を向ける。
「……温泉療養中でして」
念のため、付け加えておく。
昼の温泉はすでに日課になりつつあるが、オレーリアはあくまで『療養』を理由に休学している身だ。
『こんな昼間から温泉か?』などと思われ、休学扱いを取り消されては困る。
だからこそ、『遊んでいたわけではなく、療養していた』ということを強調しておきたかった。
ちょうどお昼の温泉を堪能し、部屋でゆっくり過ごすところだったのだ。
せっかく温泉水に磨かれた肌に、化粧などしたいはずもない。かつての婚約者に、今さら着飾ってみせてもしょうがないだろう。
「どうぞおかけになってください」
そう言って、フェリクスの反応など気にしないことにした。
そもそも、オレーリアはこの訪問をディランによるものだと思い込んでいた。
王家の馬車が来たことには気づいていたが、まさかその中にフェリクス本人が乗っているとは思いもしなかったのだ。
(きっとディラン様ね。手紙で訪問は断ったつもりだったけど……ほんと律儀な人ね)
ディランはフェリクスの側近だ。王家の馬車を使わせてもらうことくらい、あるのかもしれない。
――王家の馬車を見て、そう考えていた。
今回の手紙はやけに早く着いたらしい。
以前は手紙を出してから、三日目の夕方にディランは姿を見せた。
それが今回は二日目の夕方だ。
手紙を受け取った早々に、フェリクスの代理として、ディランが単身でここへ来たと思いこんでいた。
『ご支度されますか?』
ニナはそう問いかけたというのに。
『このままでいいわ。どうせ前も化粧なんてしてなかったし。テオに話も聞いてるし、そんな長い話にはならないはずよ』
すっかり油断して、オレーリアはニナにそう答えてしまっていた。
これまでフェリクスは、オレーリアになんの関心も向けてこなかったのだ。まさか自らここまで来るなんて、思いつくはずもない。
こうしてフェリクスと顔を合わせて話すのは、本当に久しぶりだ。
同じ学園に通う婚約者同士ではあったが、フェリクスがオレーリアのために時間を作ることはなかった。
どれだけ誘いの手紙を送っても、返事さえ返って来ることもなかったのだ。
(私が愛されないはずがないじゃない。フェリクス様はお忙しいのよ)
当時はそう自分に言い聞かせていたが、今なら分かる。
フェリクスは明らかにオレーリアを避けていた。
愛していないどころか、嫌っていたのだろう。
(まあ……悪役令嬢って、人の気持ちに鈍感なものよね)
フェリクスの態度は、今思えば分かりやすいほど露骨だった。
それなのに当時のオレーリアは、都合のいい解釈ばかりしていた。
鈍感ゆえに破滅の道を歩む。
――それが悪役令嬢というものなのだ。
「体の具合はまだ悪いのか?よければ王家の宮廷医をこちらに寄越すが」
「いえ!もうすっかり……とまではいきませんが。主治医に勧められた温泉療養で、順調に回復しておりますわ』
フェリクスを前にしながら、少し思考に沈んでいたようだ。
かけられた声に、うっかり『もうすっかり傷は癒えました』と答えてしまうところだった。
だからと言って、『まだ調子が悪くて……』などと答えては、宮廷医を呼ばれてしまう。
(仮病がバレちゃうじゃない!)
瞬時に頭を回転させて、オレーリアは無難な言葉を選んで返事を返し、ほほと小さく笑う。
「……そうか」
そう短く答えたフェリクスに、オレーリアも「はい」と頷く。
そこで会話は途切れた。
シン……と部屋に沈黙が広がる。
これまで会った時は、一方的にオレーリアが話しているだけだった。オレーリアが口を閉じれば、そこに残るのは沈黙だけだ。
とはいえ婚約者でもなくなった人に、気を使いながら会話を続ける気にもなれない。
オレーリアは口を開くことなく、目の前に腰掛けるフェリクスをただぼんやりと見つめた。
窓から吹き込む夕暮れの優しい風が、フェリクスの髪を揺らしていた。
氷原のように冷ややかな薄緑の髪だ。
甘さなど微塵も感じさせない、極濃のカカオを思わせる冷たい瞳が、考え込むように伏せられている。
アイスペパーミント・グリーンの髪。
ビターショコラ・ブラウンの瞳。
それは『氷冠の王子と翡翠の乙女』の中で、作者がフェリクスを表現していた色だ。
(チョコミント……)
フェリクスを見つめていると、前世高級パティスリーで買った、容赦なくスースーする高価格帯のガチ系チョコミントアイスを思い出した。
市販の甘いチョコミントを期待して買ったのに、ハーブの癖が強すぎた。
『……いや、ただの高級な歯磨き粉じゃん!!』
そう絶望した、あの高価格帯のガチ系チョコミントアイス。
見た目は最高に映えるのに、ちっとも甘くなかった。
「寒いわ……」
「こちらをどうぞ」
思わず呟くと、側に控えていたニナが、ストールをオレーリアの肩にかけてくれた。
それは極上の肌触りのストールだった。




