31.学園階段の記憶
生徒会室を出て廊下を歩き、階段へ差しかかった――そのとき。
階段が目に入った瞬間、足元が揺れた。
(落ちる――!)
目の前に、あの日の光景が広がった。
シルフィの腕を掴んだ瞬間、宙に浮いた身体。
背後へと迫る階段。
忘れていたはずの感覚までが、身体に蘇ってくる。
「――オレーリア嬢!」
誰かの声がした。
次の瞬間、ぐっと腕を掴まれる。
そのまま強い力で引き寄せられ、傾いた身体が階段から遠ざかった。
階段へ落ちるはずだった身体が止まり、オレーリアは息を呑む。
「セドリック……様?」
呆然と見上げると、眼鏡の奥の瞳が驚きに見開かれていた。
「階段を上る時は何も思わなかったのですが……景色が重なって……」
ドクドクと心臓が脈打っていた。
思考がうまくまとまらないまま口から出た言葉に、オレーリアは軽く頭をふる。
「ああ……そうじゃなくて。すみません。セドリック様を巻き込んでしまうところでしたね」
「そういうことではないでしょう」
「え……?ああ、そうね。……お礼ね。ありがとうございます」
まだ混乱の残る頭で、ようやく自分が助けてもらったことを思い出す。
セドリックは、そんなオレーリアを見て小さくため息をついた。
「やはり先ほどは断りましたが……私も馬車にご一緒してもよろしいですか?オレーリア嬢の屋敷まで付き添いましょう」
「それは……いえ、ありがとうございます」
『それは結構ですよ』と返そうとしたが、セドリックに静かに見つめられ、素直にお礼を伝えた。
「下までご自身で下りられますか?私が抱えましょうか?」
「え!それこそ二人で転落事故じゃないですか!」
「あなたという人は……」
セドリックの目が、気遣うものから冷たいものへと変わった。
けれど、その申し出だけは、どうしても受け入れられない。危険しか感じない。
セドリックは、スラリと背の高い超絶美形の頭脳派だ。本を抱えるならまだしも、女性を抱えて歩く姿など想像すらできない。
抱えられた瞬間によろめかれて、そのまま二人で階段を落ちる未来しか見えなかった。
セドリックの冷ややかな視線に、『一人で下りられます』と答えたい。
けれど――また階段に引き込まれそうで、怖かった。
「申し訳ありませんが、腕をお借りしていいですか?あ、私が腕に掴まることで、万一足がふらつくと危ないですから。手すりにはしっかり捕まってくださいね」
そう頼むと、セドリックは苦々しい顔をしながらも、黙って腕を貸してくれた。
オレーリアはその腕をしっかりとつかむ。
無意識に、ぐっと力が入った。
恐る恐る、階段へ足を踏み出す。
一段、また一段。
けれど、しばらく歩いているうちに、次第に気持ちが落ち着いてきた。
オレーリアはようやく、セドリックの腕をつかんでいた手の力を少し緩めることができた。
「こうして腕を貸していただけると、何でもないものですね。今日はセドリック様のお手伝いをして、命拾いしましたわ」
「……そうですね。オレーリア嬢は一人で階段を下りない方がいいでしょう」
返された言葉には同意しかない。
(エレベーターがあればいいのに)
階段を歩きながら、前世へと思いを馳せる。
屋敷への帰り道。
馬車の中から、オレーリアは窓の外を歩く人々を眺めていた。
(あれって……まさかチョコバナナ?)
新しい屋台ができたのだろうか。
通りには、それを手にした人が何人もいる。
棒に刺したバナナにはチョコレートがかけられ、小さくてカラフルなチョコレートまで振りかけられている。
前世で見たチョコバナナそのものだ。
(私なんて気軽に食べられないのに……。平民のくせに贅沢ね)
恨めしさと羨ましさが入り混じった気持ちで、オレーリアは窓の外を眺め続ける。
そこへ、セドリックが御者に声をかけた。
「少し停めてもらえますか?」
馬車が停まると、セドリックはカバンを座席に置いたまま、外へ出ていった。
(何かしら?……まあいいけど)
特に気にすることもなく、オレーリアは再び窓の外へ目を向ける。
歩きながらチョコバナナを食べる人々が、やっぱり羨ましい。
ここにテオドールがいれば。
『あれが食べたいわ。テオ、買ってきてよ』
そう言ってテオドールに買いに行かせ、いつものブティックに向かい、『ドレスを選びたいから、カタログを見せなさい』と店の一室を貸し切って、買い食いを楽しむこともできる。
けれど今、頼りのテオドールはいない。
王都にどれだけ屋台が増えていても、休学中のオレーリアには、学園帰りに買い食いをするという楽しみもない。
ベアトリス王女は、休日も構わず生徒会役員たちを振り回しているようだし、当面の間、買い食いは無理だろう。
(つまらないわね)
少し面白くない気持ちになる。
「お待たせしました。――どうぞ」
「えっ?」
目の前に差し出されたチョコバナナに、思わず声が出た。
「これが食べたかったのではないですか?……私が勝手に買ってきたと言えば、侍女から怒られることもないでしょう?」
どこへ行ったのかと思えば、セドリックは屋台まで買いに行ってくれていたらしい。
しかも、チョコバナナは二本ある。
セドリックも買い食いに付き合ってくれるようだ。
「ありがとうございます……!」
目の前にパッと光が差し込むようだった。
思いがけない贈り物に嬉しくて、オレーリアは満面の笑みでお礼を伝えた。
受け取ったチョコバナナは、前世で見たそのものだ。
思った通り、カラフルな色合いはあのチョコスプレーだった。
ドキドキしながら一口かじると、薄くコーティングされたチョコが、パリッと軽快に弾けた。
噛みしめると、チョコスプレーのつぶつぶとしたポップな食感と、バナナの濃厚な甘さが一気に追いかけてくる。
(これこれ! このカラフルでチープで、最高に贅沢な味わい……!)
公爵家では絶対に食べられないものだ。
夢中になってもぐもぐ食べていると、ふと視線を感じた。
顔を上げると、セドリックがこちらを見ている。
「セドリック様も食べてみてください。クロムウェル伯爵家では絶対に食べられないものですよ」
「そうでしょうね」
そう答えると、セドリックもチョコバナナに口をつけた。
しばらく様子を見ていたが、セドリックは何も言わない。
おいしくなければ、『こんな品格のかけらもないもの、よく食べられますね』などと言ってきそうなのに、黙々と食べすすめている。
(セドリック様って、意外と屋台好きよね)
以前、領地に来たフェリクスは、セドリックのために温泉街まで足を延ばし、屋台のお土産を買っていた。
幼馴染のフェリクスがわざわざそこまでするくらいだ。
もしかすると、セドリックは相当な屋台好きなのかもしれない。
少し思案して、オレーリアはセドリックに声をかけた。
「セドリック様。もしよろしければ、明日からも生徒会の仕事をお手伝いしましょうか?」
「明日からも?」
「はい。療養中の身ですので……学園に通うのは放課後だけで、ベアトリス王女の留学期間中に限りますが」
卒業までの授業内容は、すでに自身で学んでいる。
だからこそ、『療養のため休学したまま卒業』という扱いを変えるつもりはない。
あくまで期間限定、時間限定の手伝いにするつもりだ。
「あんなに仕事を一人で抱えては、セドリック様のお体も心配ですからね。二人で取り組めば、このようにセドリック様も早く帰れますし。もちろん毎日一緒に帰りましょうね」
ベアトリス王女の留学中は、テオドールも何かと忙しいだろう。
テオドールのいない間、屋台の買い食いに付き合ってもらいたい。
「甘いものを食べて疲れを取るのも大事ですから、執務を早く終わらせて、毎日こうして少しだけ寄り道しましょうね。もちろん、生徒会長のフェリクス様が私の手伝いを了承してくださるなら、ですけど」
微笑むオレーリアに、セドリックは呆れた声で「あなたは本当に……」と言いかけたが、それ以上は続かなかった。
「フェリクス様にはお伝えしておきましょう。明日からもお願いします」
「必ず一緒に帰ってくださいね」
さらに念を押すオレーリアに、セドリックは言葉を返すことなく頷いた。




