30.その先にあるもの
セドリックの機嫌は相当に悪そうだ。
額には、ハッキリと青スジが浮かんでいた。
(早く退散した方がよさそうね)
「では私もそろそろ……」
別れの挨拶をしようとセドリックに微笑みを向けたそのとき、思わず言葉を止めた。
繊細な眼鏡の奥にのぞく彼の涼しげな目元に、濃いクマが浮いていたからだ。
眼鏡に隠れて一瞬わからなかったが、白く透き通るような肌だけに、目の下のクマがよく目立っていた。
青を通り越して、黒い。
(なんて顔してるのよ。前世の私みたいじゃない)
残業に追われていた頃、ある日ふと鏡を見たときの自分を思い出した。
表情のない青白い顔に、目元に浮かんだ濃いクマ。
充血した目が死んでいる。
「セドリック様、目元がすごいことになっていますよ。少し休んだ方がいいんじゃないですか?」
「……休む?私が休んだら、他に誰がこの書類を片付けてくれるというのですか?」
返された声が暗い。
「あの王女……ただ王宮で遊んでいればまだいいものを……。毎日、毎日、毎日、毎日、フェリクス様につきまとうだけではなく、この部屋で騒ぐ上に、ディランやテオドールまで連れて歩くせいで、執務は進むどころか溜まる一方なんですよ?とっとと国へ帰ればいいものを……」
地を這う声とはこういう声を言うのか。
そして言葉がセドリックらしくなく、品格を失っている。
握り込んだペンが、ギリギリと音を立てていた。
(相当きてるわね……)
ここで『大丈夫ですか?』と声をかければ、『大丈夫なわけないでしょう?』と返されるだけだ。
自分だって、前世でそんな言葉をかけられたら、『大丈夫に見えるわけ?』と苛立っていたはずだ。
オレーリアは何も言わず、口を閉じた。
やがてセドリックが深く息をはく。
「――まあ、今日はオレーリア嬢のおかげで静かになりましたが。時間がないので門まで送ることもできませんが、お気をつけてお帰りください」
「はあ……」
またペンを走らせるセドリックを見つめながら、オレーリアは思案する。
(どうしようかしら?)
少しくらい手伝っても構わない。屋敷に帰っても、お茶をするくらいだ。特に予定もない。
だが、オレーリアがフェリクスの婚約者だったころ、忙しそうな彼に何度も『お手伝いしましょうか』と声をかけ、そしてあっさりと断られていた。
生徒会の仕事は、外部の者に手伝われたいものではないのかもしれない。
けれど――
あんな顔をしている人間を放って帰るのも、どうにも気が引けた。
目の下に濃いクマを浮かべ、限界まで仕事を抱えていた前世の自分と重なって見える。
それを見ていると、どうにも胸が重かった。
「セドリック様、一人で抱え込みすぎではないですか? よかったらお手伝いしましょうか? 資料のまとめとか、計算くらいならできますよ」
書類に目を落としていたセドリックが、顔を上げる。
「――よろしいのですか?」
「別にいいですよ。帰ってすることもないですし。どちらから手をつけた方がいいですか?」
疲れて判断力が鈍っているのだろうか。
意外にもあっさりと提案を受け入れたセドリックが、書類の束を手渡した。
パラパラとめくると、数字がびっしりと並んだ予算集計表だった。
「ああ……これなら」
説明を受けるまでもない。
オレーリアは空いている席に腰掛け、早速ペンを走らせた。
カリカリと、ペンを走らせる音だけが部屋に響く。
「ずいぶん手慣れているのですね」
「領地では暇に任せて、領地経営の真似ごとみたいなことをしていましたから。ひと通りのことは学んでますし。間違いはないと思いますが、念のために後で見直してくださいね」
答えながら、オレーリアはサラサラとペンを動かす。
こんな書類は領地での日常だった。
決して楽しいわけではないが、嫌いでもない。
「オレーリア嬢は、あのようにフェリクス様にまとわりつくベアトリス王女を見ても、何も思わないのですか?」
「え?別にいいんじゃないですか?婚約は解消されてますし。グラン国とは繋がりを持っても、メルバ国に損はないでしょう?うちの事業も関係する国ですから、お父様も喜んで祝福しますよ」
「オレーリア嬢は……」
「うるさいわね。集中できないじゃない」
なおも何か言おうとするセドリックを、オレーリアは遮った。
計算しているところに声をかけられるほど、苛立つものはない。
静かになった部屋に、再びペンを走らせる音だけが響いていく。
「……終わったわ。ニナ、飛び切り甘いケーキが食べたいわ」
最後の書類を終え、ペンを置いたオレーリアは顔を上げた。
そして、ここが領地ではないことに気づく。
「あら、失礼しました」
そう言って壁の時計に目を向けると、思ったよりも時間は経っていなかった。
「もう少し片付けましょうか?まだ時間はありますし」
「……いえ。もう十分です。今日までに終わらせたいと思っていたものは、とっくに終わりましたし。オレーリア嬢の書類も何枚か確認しましたが、不備はありませんでした。残りの確認は明日にして、私も今日はここまでにしようと思います」
「そう? 確かにセドリック様は、少しお休みになった方がいいですよ。その目元……とても心配です」
じっとセドリックの顔を見つめると、セドリックは一瞬だけ目を見開いた。
「……オレーリア嬢が、私を気遣ってくださるとは意外ですね」
「もちろんではないですか。だって……」
(だって、前世の私に似てるのよ)
そう続けようとして、オレーリアは慌てて口を閉じた。
セドリックは黙ってオレーリアを見つめている。
まさか、今の言葉の続きを聞こうとしているのだろうか。
けれど、オレーリアにはそれを口にすることなどできない。
「だって死相が出てますから。過労の先にあるものですよ」
「あなたという人は……」
さりげなく言い換えた言葉に、セドリックが声を低くする。
「オレーリア嬢。言葉使いに貴族令嬢としての品格を持ちなさい。そのような言葉は人に向けるものではありませんよ」
「ええ?だって本当じゃないですか。セドリック様、鏡見てくださいよ。過労を軽く見ては大変なことになりますよ」
前世の自分を思い出し、オレーリアは口を尖らせる。
オレーリアの言葉に、セドリックがセロリをそのまま噛み潰したかのような苦々しい顔を見せていた。
「帰るなら、うちの馬車で送りますよ。そんなに疲れていては、足元がふらついて転んでしまうかもしれませんし」
前世、足を引きずるようにして帰っていた自分の帰路を思い出し、オレーリアはさらに声をかけた。




