03.領地での日々
窓から吹き抜ける柔らかな風が心地よい。
温かな日差しに包まれながら、オレーリアはゆっくりと紅茶を口に含んだ。
上品な茶葉の香りが鼻に抜ける。
(公爵令嬢は最高ね……)
権力と財力があるというのは最高だ。
『療養』という名目で、すでに治った足首の捻挫を理由に、学園もそのまま休学扱いとなり、復学せずとも卒業資格を得られることになった。
――全てお父様のおかげだ。
ローゼンベルク公爵家は、広大な領地の中に幾つもの別荘を持っている。
以前は片田舎すぎてそれほど好きになれなかった温泉地を、今は滞在先に選んでいた。
温泉は、前世のオレーリアにとって最高の贅沢だった。
それが今は、別荘の中に作られた豪華な貸し切り温泉を好きなだけ楽しめるのだ。
温泉効果でお肌は以前に増して艶やかだ。
(王都にいるより気楽じゃない?一生ニートでも、お父様とお母様なら『側にいるのがなによりだ』とか喜んでくれそうだし)
優雅に紅茶を嗜みながら、オレーリアはニートな未来に思いを馳せる。
とても口当たりのいい紅茶だ。
これまで気にしたこともなかったが、前世で飲んでいたティーバッグの紅茶とは明らかに風味が違う。
(当たり前じゃないってことに気がつくのは、ほんと大事よね)
前世を思い出したことで、これまで当然だと思っていた公爵令嬢としての日常を、今のオレーリアはしみじみと噛みしめていた。
今までは、望んだものは与えられるのが当たり前だった。欲しい物は必ず手に入り、食べたい物はすぐに用意される。
贅沢な生活の何もかもが当たり前すぎて、その価値に気づいていなかったのだ。
――前世で当たり前だと思っていた生活とは、あまりにも違う。
前世では、仕事で追われるのは日常だった。
『あれ食べたいな』『これ欲しいな』と思っても、『今月ピンチだし』と我慢することも、当たり前だった。
それが今では、ポツリと呟く言葉ひとつで、望むものが手に入る。
今オレーリアが飲んでいる紅茶もそうだ。
『喉が渇いたわね』
何気ない呟きひとつで、すぐにティーセットが用意された。
『ここは王都のような華やかな菓子はありませんが……』
そう言って申し訳なさそうに料理人から差し出されたお菓子は、焼きたてのクッキーだった。
公爵家お抱えの料理人が焼いたクッキー。
――控えめに言っても最高ではないか。
(なんでこれまで、『あそこの新作スイーツじゃなきゃ嫌よ!』なんて喚いてたんだろう)
今となっては、これまでの自分の気持ちがよく分からないくらいだ。
ひとつクッキーを手に取って口に運ぶと、サクッと軽い歯触りだった。
焼きたてのサクサククッキーは、最高に贅沢だ。
(フェリクス様から愛されるのも、当たり前って思ってたのよね)
以前は、次期王妃の立場に立つのは自分が一番相応しいと思い込んでいた。
権力も財力も、美貌さえも持つ自分ならば、フェリクスに愛されるのは当然だった。
だからこそシルフィに、フェリクスが向ける眼差しが許せなかったのだ。
(男爵家の身分の卑しい女ね)
そう本気で思い込んでいた。
だが、ネット小説のヒロインとヒーローは、いつだって想いだけで身分を越えて結ばれる。
(シルフィはあんなに綺麗な高級シャインマスカット・カラーだもの。あんな瞳を見せられたら、フェリクス様の心が動いたって不思議じゃないわ)
今となってはそう思う。
(でもまあ――私も美人だけど)
とはいえ、オレーリアはそうも思う。
以前、自分ほど美しい者はいないと思い込んでいたが、こうして前世の記憶を取り戻した今も、その思いは実はそれほど変わらない。
『この世界一』の美貌かは置いておくとしても、オレーリアはかなりの美人だ。
気合いを入れて化粧をすれば、息を呑むほどの美貌になる。
(今は肌を守るクリームくらいだけど)
オレーリアは頬に手を当て、ふと思いついて席を立った。
そのまま姿見の前に向かう。
この領地に来て、オレーリアは化粧をすることはなくなった。
領地にこもるオレーリアは、人と会うこともない。
気合いを入れた顔を見せる必要はない。
それでも――鏡に映るオレーリアは美しい。
温泉効果で艶を増した肌は、むしろ化粧をしない方が美しく見える。
陶器のようになめらかな肌だ。
(それにしても……)
オレーリアは鏡に映る自分をまじまじと見つめる。
ショコラ・オランジュ・カラー。
『氷冠の王子と翡翠の乙女』の中で、作者がオレーリアの色をそう表現していた。
オレーリアは、艶やかなビターチョコレートブラウンの髪に、鮮やかなオレンジゴールドの瞳をしている。
(確かにこれ、ショコラ・オランジュそのものだわ。前世なら、一年に一度だけ奮発して買う高級オレンジピールチョコの色じゃない)
気品があって華やかな色合いは、まるで高級デパ地下スイーツのようだ。
控えめに言っても最高で、満足しかない。
「ショコラ・オランジュが食べたいわ……」
「すぐにご用意いたします」
何気なくポツリと呟いたオレーリアの言葉に、侍女のニナがしっかりと頷いた。
――公爵令嬢はやっぱり最高だ。
「お嬢様。クロムウェル伯爵家の御令息様からお手紙です」
ニナが部屋に戻ってくると、ショコラ・オランジュと共に一通の手紙が差し出された。
上質ながらもシンプルな、その白い封筒に見覚えがある。
「あら?またディラン様?」
手に取って裏を見ると、ディラン・クロムウェルの名が刻まれていた。
「ほんと律儀な人よね。『もう気にしないで』ってあれだけ言ったのに。誠実も過ぎると生き辛そうね」
父がありとあらゆる薬を取り寄せたおかげで、オレーリアの傷はすでに完治している。
左肩から二の腕にかけて伸びる傷跡は残ったものの、今では薄くなり、痛みもない。普段の生活の中で、痛みのない傷を思い出すこともない。
普段着ているドレスは、傷が隠れる長さのものだし、入浴するときに、ふと傷跡が目に入るくらいだった。
ディランからの謝罪はすでに受け入れ、むしろ感謝の気持ちを込めた手紙も何度も返している。
それでも直接謝罪したいと届く手紙に、この領地まで来てもらったこともある。
そのときはっきりと『気にしておりませんわ』と伝えたつもりだが――
いまだにディランは気にしているようだ。
手紙を開くと、几帳面な文字と文面が目に入った。
捻挫をした足と腕の怪我の経過を問われ、もし学園に戻り、生活に不自由あれば手伝いたいとの申し出が、報告書のように理路整然と綴られていた。
以前ディランが領地を訪ねてきた頃には、足も腕もすでに完治していた。
だが、オレーリアは『療養』を建前に休学扱いとしている。
『酷い捻り方をしたようで、まだ時間がかかりそうですの』
そう説明したのがいけなかったのだろうか。
(もう少しちゃんと伝えようかしら)
「ニナ。ディラン様に返事を書くわ。紙とペンを用意してちょうだい」
オレーリアが今、領地で心穏やかに過ごしていることを知れば、ディランの罪悪感も軽くなるかもしれない。
フェリクスの護衛として何度も顔を合わせてきたディランだが、まともに言葉を交わしたことはない。
何を書けばいいのか分からず、まずは近況から書き始めた。
時間だけはあるので、頭に思い浮かぶことをゆっくりと書き連ねていく。
「ふう……書けたわ」
(なんだか……日記みたいな手紙になったわね)
気づけば何枚もの便箋に、オレーリアの日常を書き連ねていた。
好きな食べ物や温泉の話、今日の出来事や領地の生活など、取り留めもないことばかりだ。
「ニナ。この手紙を出しておいてくれる?お願いね」
封をした手紙をニナに託す。
今度こそディランに、オレーリアがこの地で心穏やかに過ごしていることが伝わるだろう。




