02. 『氷冠の王子と翡翠の乙女』
ここは、ネット小説『氷冠の王子と翡翠の乙女』の世界だ。
『氷冠の王子と翡翠の乙女』は、メルバ国を舞台に悪役令嬢が断罪される王道の恋愛小説だった。
毎日決まった時間に少しずつ更新されるこの小説を、前世では朝の通勤電車のちょっとした楽しみにしていたのだ。
ヒロインはシルフィ。
淡い金髪に翡翠色の瞳を持つ、ルミエール男爵家の令嬢だ。
彼女は特待生として学園に入学し、生徒会で『氷の王子』と呼ばれるフェリクスと出会う。
男爵令嬢と一国の王子。
本来なら、二人が言葉を交わすことすらありえない身分差だった。
けれど特待生であるシルフィには、生徒会への所属が義務付けられている。
生徒会長のフェリクスの側で過ごすうち、二人は少しずつ距離を縮めていった。
『氷の王子』と呼ばれ、いつだって冷静沈着だった王子が、シルフィの前でだけ少しずつ表情を見せるようになる。
だが、それを面白く思わない者がいた。
――それがオレーリアだ。
『氷の王子』フェリクスは、一度だってオレーリアに笑顔を向けたことなどなかった。
自分には決して向けられることがない笑顔を、フェリクスはシルフィにだけ見せる。
そんなシルフィをオレーリアは敵視していた。
甘やかされて育った、我儘で傲慢な公爵令嬢のオレーリアに逆らえる者はいない。
オレーリアは人を使い、シルフィへの嫌がらせを繰り返した。
そしてついには、階段からシルフィを突き落とそうとする。
シルフィへの数々の嫌がらせの報告を受けていたフェリクスは、オレーリアを警戒していた。
しかし、公爵令嬢であるオレーリアを証拠もなく糾弾することはできなかった。
確かな証拠を得るため、表立って動くことはせず、護衛のディランにシルフィの警護を命じていた。
そのため、その場にいたディランがシルフィを受け止めたことで、彼女は無傷だった。
それでもフェリクスはオレーリアを許さなかった。
その場でオレーリアに婚約破棄を告げ、国外追放を言い渡す。
その後、フェリクスとシルフィは互いの想いを伝え合い、結ばれた。
――よくある悪役令嬢の物語だ。
「ほんと危なかったわね……」
こうして改めて思い出すと、あの時どれだけギリギリの状況にいたのかを痛感する。
あのまま咄嗟にシルフィへ手が伸びなければ、今ごろオーレリアは国外へ追放されていた。
――いや。
我儘放題で育った公爵令嬢が、突然ひとりで世間に放り出されて、無事に生きていけるとは思えない。
そもそも国外まで辿り着けたかも怪しいところだ。
(ほんと、作者様よね)
オレーリアは思わずふふっと笑う。
そもそも『氷冠の王子と翡翠の乙女』を読み始めたのは、お気に入りの作家の新作だったからだ。
なんの仕事をしているのかは分からないが、作品の中でやたらとフルーツとスイーツの描写が多い作家だった。
仕事終わりの小さな贅沢を噛み締めているような描写だった。
おそらく、だが。
あの作家も社畜経験者だ。
数々の作品から、前世のオレーリアと同じ、残業に追われる日々を送っていた気配が伝わってきた。
そこに親近感を持って、新作が出るたびに何となく読んでいたのだ。
あの日、あの瞬間。
オーレリアが前世を思い出したきっかけは、特徴的なシルフィの瞳の色だった。
シャインマスカット・カラー。
――あの作家が、作中で何度も使っていた表現だ。
光を受けたときのシルフィの翡翠色の瞳を、そう表現していた。
あの日、シルフィの瞳は、窓から差し込む光を浴びて信じられないほどみずみずしい緑に輝いていた。
『あ……これ、あの1房数千円した、仕事を頑張ったご褒美のシャインマスカットのみずみずしい果肉の色だ……!』
脳裏に強烈に蘇ったのは、前世のシャインマスカットだった。
一年に一度のご褒美フルーツなのだ。
階段から落ちるところを、見逃せるはずがない。
シルフィを助ける思いで手を伸ばしたというより、実は高級フルーツのシャインマスカット惜しさのために伸ばした手だった。
命の危機より先に、脳裏に浮かんだのは――シャインマスカットだった。
(命よりフルーツって。まあ……こういう残酷なところが、悪役令嬢らしいわね)
オレーリアがシルフィを敵対視してきたのは事実だ。
これまでのオレーリアは、シルフィに数々の陰湿な嫌がらせもしてきた。
人が自分をどう思うかなんて、今まで気にしたこともなかったが、今ならわかる。
最近のフェリクスがオレーリアに向ける眼差しは侮蔑の色を含んでいた。
『氷冠の王子と翡翠の乙女』で描かれていたように、フェリクスはずっとオレーリアとの婚約破棄を望んでいたに違いない。
むしろ、よくあそこまで我慢してくれていたものだ。
後ろ盾となる公爵家との婚約というしがらみさえなければ、とっくに見限られていただろう。
「まあ、私から婚約解消を申し出れば、フェリクス様にとっても願ったり叶ったりでしょうね」
前世を思い出したからといって、これまでの記憶が消えたわけではない。
婚約解消を喜ぶフェリクスを思うと、胸はズキリと痛んだ。
(フェリクス様……)
少し切ない気持ちになったが、ハッと思い直す。
『氷冠の王子と翡翠の乙女』でフェリクスは、あの場でオレーリアを断罪した。
――ずっとその機会を待っていたのかもしれない。
(危ないわ……婚約解消が成立しても、フェリクス様がシルフィと結ばれるまでは油断大敵ね)
このまま学園でフェリクスとシルフィの仲睦まじい姿を見れば、嫉妬心が再燃しないとも限らない。
今は冷静でいられても、あの二人を見続ければ心がどう揺れるか分からなかった。
(このまま療養という形で、領地に住もうかしら?)
危険要素から遠く離れてしまえば、あの二人に感情を揺さぶられることもないだろう。
学園にはオレーリアの取り巻きも数多くいるが、『氷冠の王子と翡翠の乙女』で、断罪されるオレーリアに助けの手を伸ばす者はいなかった。
皆が自分を慕っていると思い込んでいたのは、オレーリアだけだったのだろう。
多くの者に囲まれていたはずなのに、オレーリアには友人と呼べる者が一人もいなかった。
(まあ……確かに、今の私から見ても、オレーリアって十分いい性格してるもの)
ふう……とため息をついたところに、部屋がノックされる。
ニナが両親を呼んでくれたようだ。
「お父様。お母様。ご相談……というより、お願いがあるの」
少し緊張しながら、オレーリアは両親にフェリクスとの婚約解消と領地での療養を願い出た。
フェリクスとの婚約には、当然ながら政略的な意味合いもある。娘に激甘な父といえど、簡単には頷いてもらえないだろうと思っていた。
だが――
「分かった。オレーリアが望むなら、すぐにでも話を進めよう」
「あなたが辛い思いをする必要なんてないわ」
両親はあっさりとオレーリアのお願いに頷いてくれた。
どうやら両親は、王子との婚約よりも、オレーリアの気持ちの方を大切にしてくれるらしい。
そこから早速父は王宮に向かい、婚約解消を申し出た。
その後、王宮から帰った父の話では、フェリクスは顔色ひとつ変えず、『分かりました』と頷いたらしい。
予想通りではあったが――フェリクスがどれほどこの婚約解消を望んでいたのか、嫌でも分かってしまった。
こちらから婚約解消を申し出たというのに、あまりにもあっさりと了承したフェリクスの態度に、父は怒りを露わにしていた。
『第一王子フェリクスの後ろ盾を降りる!』
帰ってくるなり、そう言い切るほどだった。
けれどオーレリアは、それを聞いても父を止めようとは思わなかった。
このまま婚約解消の手続きは滞りなく進められることはすでに決まっている。
フェリクスとはもう他人になる。
フェリクスに対する恨みはない。けれど、もう彼のために動く理由もない。
(別に誰が王になっても、私の生活が変わるわけでもないし)
この先領地に引きこもるつもりでいるオレーリアが、二度とフェリクスと顔を合わせるつもりはない。
ローゼンベルク公爵家の後ろ盾を失ったところで、第一王子であるフェリクスの立場が揺らぐわけではない。
きっと何も問題はないだろう。
(さようなら、フェリクス様)
オレーリアは、心の中で別れの言葉を彼に向けて呟く。
まだ、ほんの少し気持ちが引かれる気はする。
それでもスッキリとした気持ちは確かにあった。
この寂しさも、時間が経てば薄れていくはずだ。




