01.プロローグ
その見開いた瞳に、息を呑んだ。
光を透かす、透き通ったみずみずしいライトグリーンの瞳。
彼女は――シルフィだ。
その瞳がきらりと輝いた瞬間、忘れていた記憶が弾けるように蘇った。
「待って!」
手を伸ばし、落下しかけたシルフィの腕を、咄嗟にオレーリアは掴んでいた。
ふわりと舞うシルフィの淡い金髪を払い、 彼女の勢いに巻き込まれながらも、その腕を力いっぱい引き寄せる。
これを火事場の馬鹿力というのだろうか。
遠心力を利用して、強引に彼女の体と入れ替わる。
すると今度は、階上へ引き戻されたシルフィに代わって、オレーリアの体が宙に浮いた。
(……終わった)
視界が上下に反転する。
前世を思い出した瞬間、オレーリアの人生が終わろうとしている。
オレーリアはシルフィに代わり、背後へ、真っ逆さまに階段から転げ落ちようとしていた。
せっかく公爵令嬢に生まれ変わったというのに――
その幸運を噛み締めることなく、この人生は幕を閉じるようだ。
掴むものもなく、宙に伸ばした自身の手を眺めながら、オレーリアはその運命を受け入れた。
重力に引かれるまま、ドレスの裾がふわりと視界を覆う。
しょせん自分は、悪役令嬢だ。
婚約者のフェリクス王子に近づく、ヒロインのシルフィに嫉妬して、彼女を階段から突き落とし、後に断罪される破滅の道しか残されていない。
(どうせ詰んだ未来だわ……)
背中から迫る硬い石段を予感しながら、この先短い運命を受け入れて、オレーリアは目をつむり、待ち受ける衝撃を覚悟した。
◇
受け身も取れないままに、階段の最上階から落ちたのだ。
あのまま終わる人生を覚悟したが――オレーリアは無事だった。
怪我ひとつなく、とまではいかなかったが、右足首の捻挫と、左腕に残る傷跡ひとつで救われた。
あの時、意識を失ったオレーリアを助けたのは、フィリクスの護衛のディランだ。
彼がとっさに受け止めてくれたおかげで命は助かった。
しかし、その拍子に彼の腰に下がっていた剣の鞘の金具が、オレーリアの左腕を深く切り裂いた。
今は白い包帯が巻かれていて、傷の具合は見えないが、傷跡はこの先完全に消えることは難しいらしい。
『傷そのものは治るでしょう。ですが、全く元通りにとはいかないかもしれません』
震える声でそう話し、目を逸らす主治医と、泣き腫らした母の顔を見て、目立つ傷跡として残ることを悟った。
オレーリアはもう、以前のように腕を見せるドレスを纏うことはできないだろう。
これまでのオレーリアなら、こんな耐えがたい現実を受け入れられるはずもなく、絶望しただろう。
『医者なんだから、なんとかしなさいよ!』
そう言って泣き喚き、侍女にも当たり散らしていたはずだ。
けれど前世を思い出した今、オレーリアの心は凪いでいた。
腕の傷跡がなんだというのだ。
オレーリアは公爵令嬢だ。
腕が見せられないなら、腕を隠すデザインのドレスをあつらえればいい。
そもそも今着ている肌触りのいい上質な部屋着でさえ、前世の感覚からすればドレスのように華やかだ。
部屋着でこれなのだ。
腕を隠すドレスになったくらいで嘆く気にはなれなかった。
それに何よりも――
シルフィを助けたことで、オレーリアの断罪の未来は消えた。
残る傷跡は、運命を変えた証だ。むしろ誇らしい。
そして、その命を救ってくれたのがディランだった。
階段から落ちるオレーリアを受け止めてくれたディランからは、丁重な謝罪の手紙まで届いていると聞く。
けれどオレーリアとしては、ディランに感謝しかない。
彼のおかげで、運命を変えるための未来が残されたのだから。
ふと思いつく。
(そうだわ。この残る傷跡を理由に、フェリクス様の婚約者も辞退しちゃおうかしら)
この世界は、フェリクスとシルフィが結ばれる物語――『氷冠の王子と翡翠の乙女』の舞台だ。
自分を断罪する男にしがみついたところで不幸しかない。
「ニナ。お父様とお母様を呼んでちょうだい」
オレーリアは、部屋に控えていた侍女のニナに声をかける。
娘に激甘な両親だ。
これが政略的な意味合いも含まれた婚約だったとしても、『オレーリアがそれを望むなら』と、すぐに婚約解消を取り付けてくれるだろう。
(この傷跡のおかげで、婚約解消の理由までできそうね)
王子の婚約者ともなれば、社交の場で人前に立つことも多い。
目立つ傷跡を理由に、王子の隣に立つには相応しくないと伝えれば、きっと受け入れられるだろう。
侍女のニナが部屋を出ていくのを見送りながら、オレーリアはふかふかの枕に背中を預けた。
薬が効いているのか、捻挫をした足首も、深い傷を受けた腕も痛むことはない。
(どうしてもっと早く思い出せなかったのかしら……)
もっと早く思い出していれば、フェリクスにあれほど執着することもなかった。
シルフィに向ける彼の想いに嫉妬し、憎しみに囚われる日々を過ごすこともなかったのだ。
オレーリアの意識は、前世で読んだ『氷冠の王子と翡翠の乙女』の記憶へと流れていく。




