10. 窮鼠ばかりの江戸の町
綾はごくりと喉を鳴らし、蝦夷錦を掛けておいたはずの松の枝を凝視していた。が、見えなくなったものが都合よく浮かび上がってくるわけもなく、次第に青ざめながら周囲に目をやる。
どこかに飛ばされてしまったのだろうか。
綾は足袋のまま庭に飛び降りた。
ぐるりと辺りを何度も見回してみる。植え込みの間をかき分け、誰も居ないことを確かめては大振りの木にちょいと足を引っかけて高い所から眺めてみたり、ひと際存在感を放っているはずの蝦夷錦の姿を求め続けた。
だが、どこを探しても蝶の羽衣は見当たらなかった。
もしや屋敷の外に飛ばされたのであれば、一大事だ。綾はこけつまろびつ廊下を走りだした。
「なんです、そのように大慌てで」
いつものこと、と奥方が呆れながらも声を掛けるが、綾は「大変申し訳ございません!」とこれまた奥方が顔をしかめるような大きな声と共に走り去った。
「あの子は全く、嵐のようね。折角おいで下さったのに、あなたに気付きもしないなんて」
後ろの精一郎を振り返り、小言を言いつつも奥方はなぜか嬉しそうであった。こほこほと上品に咳をもらし、精一郎は「御免」と綾を追いかけた。
「綾殿。今度はどうなさいました」
精一郎は咳き込みながら、猪のような鼻息をもらす綾の背中に声をかけた。びくりと肩をそびやかし、綾はおそるおそる振り返る。
精一郎だった。奥方様でなくてよかった。そして、中山様でなくて本当によかった。
「お風邪だったのでは」
「大事ありません。本日道場はお休みにしました。ですが丁度こちらにも用がありましたので。それより、何をそんなに慌てているのです」
一瞬間があり、綾はねずみのように世話しなく辺りをきょろきょろと見回している。
「こちらに来るとき、何か、落ちていなかった?」
「何かとは」
「蝦夷錦」
「何故蝦夷錦が路傍に落ちているのでしょう」
小首をかしげながら、精一郎はほっそりとした顎に手をかけた。
「だから風に飛ばされたかもしれなくって、ねえ、本当に見なかった?」
半分怒ったような口調になる綾であったが、精一郎に罪はない。精一郎は困惑しながらも険しい表情を浮かべ始めた。
「何をどうすれば蝦夷錦が外に飛ばされるんです。そもそも、最後に見かけたのは何処でです」
「庭」
やや間を置いてから、綾は消え入るような声で言った。
「庭」
精一郎は繰り返した。
「蝦夷錦を庭に?庭とおっしゃいました?」
「だって、綺麗だから、見たかったから、道場のお庭の松の枝に……。でもきちんとかけておいたのよ、だから無くなるはずなんてないのに」
あああ、とうめきながら精一郎は、その端正な顔に絶望を浮かべていた。
精一郎は充分に熟知していた。
何かにつけ、三保之介を話題にする綾は、どこから見ても彼に恋する乙女であった。
自分も幾たびか三保之介が蝦夷錦で舞う姿を見たことがあるが、確かにあれは見る者全てを虜にする類のものだ。
三保之介には迷いが無い。言葉のひとつひとつも、剣筋においても、ましてや余興の舞で華麗に突き出される指先や、朗々と歌い上げる彼の故郷の歌ですら真っ直ぐに人々の心に飛び込んでくるのは、彼の誠の心に他ならない、と精一郎は師範代を観察していた。
当然ながら毎日のように三保之介と顔を合わせている綾が惹かれないわけもない、と精一郎は講義をしつつ冷静に分析する日々が続いていた。
が。
よりによって夏目様の大切な蝦夷錦を……。どうせ一時でもひとり占めしようとして松の枝に引っ掛けておいたのだろうが。あまりにも分かりやす過ぎる綾の行動に、怒りすら覚え始める。普段は温和と言われている精一郎が、である。
熱っぽい額をぶんぶんと横に振り、精一郎は「どうしよう、怒られるわ」と涙目になる綾を間髪入れず叱責した。
「そんなことを言っている場合ではないでしょう!万が一風に飛ばされて外に落ちたら、誰かに拾われてしまうに決まってるじゃないですか」
自分で言いながら、精一郎は気付いてしまった。
見覚えのある小汚い童っぱが夏目邸の近くで、衣のような物を小脇に抱えて走り去ったことを。
そしてその童っぱは、勝小吉が引き連れて歩く弟分の一人だった。ような気がした。
あっ、と短く呟き、精一郎は咳き込みながら思わず綾の両手を取る。
「至極残念ですが、間違いなく盗まれてます」
***
「おめえ、おいらに内緒で夏目様んとこに忍び込みやがったのか!あそこはおいらのシマでぃ。それを断りもなく!おいらの顔に泥を塗りやがって!」
盗人の長、勝小吉は子どもの胸ぐらを掴み、ややあってから怯えた子どもを乱暴に突き放した。
綾がいなければ、さんざんに舎弟を殴り倒していた。
だが、綾の前では寛容さも見せつけねばならない、複雑な胸中の小吉である。
南割下水の蕎麦屋で景気よく蕎麦をすすっていた小吉であった。子分の一人が「いい仕事してきやした!」と天ぷらまで気前よく勧めてきた。
それが何もかも綾から、もとい夏目の殿様の持ち物が銭の出どころと知ってしまったからには、小吉の怒りは収まるはずもない。
「そもそも盗みはよくありません。改めてお教えしますが、小吉さん。夏目様のものは夏目様のものです」
精一郎はしごく真っ当なことを口にした。
「あんなにたくさんあるんだからよう、一枚くらいどうってことねえと思って……でも兄者、御免よ」
精一郎の小言をいつものように受け流しつつ、少年のもごもごとした言い訳を聞きながら、小吉は苦み走った顔を崩さない。それは親分としての矜持でもあった。
「それより早く蝦夷錦を返して。返してくれたら誰にも言わないって約束するわ。あんな所に置いた私も悪いのだし。ね?」
全ての元凶は自分にある、とさすがに綾も今回ばかりは痛感していた。兎にも角にも、蝦夷錦を夏目邸に持ち帰ることが自分の使命である。
だが少年の言葉は、綾をより一層深い谷間に突き落とすに等しいものにしか他ならなかった。
「ここにはねえ」
困惑しつつも、綾は一応聞いてみた。
「無いって、何処に」
「古物屋だよ。銭なら返す。それで取り返して来たらいいじゃねえか」
「馬鹿野郎!」
少年が懐から手を出すや否や、小吉がとうとう少年の後頭部をぶん殴った。
倒れこんだ少年の胸元からばらばらと銭が飛び出し、綾達はしばし時が固まったままのようであった。
いやいやながらも先陣を切り、精一郎が咳き込みながらこの世の終わりを告げるがごとく呟いた。
「残念ながら、蝦夷錦は、こんな値で買い戻せません」
「こんなはした金で、簡単に騙されてんじゃねえよ!」
綾は足元に散らばる一文銭を眺め、小吉の罵声が遠のいていく気がした。