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わかった

第九話 視点:根古 親司


---


 五十八年生きて、「わかった」という言葉をそんなに軽く使ってきたつもりはない。


 でもあの夜、三枝が話し終えたとき、俺の口から出たのはその二文字だった。


 後悔はしていない。


---


 三枝康介という男を、俺は一週間前から調べていた。


 介入が早すぎた。それだけで充分、何かがある人間だとわかる。でも調べてみると、経歴は綺麗だった。三十年、一度も問題を起こしていない。上からの評判も悪くない。賄賂の痕跡もない。


 つまり、組織の手先ではない。


 では何のために動いているのか。


 ラクカで顔を合わせたとき、答えが出た。目を見ればわかる。恐怖と焦りと、それを必死に抑えている理性。あの目は、自分自身のために動いている人間の目じゃない。


 誰かのために動いている人間の目だ。


 奈々子、十四歳。


 三枝が話し始めたとき、雨月は手帳を出そうとした。俺は目で制した。雨月は少し迷ってから、手帳をしまった。


 正解だった。あの場で記録を取り始めたら、三枝は全部話せなかった。


---


 三枝が帰った後、雨月と二人になった。


 太田はカウンターの奥にいた。俺たちの話を聞いているのか聞いていないのか、いつものようにわからなかった。でも太田がいる場所は、俺にとって安全な場所だ。二十年来、そうだった。


「根古さん」雨月が言った。「あなたは何者ですか」


 今夜で三度目だ。三枝にも、雨月にも、澪にも聞かれた。


「ただの市民だ」


「それは聞きました」


「じゃあ答えは出てる」


 雨月は少し黙った。コーヒーを見た。


「三枝さんの話、信じますか」


「信じる」


「根拠は」


「目だ」


 雨月がまた黙った。今度は長かった。


「……私は、正規の手続きで動きたい」


「わかってる」


「でも今回は、それだけじゃ足りないかもしれない」


「わかってる」


「根古さんは、どう動くつもりですか」


 俺はコーヒーを飲み干した。太田が新しいのを注いだ。


「ラルゴと会う」


 雨月が俺を見た。


「会えるんですか」


「わからん。でも、向こうが動く気になっている。星野由紀子からのメッセージに、既読がついた」


「……星野由紀子を知っているんですか」


「少し、な」


 雨月はまた何か聞こうとして、やめた。賢い男だ。今夜聞けることと、聞けないことの区別がついている。


「私にできることは何ですか」


 俺は少し考えた。


「三枝さんを守れ。あの人は今、正規と非正規の間を歩いている。どちら側にも足を踏み外したら終わりだ。お前が綱を持っていてくれ」


 雨月は黙ってうなずいた。


---


 翌朝、澪が来た。


 ラクカの裏口から、いつものように。


「師匠、昨夜また来てたんですね」


「お前には関係ない」


「三枝さんという人と会ったでしょ」


 俺は澪を見た。


「なぜ知っている」


「昨夜、外から見えました」


「尾行したのか」


「通りかかっただけです」


 嘘だ。でも追及しなかった。澪の目が真剣だったから。


「師匠、私も連れていってください」


「どこに」


「ラルゴを探すなら」


 俺はしばらく澪を見た。二十一歳。学生。でもこの目は、ただの学生の目じゃない。


「なぜそこまでする」


 澪は少し間を置いた。


「師匠が動くから、です」


 それだけだった。


 理由としては薄い。でも俺には、その薄さが重かった。


「……足手まといになったら、すぐ引き返せ」


「はい」


「返事が早い」


「考える必要がなかったので」


 太田が奥で笑う気配がした。うるさい。


---


 昼過ぎ、スマホに短いメッセージが届いた。


 送信者:星野由紀子。


 文面:「今夜、会える?」


 俺は少し考えた。


 星野由紀子との付き合いは、長い。長いが、深くはない。互いに、踏み込まない距離を保ってきた。あの女が自分から「会える?」と聞いてくるのは、記憶にある限り初めてだった。


 つまり、ラルゴが動いた。


 返信した。「いつでも」


 すぐに返事が来た。場所と時間。


 夜八時。可児市内の、小さな公園。


---


 夕方、ヤマトに餌をやった。


 黒猫は皿の前で俺を見上げた。何か言いたそうな目だったが、何も言わなかった。当然だ。猫だから。


「留守番頼む」


 ヤマトは返事をしなかった。食べ始めた。


 俺はジャケットを着た。


 玄関を出る前に、少し立ち止まった。


 五十八年生きて、こういう夜が何度かあった。何かが変わる前の、静かな夜。空気の質が少し違う夜。


 今夜もそうだった。


---


 公園には、先に星野が来ていた。


 ベンチに座っていた。隣に、若い女が二人いた。西野千紗都と古田麻尋。俺は二人の顔を知っていた。調べていたから。


 そして、もう一人。


 ベンチから少し離れた場所に、男が立っていた。


 背は高くない。普通の格好。でも立ち方が違う。重心が低い。周囲を見ていないようで、全部見ている。


 右足に、わずかな癖があった。


 ラルゴだ、と俺は思った。


 男が俺を見た。


 俺も男を見た。


 星野が静かに言った。


「根古さん、紹介します」


 男が一歩前に出た。


 月明かりの下で、初めて顔が見えた。


 四十代後半。細い目。深い皺。でも目の奥に、まだ何かが燃えていた。


「ラルゴです」男は言った。「本名は、今は関係ない」


「根古だ」と俺は答えた。「ただの市民だ」


 ラルゴが少し笑った。


「聞いてます。??桐島奈々子の居場所、知っています」


 俺は動かなかった。


 でも胸の中で、何かが動いた。


「教えてもらえるか」


「条件があります」


「聞こう」


「組織の記録を、表に出すのを手伝ってほしい。俺一人では、もう限界です」


 俺はラルゴを見た。


 疲れた目だった。三年間、一人で戦ってきた目だった。


「わかった」


 また、その二文字だった。


 今度も後悔しないと思った。


---


 帰り道、澪が隣を歩いていた。


 少し前から尾行していたのだろう。気づいていたが、黙っていた。


「師匠」


「なんだ」


「ラルゴさん、思ってたより普通の人でした」


「普通じゃない人間は、普通に見えるものだ」


「師匠もですか」


 俺は答えなかった。


 澪はそれ以上聞かなかった。


 二人で、暗い道を歩いた。


 街灯が一つ、ぼんやりと灯っていた。


---


*── 第九話 了 ──*



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