制服の外側
視点:三枝 康介
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警察官になって三十年、規則を破ったことは一度もなかった。
正確には、一度もないと思っていた。
今は違う。
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桐島という男のことを話す前に、少し説明が必要だ。
桐島健一は、俺の大学時代の友人だ。同じゼミで、同じ下宿の近くに住んでいた。
俺が警察に入り、桐島は中堅の建設会社に就職した。
年に一度か二度、飯を食う程度の付き合いが、三十年続いた。
桐島には娘がいる。
奈々子、十四歳。
三ヶ月前、奈々子は学校の帰り道で消えた。
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最初は誘拐として捜査が始まった。でも二週間で、捜査は実質的に止まった。
証拠がなかった。目撃者もいなかった。身代金の要求もなかった。
桐島は毎日署に来た。俺も毎日、担当刑事から報告を受けた。
でも状況は動かなかった。
一ヶ月後、俺は独自に調べ始めた。
職権の範囲内で、できることをした。データベースを引いた。類似案件を洗った。
全国で同じような失踪が、過去三年で十七件あった。いずれも未解決。
いずれも十代の少女。いずれも、消えた後に何の痕跡も残さなかった。
組織的な犯行だと確信した。
それ以上は、正規の捜査では動けなかった。
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可児市の爆発を知ったのは、報告が上がる前だった。
独自に構築した情報網??正確には、俺が個人的に信頼している数人の協力者??から連絡が来た。
「廃車に火がついた。組織の車両かもしれない」
俺はその夜のうちに可児に向かった。
現場を見た。燃えた車の残骸。消防の報告書。
そして、映像を撮っていたYouTuberがいるという情報。
映像を押さえる必要があった。
正規の手続きでも動けたが、急いだ。急ぎすぎた。
それが雨月という警部補に不審を持たれた原因だと、後で気づいた。
雨月は優秀だ。目が鋭い。俺が何かを隠していると、すぐに読んだはずだ。
でも今は、説明している時間がなかった。
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事務所に戻り、資料を広げた。
三ヶ月分の調査結果が、机の上に積み上がっていた。
人身売買。国内の組織が、海外のルートと繋がって動いている。
拠点は点在していて、一つを潰しても別が動く。ネットワーク型の構造だ。
可児市は、そのネットワークの中継点の一つだという情報があった。
燃えた車に何が積まれていたか。
俺には見当がついていた。
記録媒体だ。取引の記録、連絡先、おそらくは被害者のリスト。
ラルゴ??その名前は俺の情報網にも引っかかっていた。
裏組織の元始末屋。三年前に死亡と報告されていたが、信憑性は低いと踏んでいた。
そのラルゴが、組織を内側から崩そうとしている。
俺はそこに賭けた。
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翌朝、雨月から電話が来た。
「三枝さん、少しよろしいですか」
声は丁寧だが、硬かった。
「もちろん」
「昨日の件で、確認したいことがあります。
あの映像を急いで押さえようとした理由を、もう少し詳しく教えていただけますか」
俺は少し考えた。
正直に話すべきか。
雨月は信用できるか。
優秀さは疑っていない。問題は、俺が話したことを、どう扱うかだ。
上に報告するか。独自に動くか。
「雨月くん」
「はい」
「今夜、時間はあるか」
間があった。
「……あります」
「可児駅の近くに、ラクカという茶店がある。夜八時に来い。一人で」
また間があった。今度は少し長かった。
「……わかりました」
電話を切った。
俺は窓の外を見た。曇り空だった。
桐島から昨夜、また連絡が来ていた。
「奈々子の好きだったドーナツを買ってしまった」とだけ書いてあった。それだけだった。
返信できなかった。
何を書けばいいか、わからなかった。
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夕方、ラクカに下見に行った。
カウンターのマスター、太田という男と少し話した。
根古という男がよく来ると、さりげなく確認した。太田は「来ますよ」と短く答えた。
それ以上は聞かなかった。
根古親司。
この男の名前も、俺の調査の端に引っかかっていた。
経歴が薄い。でも薄さの質が、普通の人間のそれとは違う。意図的に薄くしてある。
何者か、まだわからない。でも、同じ方向を向いている可能性がある。
今夜、雨月に話す。
全部ではない。奈々子のことは、まだ言えない。
言えば、雨月は正規の手続きに引き戻そうとする。
それが正しいことはわかっている。でも正規の手続きで、奈々子は帰ってこなかった。
話すのは、ラルゴのことと、組織のことだけだ。
それだけで充分、雨月には動く理由になるはずだ。
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夜八時少し前、ラクカに入ると、根古がカウンターにいた。
俺を見た。
俺も根古を見た。
お互い、何も言わなかった。でもお互い、相手が何者かを、一瞬で読んだと思う。
太田がコーヒーを出した。
俺はカウンターの端に座った。根古は動かなかった。
しばらくして、根古が静かに言った。
「三枝さん、でしたか」
「そうだ。根古さん、ですね」
「どこで名前を」
「調べた」
根古は少し間を置いた。コーヒーを一口飲んだ。
「子供を攫われた知人がいる」
俺は根古を見た。
根古は前を向いたままだった。
「……なぜそれを知っている」
「勘だ」
俺は答えなかった。
根古が続けた。
「ラルゴを探しているなら、回り道をしている。あの男は今、この街のどこかにいる。
でも向こうが動く気になるまで、待つしかない」
「待てない事情がある」
「知っている」
俺は根古を見た。この男は、どこまで知っているのか。
「……何者ですか、あなたは」
「言ったろ」根古は少し笑った。「ただの市民だ」
そこへ、ドアが開いた。
雨月が入ってきた。俺と根古を交互に見て、一瞬だけ固まった。
それから、静かに隣に座った。
太田がコーヒーをもう一杯出した。
三人分の沈黙が、カウンターに並んだ。
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その夜、俺は初めて、奈々子のことを話した。
根古に。雨月に。
声が震えた。警察官として、恥ずかしいと思った。でも止まらなかった。
三ヶ月分の、桐島の顔が出てきた。ドーナツのメッセージが出てきた。
根古は黙って聞いた。雨月も黙って聞いた。
太田はカウンターの奥で、背を向けて何かを拭いていた。
話し終えたとき、店の中が静かだった。
根古がコーヒーカップを置いた。
「わかった」とだけ言った。
それだけだった。
でも俺には、それだけで充分だった。
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*── 第八話 了 ──*




