師匠と弟子
第六話
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柊澪が根古親司の部屋に転がり込んだのは、一年ほど前のことだった。
きっかけは些細だった。大学の講義帰り、自転車の鍵を失くして途方に暮れていた澪を、根古が拾った。正確には、根古の家の前の道端にしゃがみ込んでいた澪を、根古が「邪魔だ」と言って追い払おうとした。
澪は「師匠と呼んでいいですか」と言った。
根古は「呼ぶな」と言った。
澪は翌日から「師匠」と呼び続けた。
根古は今も慣れていない。
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爆発から二日後の夕方、澪はラクカの裏口から入ってきた。
正面から入ればいいものを、なぜか裏口を使う。本人に聞いたことがあるが「なんとなく」と答えた。太田豊は何も言わない。根古も何も言わない。そういう子だと思っている。
根古はカウンターの端に座っていた。コーヒーは三分の一ほど残っていた。スマホのメモ帳を見ていた。澪は隣に座った。根古のスマホを覗いた。
「なんですか、これ」
「見るな」
「廃車置き場の業者の話ですね」
根古はスマホを伏せた。澪はすでに読んでいた。
「師匠、あの爆発の件を調べてるんですか」
「違う」
「嘘だ」
太田が奥から「澪ちゃん、何飲む」と声をかけた。澪は「ホットミルクください」と答えた。根古は黙っていた。
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しばらく沈黙が続いた。
太田がホットミルクをカウンターに置いた。澪は両手でカップを包んで、前を向いたまま話し始めた。
「私、あの日、公園にいました」
根古が澪を見た。
「爆発の少し前に、あのエリアの近くを通りました。フェンスの中に人がいた気がしたんですけど、気のせいかと思って」
「気のせいじゃなかった」
「ですよね」
澪はミルクを一口飲んだ。
「顔は見えませんでしたけど、なんか、変な感じがしたんです。フェンスの中にいるのに、外を気にしてなかった。普通、人がいたら周りを確認しますよね。でもその人、全然そういう素振りがなくて」
「慣れてるんだ」
「何に?」
「見られることに」
澪は少し考えた。
「……プロってことですか」
「かもしれない」
根古は残りのコーヒーを飲み干した。太田が無言でおかわりを注いだ。
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「師匠は、なんで調べてるんですか」
澪が聞いた。
根古はすぐに答えなかった。窓の外を見た。もう暗くなっていた。商店街の灯りが滲んでいた。
「気になるから」
「それだけですか」
「それだけだ」
「嘘くさい」
根古が澪を見た。澪は根古を見た。
根古は五十八歳で、澪は二十一歳だ。三十七歳違う。それだけ歳が離れていると、互いの目の意味がわからないはずだが、なぜか二人の間ではわかった。
「お前、まだ何か言ってないだろ」
根古が言った。
澪は少し間を置いた。
「……あの人、また見ました」
「誰を」
「フェンスの中にいた人。昨日、街で」
根古の目が変わった。温度が下がった、と澪は思った。
「どこで」
「駅の近くです。一瞬だったので、確認はできてないんですけど。歩き方が同じだった気がして」
「右足か」
澪が根古を見た。
「……師匠も気づいてたんですか」
「映像で見た」
「映像、手に入れてたんですか」
「安藤から借りた」
澪は目を丸くした。根古はそれを見て、少しだけ表情が緩んだ。緩んだのを、澪は見逃さなかった。
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「師匠って、何者なんですか」
澪が聞いた。何度目かの質問だった。
「言ったろ、ただの市民だ」
「ただの市民は、探偵から映像を借りません」
「借りた理由は話したろ」
「好奇心、って言ってましたけど」
「そうだ」
「嘘くさい」
根古はため息をついた。太田が奥で笑う気配がした。
「澪」
「はい」
「その人影を、また見かけたら」
「はい」
「一人で追うな」
澪は少し黙った。
「……追いかけようとしてたのバレてましたか」
「お前の顔を見ればわかる」
「どんな顔してました」
「馬鹿な顔だ」
澪は少し唇を尖らせた。でも反論しなかった。
「なんで一人で追っちゃいけないんですか」
「相手がプロだから」
「師匠はプロじゃないんですか」
根古は答えなかった。
澪はその沈黙を、肯定だと取った。否定だとは思わなかった。
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二人はしばらく並んでカウンターに座っていた。
太田が新しいコーヒーを根古の前に置いた。澪のホットミルクはもう冷めていた。
「師匠」
「なんだ」
「私、役に立てますか」
根古は澪を見た。
二十一歳の目だった。若くて、真剣で、少し怖がっていた。怖がっているのに、それでも聞いていた。
「まだわからん」
「厳しいですね」
「褒めてどうする」
「励ましてほしかっただけです」
「励ましは太田さんに頼め」
太田が「俺を巻き込むな」と言った。
澪が笑った。根古は笑わなかったが、コーヒーを飲む速度が少し遅くなった。
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澪が帰り際、裏口のドアを開けながら振り返った。
「師匠、また来ていいですか」
「来るなとは言ってない」
「来てもいいってことですか」
「来るなとは言ってない」
澪はもう一度だけ笑って、暗い路地に消えた。
根古はカウンターに残った。コーヒーを飲んだ。
太田が静かに言った。
「いい子だね」
「うるさい」
「根古さん、顔がゆるんでる」
「余計なことを言うな」
太田は笑った。根古は答えなかった。
でも、コーヒーカップを持つ手が、いつもより穏やかだった。
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その夜、根古はメモ帳に一行追加した。
「柊澪??駅近くで人影を目撃。昨日。」
それから少し考えて、もう一行書いた。
「一人で動かせない。」
書いてから、消そうか迷った。
消さなかった。
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*── 第六話 了 ──*




