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既読の重さ

視点:西野 千紗都


---


 由紀子さんは、感情を顔に出さない。


 一年間一緒に住んで、それだけはわかった。怒っていても笑っている。悲しくても笑っている。笑っていないときは、何も言わない。


 昨夜、由紀子さんはテレビを消した。


 何も言わなかった。


 だから私は、何かがあったと思った。


---


 私が「始末屋」という仕事を始めたのは、十九のときだった。


 理由は単純で、他にできることがなかった。親はいなかった。金もなかった。学もなかった。あったのは、人より少し速く動ける体と、怖いものが少ない頭だけだった。


 スカウトしてきた男は「向いている」と言った。私は「そうですか」と答えた。


 向いていた。それが良いことかどうかは、今でも考えない。考えても仕方ないから。


 由紀子さんに会ったのは、二年目のときだ。麻尋とは三年目に出会った。三人とも組織が違った。仕事で鉢合わせて、殺し合いになりかけて、なぜかならなかった。


 その理由も、今では考えない。


 ただ、気がついたら三人でいた。


---


 朝、麻尋がパソコンで映像を解析していた。


 私は台所でお茶を淹れながら、麻尋の作業を眺めていた。麻尋は無口で、説明しない。でも見ていればわかる。


「人影、男性。身長百七十から百七十五の間。歩き方に特徴がある??右足をわずかに引きずってる」


 麻尋が言った。由紀子さんに向かって言っていた。


「それだけで分かるの?」


 私が聞いた。


「分かる人間には分かる」


 麻尋が答えた。それから由紀子さんを見た。


 由紀子さんはしばらく黙っていた。窓の外を見ていた。何かを決めているような顔だった。


「……ラルゴだ」


 初めて聞く名前だった。


「昔、一緒に仕事をした。??死んだと聞いていた」


 由紀子さんの声は、いつもと同じだった。でも私には、いつもと違うものが聞こえた。


 何か、大切なものを話しているときの声だった。


---


「どうする?」


 私が聞いた。


「本物の映像を手に入れる。切り抜きじゃ足りない」


 由紀子さんが言った。


 私と麻尋は顔を見合わせた。言葉はなかった。でもお互い、同じことを考えていた。


 由紀子さんが「動く」と言うのは、珍しい。


 それだけ、この「ラルゴ」という人間が、由紀子さんにとって重いということだ。


---


 午後、私は一人で外に出た。


 由紀子さんの指示ではなかった。自分で判断した。


 映像の本体は、YouTuberの男二人が持っている。名前は安藤修と江戸川勉。「可児探偵ファイル」というチャンネルで、登録者数は今朝の時点で四万を超えていた。昨日の爆発で一気に跳ね上がったのだろう。


 事務所の場所はすぐに調べられた。可児市内の雑居ビルの二階。表札には「安藤・江戸川探偵事務所」とある。


 私はビルの向かいのコンビニで缶コーヒーを買って、外のベンチに座った。


 観察する。それだけだ。


---


 三十分ほど経ったころ、安藤が一人でビルから出てきた。


 写真で見た通りの顔だった。背は高くない。でも歩き方に無駄がない。探偵らしい歩き方だ、と思った。


 安藤はスマホを見ながら歩いていた。どこかに向かっている。私は少し間を置いてから、後をつけた。


 尾行は得意だ。


 安藤は十分ほど歩いて、茶店に入った。「ラクカ」という名前の小さな店だ。


 私はガラス越しに中を確認した。


 安藤の他に、年配の男が一人いた。カウンターに座っている。五十代後半、がっしりした体格。こちらに背を向けているが、背筋が真っ直ぐだった。


 安藤がその男の隣に座った。二言三言、話している。


 男が振り返った。


 私は反射的に視線を外した。


 一瞬だったが、見えた。目が鋭かった。ただの市民の目じゃない。何かを見慣れた人間の目だ。


 雨月という警部補と同じ種類の目だが、もっと古い。もっと深い。


 あの男が、根古親司だろうと思った。


---


 夜、部屋に戻ると由紀子さんが一人でいた。


 麻尋はいなかった。


「どこ行ってたの」


 由紀子さんが聞いた。責めているわけではなく、確認していた。


「安藤という男の後をつけました。ラクカという茶店で、根古親司と思われる男と話していました」


 由紀子さんは少し黙った。


「根古を知ってるの?」


「名前だけ。調べました」


「どんな男だった」


「目が、由紀子さんに少し似てました」


 由紀子さんが私を見た。何かを測るような目だった。


「……似てる?」


「何かを長く見てきた人の目です」


 由紀子さんはまた黙った。それから小さく笑った。


 笑うのは珍しかった。


---


 夜中に目が醒めた。


 由紀子さんの部屋に明かりがついていた。


 私はそのまま自分の部屋で天井を見た。


 ラルゴ。死んだはずの男。既読だけ返ってきたメッセージ。由紀子さんの、あの小さな笑い。


 私には由紀子さんの過去が全部わかるわけじゃない。麻尋も同じだと思う。


 でも、由紀子さんがこの件を追うなら、私たちもついていく。


 理由はそれだけで充分だった。


 始末屋に必要なのは、信頼できる理由じゃなくて、信頼できる人間だと、私は思っている。


---


 翌朝、由紀子さんが起きてきたとき、目の下に隈があった。


 眠れなかったのだろう。でも何も言わなかった。


 私もお茶を淹れながら何も言わなかった。


 麻尋が無言でパンを焼いた。


 三人分の朝食を、三人で食べた。


 それだけだった。


 でも、それだけで充分だった。





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