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「ラクカに、全員集合」

 十二月の可児市は、山が枯れていた。


 紅葉が終わり、葉が落ち、木の骨格だけが冬の空に向かっていた。可児川の水が澄んで、川底の石が見えた。朝の空気が冷たく、息が白くなった。


 冬の可児は、静かだった。


 しかし??何かが、動いていた。


---


 最初に気づいたのは、江戸川だった。


 十二月の第一週、夜の街を歩いていた時、可児川沿いの畑の近くを通った。


 畑は、冬の間は使われていない。枯れた茎が残っていた。


 しかし??土が、動いていた。


 誰かが耕していた。


 夜の十一時に、畑を耕している人間がいた。


 江戸川は足を止めた。


 老人だった。


 背が丸く、ゆっくりした動作で、鍬を振るっていた。


 江戸川は近づこうとした??老人が気配を感じたのか、鍬を止めた。振り返らずに、また歩き始めた。暗い中で、どこかへ消えていった。


---


 翌朝、江戸川が工藤に話した。


「老人が、夜中に畑を耕していました」


「耕して、何を植えていましたか」と工藤は言った。


「何も植えていませんでした」と江戸川は言った。「耕すだけで、去っていきました」


「権次のイモさし、を知っていますか」と工藤は言った。


「知りません」


「可児の民話です」と工藤は言った。「権次という男が、芋を畑に差したが、逆さに差してしまったという話です。笑えるが??一生懸命やろうとした人間の話でもある」


「逆さに差した芋」と江戸川は言った。「老人が何も植えていなかったのは」


「それはわかりません」と工藤は言った。「ただ??見張ってみましょう。今夜も来るかもしれません」


---


 その夜、江戸川と千紗都が畑の近くで待った。


 千紗都がシロを少し離れた場所に停めた。ミケが助手席にいた。


 夜の十時を過ぎた頃、ミケが動いた。


 耳を立てて、窓の方を向いた。


「来ます」と千紗都は言った。


 江戸川が外を見た。


 老人が、畑の方へ歩いていた。昨夜と同じ、背が丸い老人だった。手に鍬を持っていた。


 二人は距離を置いて、見ていた。


 老人は畑に入った。ゆっくりと、しかし確実に、土を耕し始めた。


 江戸川が千紗都を見た。千紗都が頷いた。


 二人が近づいた。


「こんばんは」と江戸川は言った。静かに。


 老人が止まった。振り返った。


 七十代後半、あるいは八十代かもしれなかった。顔に深い皺があった。目が??少し、焦点が合っていないような、遠くを見ているような目だった。


「誰ですか」と老人は言った。


「通りかかりました」と江戸川は言った。「何を植えているんですか」


「イモです」と老人は言った。


「今夜植えますか」


「今夜植えます」と老人は言った。「今夜植えないと、春に間に合わない」


「今は十二月ですが」と江戸川は言った。


「十二月?」と老人は言った。首を傾けた。「そうですか。……でも、植えないと」


「ここは、あなたの畑ですか」と江戸川は言った。


「私の畑です」と老人は言った。「ずっと、私の畑です」


---


 工藤に連絡した。工藤が来た。安藤も来た。


 老人に話しかけながら、名前を聞き出した。


 田辺清三郎、八十一歳。


 安藤がスマートフォンで調べると??失踪届が出ていた。家族が届けていた。一週間前から、夜になると外出して、朝方に戻ってくるという行動を繰り返していた。


「認知症です」と安藤は工藤に小声で言った。「家族が、施設への入居を検討しているところだったそうです」


「畑は」と工藤は言った。


「昔、この方の家族の畑だったそうです」と安藤は言った。「今は別の人が借りている。田辺さんは若い頃、毎年ここでイモを作っていたそうです」


 工藤は老人を見た。


 老人は、冬の畑の前に立って、鍬を手に持ったまま、遠くを見ていた。


「田辺さん」と工藤は言った。


「はい」と老人は振り返った。


「イモ、一緒に植えましょうか」と工藤は言った。


 老人が少し、顔を輝かせた。


「植えてくれますか」


「植えます」と工藤は言った。


---


 冬の夜中に、工藤と江戸川と千紗都が、老人と一緒に畑を耕した。


 イモはなかった。植えるものは何もなかった。


 それでも、四人で土を耕した。


 老人は満足そうだった。「春になったら、芽が出ます」と言った。「毎年、出るんです」


「楽しみですね」と千紗都は言った。


「楽しみです」と老人は言った。


 ミケが畑の端まで来て、土の匂いを嗅いでいた。


---


 老人の家族が来た。


 娘の田辺恵子、五十代だった。老人を見て「お父さん」と言った。声が震えていた。


「イモを植えた」と老人は言った。娘に。「春に来い」


「来ます」と娘は言った。泣きながら。「来ます、必ず」


 老人が頷いた。満足した顔で。


---


 翌朝、太田に電話した。


「根古さんに伝えてもらえますか。権次のイモさしの畑の近くで、認知症の老人が夜中に耕していました。家族と繋がれました」


「わかりました」と太田は言った。


 しかし??折り返しはなかった。


 昼過ぎに、太田から短いメッセージが来た。


*「根古さんから、工藤さんへ。今夜、少し話してもいいですか。ラクカに来てもらえれば。??太田」*


 工藤はメッセージを読んだ。


 今夜、話したい。


 根古から、工藤へ。


 直接ではなく、太田経由で??しかし、工藤だけへ。


---


 夜、工藤は一人でラクカへ行った。


 江戸川には「今夜は一人で行きます」と言った。


「根古さんですか」と江戸川は言った。


「そうです」


「何を話すんですかね」


「わかりません」と工藤は言った。「ただ??聞いてきます」


---


 ラクカには、太田だけがいた。


 閉店後の時間だった。灯りは絞られていた。カウンターに、コーヒーが一杯置いてあった。


「根古さんが話したい、とのことです」と太田は言った。


「太田さんも聞きますか」と工藤は言った。


「根古さんが、工藤さんだけに、と言いましたので」と太田は言った。「私は奥に行っています」


「わかりました」


 太田が奥へ引いた。


 工藤がカウンターに座った。


 コーヒーを一口飲んだ。


 スピーカーが置いてあった。


 しばらくして??声が出た。


---


「工藤さん」


「根古さん」と工藤は言った。


「一人で来てくれてありがとうございます」


「いえ」


「今夜は」と根古は言った。「少し、自分のことを話してもいいですか」


「聞かせてください」と工藤は言った。


 根古が少し間を置いた。


「可児に来たのは、二十年前です」と根古は言った。「仕事を辞めて??何もする気がなくて、ただ歩いていました。どこへ行くかも決めていなかった。ただ、歩いていた」


「どこから歩いてきたんですか」


「東京から」と根古は言った。「二週間、歩きました。どこへ行くかより、どこへも行かなくていい、ということだけを考えながら」


「仕事は」と工藤は言った。


「今は言えません」と根古は言った。「スティーブが後輩だった、ということだけで」


「わかりました」


「可児に着いたのは、十一月でした」と根古は言った。「今くらいの季節です。神明神社の前を通った時、境内の大ヒノキが見えました。夕方の光で、大きく見えました」


 工藤は手帳を出しかけて、止めた。今夜は書かなくていいと思った。


「境内に入りました」と根古は言った。「ヒノキの根元に座りました。どれくらいいたかわかりません。気づいたら、暗くなっていた」


「その時」


「ヤマトが来ました」と根古は言った。声が、少し変わった。「黒猫でした。どこから来たかわからない。ヒノキの根元に座っている私の膝に、乗ってきた」


「ヤマトが」


「はい」と根古は言った。「膝に乗ってきて??動かなかった。私も、動けなかった。そのまま、ずいぶん長い時間、二人でヒノキの下にいました」


 工藤は、手帳に書き留めた言葉を思い出した。「ヒノキは正しかった」という根古のメッセージを。


「それから可児に」と工藤は言った。


「そうです」と根古は言った。「ヤマトを連れて、部屋を借りました。それから、出ていません」


「二十年、出ていない」


「ヤマトが、出たくないのかもしれません」と根古は言った。「ヒノキの近くにいたい、と。私は??ヤマトが帰りたい場所を、守っています」


---


 工藤はしばらく、何も言わなかった。


 コーヒーが冷めていた。飲んだ。


「根古さん」と工藤は言った。


「はい」


「今夜の話を、江戸川に伝えてもいいですか」


「いいです」と根古は言った。「江戸川さんには、いつか話そうと思っていました。あなたが伝えてくれれば、十分です」


「他のみなさんには」


「太田さんは知っています」と根古は言った。「他の方は??いつか、自然に」


「わかりました」


「工藤さん」と根古は言った。


「はい」


「可児に来てくれて、ありがとうございます」と根古は言った。「皆さんが動いてくれて、可児が少しずつ、守られていきました。私は出られませんでしたが??皆さんが足になってくれました」


「根古さんが頭でした」と工藤は言った。


「頭というより」と根古は言った。「ヤマトが頭で、私がその声を聞いていただけです」


「ヤマトは今」


「膝の上にいます」と根古は言った。「いつも通り」


「今夜は、どちらを見ていますか」


「ラクカの方角を」と根古は言った。「ずっと」


---


 工藤がラクカを出たのは、夜の十一時だった。


 外は冷たかった。息が白くなった。


 工藤は歩いた。


 可児川沿いを歩いて、田辺老人が耕していた畑の前を通った。


 夜の畑は、静かだった。耕された土が、冬の月光を受けていた。


 工藤は少し立ち止まった。


 権次のイモさし。間違えて逆さに差した芋。芽が出なかった。


 しかし??耕すことは、できた。


 田辺老人も、毎夜耕しに来ていた。植えるものがなくても、耕すことができた。それが、その人に残っていた最後の仕事だった。


 間違えても、芽が出なくても??耕すことは、できる。


 工藤はまた歩いた。


 神明神社の前を通った。


 境内のヒノキが、冬の夜空に向かって枝を広げていた。


 葉が落ちて、骨格だけになったヒノキが、それでも大きく、そこにあった。


 工藤は石段を上った。


 ヒノキの根元に、立った。


 手を合わせた。


 誰に祈るかは、決めていなかった。


 ただ??この場所が、二十年前の根古を受け止めて、ヤマトを届けて、今夜の自分をここに立たせていることに、手を合わせた。


 冬の風が通った。


 ヒノキの枝が、かすかに揺れた。


---


 翌朝、ラクカに全員が集まった。


 工藤が昨夜のことを、少し話した。根古がヒノキでヤマトと出会った話。二十年、出ていない理由の話。


 全員が静かに聞いた。


 フェルナンドが「ヒノキは最初からわかってた」と言った。


「何がですか」と江戸川が言った。


「根古さんのことを。二十年前から、根古さんのことを知っていた。だから??第八話の男も、ここへ帰ってこれた」


「ヒノキが知っていた」と千紗都は言った。


「そうや」とフェルナンドは言った。「ヒノキは、迷子を守る。根古さんも??二十年前、迷子やったんや」


 誰も否定しなかった。


 太田がカウンターから「コーヒー、出ます」と言った。


 全員分が出た。


 根古のカップも、出た。


 今日のカップは??いつもより、少し、近くに置いてあった。


 カウンターの端ではなく、真ん中に。


 誰も何も言わなかった。


 ただ??全員が、そのカップを、見た。


---


 田辺老人は、翌週から施設に入った。


 入居の日、娘の恵子が工藤に電話をくれた。「父が、春になったらイモを見に行きたいと言っています。畑の方、お願いできますか」


「伝えておきます」と工藤は言った。「春になったら、芽が出るかもしれません」


「芽が出ますか」


「出ると思います」と工藤は言った。


 電話を切った後、工藤は今の団子屋の店主に連絡した。田辺老人の畑のことを伝えた。


 店主が「わかりました。春に、何か植えておきます」と言った。


「ありがとうございます」


「田辺さんには、長く団子を食べに来てもらっていたので」と店主は言った。「芽が出たら、見に来てもらいましょう」


 工藤は電話を切った。


 窓の外、可児川が流れていた。


 冬の川は、透明だった。


---


 夕方、太田からメッセージが来た。


*「根古さんから。権次のイモさしは、芽が出なかった。でも??権次は、また来年、差した。それでいい。??太田」*


 工藤はメッセージを読んだ。


 江戸川に見せた。


「権次は、また来年、差した」と江戸川は繰り返した。「それでいい、ということですか」


「そうです」と工藤は言った。


「芽が出なくても、また差す」


「また耕す、でもいいですね」と工藤は言った。「田辺さんのように」


「根古さんは」と江戸川は言った。「二十年、出ていない。それでも??こうして、みんなと繋がっている」


「そうです」


「それも??また来年、差した、ということですか」


「そうだと思います」と工藤は言った。「形は違っても」


 江戸川はしばらく考えた。


「工藤さん」と江戸川は言った。


「何ですか」


「可児に来てよかったですね」


「そうですね」と工藤は言った。


「横浜とどっちがいいですか」


「どちらも、いいです」と工藤は言った。「どちらも、自分の場所です」


「じゃあ、来年も来ますか」


「来ます」と工藤は言った。「来年も、その次も」


---


 ラクカの灯りが、夜の可児に点っていた。


 太田が一人で、閉店の準備をしていた。


 カウンターの根古のカップを洗う前に、太田はスマートフォンを出した。


*「今日もよく動きました。工藤さんが、ヒノキに手を合わせていたそうですね。??太田」*


 送った。


 すぐに返信が来た。


*「知っていました。ヤマトが教えてくれました。??根古」*


 太田はメッセージを読んだ。


 閉じた。


 根古のカップを、丁寧に洗った。


 来年も、このカップを使う。


 毎日、一杯、出す。


 それだけのことを、二十年続けてきた。


 これからも、続ける。


 ラクカの灯りが消えた。


 可児の夜が、静かになった。


 神明さまのヒノキが、冬の空の下に、大きくあった。


 根元は、暗かった。


 しかし??そこに、何かがいる気がした。


 黒い猫が、一匹。


 ヒノキの根元で、丸くなっているような気がした。


 気がしただけかもしれない。


 しかし??そこにいた。


 確かに、そこにいた。


---

*??可児探偵ファイル 可児市編 第十話「権次のイモさし」了??*

*??可児探偵ファイル 可児市編 民話篇(第8?10話)完結??*


---


# あとがき(作中世界より)


*田辺清三郎は、翌年の春、施設から畑を見に来た。娘の恵子と、今の団子屋の店主が連れてきた。畑には、サツマイモの芽が出ていた。団子屋の店主が春に植えておいたものだった。田辺は「出た」と言った。それだけ言った。*


*神明さまのヒノキの下で見つかった男性は、その後、可児市内に居を定めた。名前を取り戻すのに、三ヶ月かかった。取り戻した後、神明神社に手を合わせに来た。宮司に「お世話になりました」と言った。宮司は「ヒノキにも言ってください」と言った。男性はヒノキに手を合わせた。*


*フェルナンド・村田の「遭難配信」は、再生数が十万を超えた。タイトルは「タヌキに化かされた男たち」だった。ロドリゲス斎藤が編集した。美佑がサムネイルを作った。三人のコンビ配信として、可児市内でも話題になった。*


*おそのさんとタヌキの山の電波塔は、撤去された。山林への不法侵入の記録は、第五話の件と合わせて処理された。山は、元に戻った。タヌキがいるかどうかは、誰にもわからない。*


*根古親司は、今日も家にいた。ヤマトが膝の上にいた。スマートフォンを見ながら、FXをしながら、窓の外を??ヤマトが見ている方角を、一緒に見ていた。今日、ヤマトが見ていたのは、神明さまのヒノキの方角だった。*


*太田豊は、今日もラクカを開けた。根古のカップを、一杯、カウンターに出した。真ん中に置いた。第十話から、真ん中に置くことにした。端ではなく、真ん中に。理由は言わなかった。ただ??そこに置いた。*


*可児川は、今日も流れている。*


*神明さまのヒノキは、今日も、そこにある。*


*根元は、いつでも、誰かを待っている。*



---


 

十二月の最後の土曜日、可児市に雪が降った。


 山から白くなり、可児川沿いの土手が白くなり、神明さまのヒノキの枝に雪が積もった。


 朝から雪だった。


 太田豊がラクカを開けたのは、いつもより少し早かった。


 理由は聞かれなかった。ただ??今日は、早く開ける気がした。


 コーヒーの準備をしながら、太田はカウンターを拭いた。いつもより丁寧に拭いた。


 根古のカップを、真ん中に置いた。


 それから??もう一杯分、準備した。


---


 電話が来たのは、朝の八時だった。


 御前湯の女将からだった。


「工藤さんはいらっしゃいますか」と女将は言った。


「工藤さんに繋ぎます」と太田は言った。


 工藤に電話した。


「女将から連絡がありました」と太田は言った。「お友達の会の方々が、今月の温泉に来ているそうです。工藤さんに会いたい人たちがいる、と」


「今月は行けないと伝えていたんですが」と工藤は言った。


「そうお伝えしました。すると??こちらへ来てもいいか、と言われました」


「可児へ、ですか」


「ラクカへ、と言っていました」と太田は言った。「鏑木さんが運転すると言っています。全員で」


 工藤はしばらく黙った。


「全員で」と工藤は言った。


「そうです」と太田は言った。「来ますか、と聞かれました」


「来てもらえますか」と工藤は言った。


「そう伝えます」と太田は言った。「席の準備をします」


---


 昼過ぎに、鏑木の軽トラが可児に入った。


 荷台に何人か乗っていた。助手席には加藤が座っていた。フィアットではなく軽トラだった。「お前の車で来い」と言われた、と加藤は後で言った。


 ワンボックスも来た。ムハンマドが運転していた。松平と千恵と豆助が乗っていた。豆助は助手席のキャリーケースの中で、鼻をひくつかせていた。


 長曾我部は電車で来た。可児駅からタクシーだった。


 フェルナンドとロドリゲスは、すでに可児にいた。


 鳴海美佑は「来ますよ、もちろん」と言った。


 織田信暢が「ラーメン屋、どうしよう」と言い、長曾我部が「今日は閉めなさい」と言い、織田が「そうします」と言った。


---


 御前湯組がラクカに着いたのは、午後二時だった。


 鏑木がドアを開けて入ってきた。


「工藤さん、おるか」と鏑木は言った。


「います」と工藤は言った。カウンターから。


「ここがラクカか」と鏑木は言った。店内を見回した。「ええ店やないか」


「太田さんの店です」と工藤は言った。


「太田さん」と鏑木は言った。カウンターの太田を見た。「工藤さんが世話になってます」


「こちらこそ」と太田は言った。コーヒーを出しながら。


 全員が入ってきた。


 鏑木、加藤、ムハンマド、松平、千恵、豆助、長曾我部、織田、フェルナンド、ロドリゲス、鳴海美佑。


 可児組が待っていた。


 工藤、江戸川、安藤、星野、春日、千紗都、麻尋、柊澪、藤原茜、藤原朱音、雨月、垂井。


 北村唯と遠藤成気も来ていた。今月は可児に滞在していた。


 橘修一も来た。元町のコーヒー豆の仕事を一日休んで来た。


 スティーブはビデオ通話で参加した。カルロスが隣にいた。


 秋月小五郎は??すでにいた。朝から来ていた。「たまたま通りかかった」と言った。工藤は「可児に通りかかる用事はないはずです」と言った。秋月は「刑事は足で稼ぐ」と言った。


---


 ラクカが満員になった。


 四十人近くいた。


 太田が黙って全員分のコーヒーを出し始めた。


 鏑木が「ええ匂いや」と言った。


「コーヒーです」と太田は言った。


「わかってます。ただ、ええ匂いやと思って」


「ありがとうございます」と太田は言った。


---


 ムハンマドが大きな鍋を持ってきていた。


「カレーを作ってきました」と言った。


「ここで作ったんですか」と太田は言った。


「御前湯の厨房で作らせてもらいました。女将に許可をもらって」


「運んできたんですか、可児まで」


「スパイスは移動に強い」とムハンマドは言った。


 千恵が「ムハンマドさん、廊下に撒かないでください」と言った。


「撒きません」とムハンマドは言った。「今日は」


「今日は、というのが気になります」


---


 フェルナンドがタロットを出した。


 カメラなしで。


「今日は引かないんですか」とロドリゲスが言った。


「引く」とフェルナンドは言った。「ただ??配信しない。今日は」


「今日は配信しないんですか」とロドリゲスは言った。


「今日は」とフェルナンドは言った。


「わかりました」とロドリゲスは言った。素直に。


 フェルナンドがカードを引いた。


 全員が少し静かになった。フェルナンドがカードを引く時の空気を、みんなが知っていた。


 出たのは「世界」だった。


 世界は、完成の象徴だ。全ての旅が終わり、全てが一つに繋がった時に出るカード。終わりではなく??次の始まりへの扉。


 フェルナンドはカードを見た。


「ビッグビッグビッグ」と言った。


 全員が笑った。


---


 鏑木が工藤に話しかけてきた。


「可児、ええとこやな」と鏑木は言った。


「そうです」と工藤は言った。


「御前湯とどっちがいいんや」


「どちらも、いいです」と工藤は言った。


「どっちも自分の場所か」


「そうです」


「ええな」と鏑木は言った。「俺も、行く場所が増えたわ。今日から」


「来てください、いつでも」と工藤は言った。


「来る。団子屋、あるんやろ」


「あります。今の団子屋という店が」


「行く」と鏑木は言った。即座に。


---


 松平と西野薫が並んで座っていた。


 西野は今日、教会の礼拝を終えてから来た。松平は御前湯から来た。


 二人が並んでいるのを見て、澪が「宗派って関係ないんですか」とまた聞いた。


「ないです」と西野は言った。


「人間の話をしている時は」と松平が続けた。


「今日も人間の話ですか」


「今日は??コーヒーの話です」と松平は言った。コーヒーを一口飲んで。「美味しいですね」


「美味しいです」と西野も飲んだ。


---


 長曾我部が帳面を出した。


「何を書くんですか」と加藤が言った。


「今日のことを」と長曾我部は言った。


「日記ですか」


「記録です」と長曾我部は言った。「ただ??」


 長曾我部はペンを持ったまま、少し止まった。


「今日は、書くより見ていたい気がします」と長曾我部は言った。


 帳面を閉じた。


 加藤が「珍しいな」と言った。


「そうですね」と長曾我部は言った。「ただ??今日は」


「今日は、ええんや」と加藤は言った。


「そうです」と長曾我部は言った。


---


 千紗都が豆助を抱いていた。


 千恵が「豆助、喜んでいますね」と言った。


「嬉しそうです」と千紗都は言った。


「人が多いのが好きなんです、この子は」と千恵は言った。「いつも私と二人なので」


「一緒に来てください、またいつでも」と千紗都は言った。


「来ます」と千恵は言った。「今の団子屋にも」


「行きましょう、一緒に」


 豆助が鼻を鳴らした。


 賛成、という意味だったかどうかはわからなかった。


 たぶん、そうだった。


---


 秋月が工藤の隣に来た。


「来年も来るか」と秋月は言った。


「来ます」と工藤は言った。


「御前湯も」


「御前湯も」


「ここも」


「ここも」


「お前、居場所が増えたな」と秋月は言った。


「増えました」と工藤は言った。


「悪いことか」


「悪くありません」


「そうだな」と秋月は言った。「俺も増えた」


「秋月さんの居場所が」


「御前湯と、横浜と、可児と」と秋月は言った。「それと??」


「それと?」


「工藤の事務所」と秋月は言った。


「事務所は居場所ではなく、仕事場では」と工藤は言った。


「俺にとっては居場所だ」と秋月は言った。


 工藤は何も言わなかった。


 否定しなかった。


---


 江戸川が橘修一の隣に座っていた。


「来てくれてよかったです」と江戸川は言った。


「来てよかった」と橘は言った。コーヒーを飲みながら。「太田さんのコーヒー、美味いな」


「ラクカのコーヒーは別格です」と江戸川は言った。


「元町のお前のコーヒーは」


「及びません」と江戸川は言った。即座に。


「正直だな」と橘は言った。笑いながら。


「正直が一番です」と江戸川は言った。


「武男もそう言っていた」と橘は言った。「お前の父親が」


「父に似ていますか」


「目が」と橘は言った。「諦めない目が」


---


 北村唯と遠藤成気が、窓際に並んで立っていた。


「可児、好きですか」と唯が遠藤に言った。


「好きです」と遠藤は言った。「最初来た時は、何もない場所だと思いましたが」


「今は」


「何もないのではなくて、見えないところにあるんだとわかりました」と遠藤は言った。


「見えないところに」と唯は言った。


「地下とか、ヒノキの根元とか、ラクカのカウンターとか」と遠藤は言った。


「根古さんの家とか」と唯は言った。


「そうです」と遠藤は言った。


 二人は窓の外を見た。


 雪が、まだ降っていた。


---


 垂井美智子が太田の隣に立った。


「太田さん」と垂井は言った。


「はい」


「根古さんは、今日も来ませんね」


「来ません」と太田は言った。


「カップは出ていますね」


「出ています」と太田は言った。


「今日は真ん中に」


「はい」と太田は言った。


「以前は端でしたね」


「第十話から、真ん中にしています」と太田は言った。


「なぜですか」


「……聞きましたか、根古さんに」と太田は言った。


「聞いていません」と垂井は言った。「ただ、気になって」


「真ん中の方が」と太田は言った。「みんなに近い、気がして」


 垂井が少し笑った。


「根古さんらしいですね、そういうことが」


「そうですか」と太田は言った。


「退屈しないので、付き合い続けます」と垂井は言った。


「ありがとうございます」と太田は言った。


---


 夕方になって、工藤のスマートフォンが鳴った。


 根古からだった。


「今日は、賑やかそうですね」と根古は言った。


「賑やかです」と工藤は言った。


「ヤマトが、今日はずっとラクカの方角を見ています」


「今日だけですか」


「今日は特に」と根古は言った。「こんなに長く見ているのは、珍しいです」


「全員が来ているからかもしれません」と工藤は言った。


「そうかもしれません」と根古は言った。「一つ、聞いてもいいですか」


「どうぞ」


「御前湯の方々も来ていますか」


「来ています」と工藤は言った。


「温泉の予知を持ってくる方々ですね」


「そうです」


「……よかった」と根古は言った。「可児に、温泉の力が来た」


「根古さん」と工藤は言った。「御前湯、来ませんか。いつか」


 少し間があった。


「ヤマトが行きたがれば」と根古は言った。


「ヤマトが行きたがる可能性はありますか」


「……今、窓の方を見ています」と根古は言った。「雪が降っています。御前湯の方向の空が、少し白い」


「それは」


「答えではありません」と根古は言った。「ただ??見ています」


「わかりました」と工藤は言った。「その日を待ちます」


「待ってもらえますか」


「待ちます」と工藤は言った。「全員で」


---


 工藤が電話を切った後、松平が近くに来た。


「根古さんですか」と松平は言った。


「そうです」


「温泉の予知について、聞いていました」と松平は言った。


「根古さんが、可児に温泉の力が来た、と言っていました」


 松平は少し考えた。


「御前湯の湯は、人間の中にある感知能力を開く、という工藤さんの仮説がありましたね」


「あります」


「根古さんも??何かを感知する力を持っていると思います」と松平は言った。「場所は違いますが、同じ種類のものかもしれません」


「ヤマトを通じて」と工藤は言った。


「猫は正直ですから」と松平は言った。「御前湯の湯と、ヤマトは??形は違っても、似たものかもしれません」


 工藤はその言葉を、手帳に書き留めた。


---


 夜になった。


 雪は止んでいた。


 ラクカに全員が残っていた。帰る気配がなかった。


 太田が「もう一杯どうぞ」と言い続けた。全員が飲み続けた。


 鏑木と加藤が今日初めて話した人間と話していた。安藤が秋月に「昔の話を聞かせてください」と言い、秋月が「長くなるぞ」と言い、安藤が「構いません」と言った。


 澪と茜と江戸川が、柊澪の「弟子になりたい」という話をしていた。「弟子より仲間の方がいいですよ」と江戸川が言い、澪が「仲間でいいです」と言い、茜が「最初からそう言えばよかった」と言った。


 千紗都とロドリゲスが、配信について話していた。「シロで可児を回る動画、いいと思います」とロドリゲスが言い、千紗都が「ミケも出ますか」と言い、「出ます、絶対」とロドリゲスが言った。


 朱音と春日が、静かに並んで座っていた。何も話していなかった。ただ、並んでいた。それで十分だった。


 美佑がフェルナンドに「今日引いたカードは何でしたか」と聞いた。「世界や」とフェルナンドは言った。「どういう意味ですか」と美佑が聞いた。「全部が繋がった、という意味や」とフェルナンドは言った。「今日がそれですか」と美佑が聞いた。「今日がそれや」とフェルナンドは言った。


---


 太田が閉店の時間になっても、誰も帰らなかった。


 太田は何も言わなかった。


 コーヒーを淹れ続けた。


 根古のカップの湯気が、立っていた。


 誰かが「根古さんも来たらよかったのに」と言った。


 誰が言ったか、わからなかった。


 太田が「来ています」と言った。


 全員が太田を見た。


「カップがあります」と太田は言った。「湯気が立っています。それは??来ている、ということです」


 誰も笑わなかった。


 誰も否定しなかった。


 根古のカップが、ラクカの真ん中のカウンターに、静かにあった。


 湯気が立っていた。


 それが、答えだった。


---


 夜の十一時、最初に帰ったのは田辺老人の娘の恵子だった??ではなく、帰り道が遠い御前湯組が、名残惜しそうに立ち上がった。


「また来ます」と鏑木は言った。


「来てください」と工藤は言った。


「御前湯も来てくれ」と鏑木は言った。


「来ます」と工藤は言った。「来年の冬に」


「予知があるかもしれんぞ」と鏑木は言った。


「あるかもしれません」


「楽しみや」と鏑木は言った。


 加藤が「団子屋、また来る」と言い、ムハンマドが太田に「スパイスを一袋、置いていっていいですか」と言い、太田が「コーヒーに合うものなら」と言い、ムハンマドが「合います、絶対」と言った。


 松平が工藤に「来年も、良い旅を」と言った。


「旅ですか」と工藤は言った。


「探偵の仕事は旅です」と松平は言った。「どこへ行っても、帰る場所がある旅」


「帰る場所」と工藤は言った。


「御前湯と、ラクカと」と松平は言った。「それと??工藤さん自身が、誰かの帰る場所になっています。それも、旅の一部です」


 工藤は何も言わなかった。


 しかし??手帳に書き留めた。


 松平の言葉を、書き留めた。


---


 全員が帰った後、工藤と太田だけがラクカに残った。


「今日は」と工藤は言った。


「はい」と太田は言った。


「根古さんが、来ていましたか」


「来ていました」と太田は言った。「声で」


「電話がありましたか」


「夕方に一本だけ」と太田は言った。「こんなに人が集まったラクカは、初めてです、と言っていました」


「嬉しそうでしたか」


「根古さんは、嬉しそうとか悲しそうとか、あまり声に出ません」と太田は言った。「ただ??電話が、いつもより長かったです」


「長かった」


「五分くらいです」と太田は言った。「いつもは一分以内なので」


「五倍ですね」と工藤は言った。


「そうですね」と太田は言った。


 工藤はコーヒーを飲んだ。最後の一口だった。


「太田さん」と工藤は言った。


「はい」


「来年も、ラクカを開けてください」


「開けます」と太田は言った。「根古さんが来る日も、来ない日も」


「根古さんが来る日」と工藤は言った。「来るかもしれませんか」


「来るかもしれません」と太田は言った。「ヤマトが??いつか、ヒノキへ行きたがるかもしれません。その時、根古さんも来るかもしれません」


「その日を待ちます」と工藤は言った。


「待ちましょう」と太田は言った。「コーヒーを淹れながら」


---


 工藤がラクカを出た。


 雪が止んだ可児の夜は、静かだった。


 可児川の水音がした。


 工藤は歩いた。


 神明さまのヒノキの前を通った。


 雪が積もったヒノキが、夜の中に大きくあった。


 枝に積もった雪が、月光を受けて光っていた。


 工藤は立ち止まった。


 手を合わせた。


 今日来てくれた全員に。


 来られなかった根古に。


 ヤマトに。


 可児の土地に。


 御前湯の湯に。


 長い時間をかけて、今日に繋がってきた全てに。


 風が通った。


 ヒノキの枝から、雪がさらさらと落ちた。


 工藤は手を下ろした。


 歩き始めた。


 ラクカの灯りが、遠くに見えた。


 まだ、灯っていた。


 太田が、まだいた。


 根古のカップが、まだ、そこにあった。


---


 その夜、根古はヤマトと窓の外を見ていた。


 雪が止んでいた。


 夜の可児が、静かだった。


 ヤマトが、神明さまのヒノキの方角を見ていた。


 根古も、同じ方角を見た。


 スマートフォンに、太田からメッセージが来た。


*「今日は、ありがとうございました。ラクカ、今日はいつもより温かかったです。根古さんのカップの湯気が、最後まで立っていました。??太田」*


 根古は読んだ。


 返信を打った。


*「ヤマトが、今夜は珍しく、ずっと同じ方角を見ています。ラクカの方向か、ヒノキの方向か、わかりません。どちらかは??わかりません。でも、そこに何かあることは、わかります。来年も、よろしくお願いします。??根古」*


 送信した。


 スマートフォンを置いた。


 ヤマトが、根古の膝に乗ってきた。


 丸くなった。


 根古は窓の外を見た。


 可児の夜が、雪の後の静かさで、満ちていた。


 神明さまのヒノキが、どこかにある。


 ラクカが、どこかにある。


 可児川が、流れている。


 全部、ここから見えないけれど??ある。


 確かに、ある。


 根古は目を閉じた。


 ヤマトが、温かかった。


 それだけで、十分だった。



# 最終あとがき


*御前湯は、来年の冬も湯を湧かす。*

*予知は、来年も出る。*

*何が出るかは??まだ、誰も知らない。*


*ラクカは、明日も開く。*

*太田豊は、今日もいつもより少し早く起きる。*

*根古のカップを、真ん中に置く。*


*可児川は、今日も流れている。*

*神明さまのヒノキは、今日も、そこにある。*


*根古親司は、今日も家にいる。*

*ヤマトが、膝の上にいる。*

*二人で、窓の外を見ている。*


*工藤俊一は、今日も歩いている。*

*どこかへ向かって。*

*あるいは??どこかから、帰ってきて。*


*それでいい。*

*それが、全てだ。*


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