表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
41/56

「権次のイモさし」

 十二月の可児市は、山が枯れていた。


 紅葉が終わり、葉が落ち、木の骨格だけが冬の空に向かっていた。可児川の水が澄んで、川底の石が見えた。朝の空気が冷たく、息が白くなった。


 冬の可児は、静かだった。


 しかし??何かが、動いていた。


---


 最初に気づいたのは、江戸川だった。


 十二月の第一週、夜の街を歩いていた時、可児川沿いの畑の近くを通った。


 畑は、冬の間は使われていない。枯れた茎が残っていた。


 しかし??土が、動いていた。


 誰かが耕していた。


 夜の十一時に、畑を耕している人間がいた。


 江戸川は足を止めた。


 老人だった。


 背が丸く、ゆっくりした動作で、鍬を振るっていた。


 江戸川は近づこうとした??老人が気配を感じたのか、鍬を止めた。振り返らずに、また歩き始めた。暗い中で、どこかへ消えていった。


---


 翌朝、江戸川が工藤に話した。


「老人が、夜中に畑を耕していました」


「耕して、何を植えていましたか」と工藤は言った。


「何も植えていませんでした」と江戸川は言った。「耕すだけで、去っていきました」


「権次のイモさし、を知っていますか」と工藤は言った。


「知りません」


「可児の民話です」と工藤は言った。「権次という男が、芋を畑に差したが、逆さに差してしまったという話です。笑えるが??一生懸命やろうとした人間の話でもある」


「逆さに差した芋」と江戸川は言った。「老人が何も植えていなかったのは」


「それはわかりません」と工藤は言った。「ただ??見張ってみましょう。今夜も来るかもしれません」


---


 その夜、江戸川と千紗都が畑の近くで待った。


 千紗都がシロを少し離れた場所に停めた。ミケが助手席にいた。


 夜の十時を過ぎた頃、ミケが動いた。


 耳を立てて、窓の方を向いた。


「来ます」と千紗都は言った。


 江戸川が外を見た。


 老人が、畑の方へ歩いていた。昨夜と同じ、背が丸い老人だった。手に鍬を持っていた。


 二人は距離を置いて、見ていた。


 老人は畑に入った。ゆっくりと、しかし確実に、土を耕し始めた。


 江戸川が千紗都を見た。千紗都が頷いた。


 二人が近づいた。


「こんばんは」と江戸川は言った。静かに。


 老人が止まった。振り返った。


 七十代後半、あるいは八十代かもしれなかった。顔に深い皺があった。目が??少し、焦点が合っていないような、遠くを見ているような目だった。


「誰ですか」と老人は言った。


「通りかかりました」と江戸川は言った。「何を植えているんですか」


「イモです」と老人は言った。


「今夜植えますか」


「今夜植えます」と老人は言った。「今夜植えないと、春に間に合わない」


「今は十二月ですが」と江戸川は言った。


「十二月?」と老人は言った。首を傾けた。「そうですか。……でも、植えないと」


「ここは、あなたの畑ですか」と江戸川は言った。


「私の畑です」と老人は言った。「ずっと、私の畑です」


---


 工藤に連絡した。工藤が来た。安藤も来た。


 老人に話しかけながら、名前を聞き出した。


 田辺清三郎、八十一歳。


 安藤がスマートフォンで調べると??失踪届が出ていた。家族が届けていた。一週間前から、夜になると外出して、朝方に戻ってくるという行動を繰り返していた。


「認知症です」と安藤は工藤に小声で言った。「家族が、施設への入居を検討しているところだったそうです」


「畑は」と工藤は言った。


「昔、この方の家族の畑だったそうです」と安藤は言った。「今は別の人が借りている。田辺さんは若い頃、毎年ここでイモを作っていたそうです」


 工藤は老人を見た。


 老人は、冬の畑の前に立って、鍬を手に持ったまま、遠くを見ていた。


「田辺さん」と工藤は言った。


「はい」と老人は振り返った。


「イモ、一緒に植えましょうか」と工藤は言った。


 老人が少し、顔を輝かせた。


「植えてくれますか」


「植えます」と工藤は言った。


---


 冬の夜中に、工藤と江戸川と千紗都が、老人と一緒に畑を耕した。


 イモはなかった。植えるものは何もなかった。


 それでも、四人で土を耕した。


 老人は満足そうだった。「春になったら、芽が出ます」と言った。「毎年、出るんです」


「楽しみですね」と千紗都は言った。


「楽しみです」と老人は言った。


 ミケが畑の端まで来て、土の匂いを嗅いでいた。


---


 老人の家族が来た。


 娘の田辺恵子、五十代だった。老人を見て「お父さん」と言った。声が震えていた。


「イモを植えた」と老人は言った。娘に。「春に来い」


「来ます」と娘は言った。泣きながら。「来ます、必ず」


 老人が頷いた。満足した顔で。


---


 翌朝、太田に電話した。


「根古さんに伝えてもらえますか。権次のイモさしの畑の近くで、認知症の老人が夜中に耕していました。家族と繋がれました」


「わかりました」と太田は言った。


 しかし??折り返しはなかった。


 昼過ぎに、太田から短いメッセージが来た。


*「根古さんから、工藤さんへ。今夜、少し話してもいいですか。ラクカに来てもらえれば。??太田」*


 工藤はメッセージを読んだ。


 今夜、話したい。


 根古から、工藤へ。


 直接ではなく、太田経由で??しかし、工藤だけへ。


---


 夜、工藤は一人でラクカへ行った。


 江戸川には「今夜は一人で行きます」と言った。


「根古さんですか」と江戸川は言った。


「そうです」


「何を話すんですかね」


「わかりません」と工藤は言った。「ただ??聞いてきます」


---


 ラクカには、太田だけがいた。


 閉店後の時間だった。灯りは絞られていた。カウンターに、コーヒーが一杯置いてあった。


「根古さんが話したい、とのことです」と太田は言った。


「太田さんも聞きますか」と工藤は言った。


「根古さんが、工藤さんだけに、と言いましたので」と太田は言った。「私は奥に行っています」


「わかりました」


 太田が奥へ引いた。


 工藤がカウンターに座った。


 コーヒーを一口飲んだ。


 スピーカーが置いてあった。


 しばらくして??声が出た。


---


「工藤さん」


「根古さん」と工藤は言った。


「一人で来てくれてありがとうございます」


「いえ」


「今夜は」と根古は言った。「少し、自分のことを話してもいいですか」


「聞かせてください」と工藤は言った。


 根古が少し間を置いた。


「可児に来たのは、二十年前です」と根古は言った。「仕事を辞めて??何もする気がなくて、ただ歩いていました。どこへ行くかも決めていなかった。ただ、歩いていた」


「どこから歩いてきたんですか」


「東京から」と根古は言った。「二週間、歩きました。どこへ行くかより、どこへも行かなくていい、ということだけを考えながら」


「仕事は」と工藤は言った。


「今は言えません」と根古は言った。「スティーブが後輩だった、ということだけで」


「わかりました」


「可児に着いたのは、十一月でした」と根古は言った。「今くらいの季節です。神明神社の前を通った時、境内の大ヒノキが見えました。夕方の光で、大きく見えました」


 工藤は手帳を出しかけて、止めた。今夜は書かなくていいと思った。


「境内に入りました」と根古は言った。「ヒノキの根元に座りました。どれくらいいたかわかりません。気づいたら、暗くなっていた」


「その時」


「ヤマトが来ました」と根古は言った。声が、少し変わった。「黒猫でした。どこから来たかわからない。ヒノキの根元に座っている私の膝に、乗ってきた」


「ヤマトが」


「はい」と根古は言った。「膝に乗ってきて??動かなかった。私も、動けなかった。そのまま、ずいぶん長い時間、二人でヒノキの下にいました」


 工藤は、手帳に書き留めた言葉を思い出した。「ヒノキは正しかった」という根古のメッセージを。


「それから可児に」と工藤は言った。


「そうです」と根古は言った。「ヤマトを連れて、部屋を借りました。それから、出ていません」


「二十年、出ていない」


「ヤマトが、出たくないのかもしれません」と根古は言った。「ヒノキの近くにいたい、と。私は??ヤマトが帰りたい場所を、守っています」


---


 工藤はしばらく、何も言わなかった。


 コーヒーが冷めていた。飲んだ。


「根古さん」と工藤は言った。


「はい」


「今夜の話を、江戸川に伝えてもいいですか」


「いいです」と根古は言った。「江戸川さんには、いつか話そうと思っていました。あなたが伝えてくれれば、十分です」


「他のみなさんには」


「太田さんは知っています」と根古は言った。「他の方は??いつか、自然に」


「わかりました」


「工藤さん」と根古は言った。


「はい」


「可児に来てくれて、ありがとうございます」と根古は言った。「皆さんが動いてくれて、可児が少しずつ、守られていきました。私は出られませんでしたが??皆さんが足になってくれました」


「根古さんが頭でした」と工藤は言った。


「頭というより」と根古は言った。「ヤマトが頭で、私がその声を聞いていただけです」


「ヤマトは今」


「膝の上にいます」と根古は言った。「いつも通り」


「今夜は、どちらを見ていますか」


「ラクカの方角を」と根古は言った。「ずっと」


---


 工藤がラクカを出たのは、夜の十一時だった。


 外は冷たかった。息が白くなった。


 工藤は歩いた。


 可児川沿いを歩いて、田辺老人が耕していた畑の前を通った。


 夜の畑は、静かだった。耕された土が、冬の月光を受けていた。


 工藤は少し立ち止まった。


 権次のイモさし。間違えて逆さに差した芋。芽が出なかった。


 しかし??耕すことは、できた。


 田辺老人も、毎夜耕しに来ていた。植えるものがなくても、耕すことができた。それが、その人に残っていた最後の仕事だった。


 間違えても、芽が出なくても??耕すことは、できる。


 工藤はまた歩いた。


 神明神社の前を通った。


 境内のヒノキが、冬の夜空に向かって枝を広げていた。


 葉が落ちて、骨格だけになったヒノキが、それでも大きく、そこにあった。


 工藤は石段を上った。


 ヒノキの根元に、立った。


 手を合わせた。


 誰に祈るかは、決めていなかった。


 ただ??この場所が、二十年前の根古を受け止めて、ヤマトを届けて、今夜の自分をここに立たせていることに、手を合わせた。


 冬の風が通った。


 ヒノキの枝が、かすかに揺れた。


---


 翌朝、ラクカに全員が集まった。


 工藤が昨夜のことを、少し話した。根古がヒノキでヤマトと出会った話。二十年、出ていない理由の話。


 全員が静かに聞いた。


 フェルナンドが「ヒノキは最初からわかってた」と言った。


「何がですか」と江戸川が言った。


「根古さんのことを。二十年前から、根古さんのことを知っていた。だから??第八話の男も、ここへ帰ってこれた」


「ヒノキが知っていた」と千紗都は言った。


「そうや」とフェルナンドは言った。「ヒノキは、迷子を守る。根古さんも??二十年前、迷子やったんや」


 誰も否定しなかった。


 太田がカウンターから「コーヒー、出ます」と言った。


 全員分が出た。


 根古のカップも、出た。


 今日のカップは??いつもより、少し、近くに置いてあった。


 カウンターの端ではなく、真ん中に。


 誰も何も言わなかった。


 ただ??全員が、そのカップを、見た。


---


 田辺老人は、翌週から施設に入った。


 入居の日、娘の恵子が工藤に電話をくれた。「父が、春になったらイモを見に行きたいと言っています。畑の方、お願いできますか」


「伝えておきます」と工藤は言った。「春になったら、芽が出るかもしれません」


「芽が出ますか」


「出ると思います」と工藤は言った。


 電話を切った後、工藤は今の団子屋の店主に連絡した。田辺老人の畑のことを伝えた。


 店主が「わかりました。春に、何か植えておきます」と言った。


「ありがとうございます」


「田辺さんには、長く団子を食べに来てもらっていたので」と店主は言った。「芽が出たら、見に来てもらいましょう」


 工藤は電話を切った。


 窓の外、可児川が流れていた。


 冬の川は、透明だった。


---


 夕方、太田からメッセージが来た。


*「根古さんから。権次のイモさしは、芽が出なかった。でも??権次は、また来年、差した。それでいい。??太田」*


 工藤はメッセージを読んだ。


 江戸川に見せた。


「権次は、また来年、差した」と江戸川は繰り返した。「それでいい、ということですか」


「そうです」と工藤は言った。


「芽が出なくても、また差す」


「また耕す、でもいいですね」と工藤は言った。「田辺さんのように」


「根古さんは」と江戸川は言った。「二十年、出ていない。それでも??こうして、みんなと繋がっている」


「そうです」


「それも??また来年、差した、ということですか」


「そうだと思います」と工藤は言った。「形は違っても」


 江戸川はしばらく考えた。


「工藤さん」と江戸川は言った。


「何ですか」


「可児に来てよかったですね」


「そうですね」と工藤は言った。


「横浜とどっちがいいですか」


「どちらも、いいです」と工藤は言った。「どちらも、自分の場所です」


「じゃあ、来年も来ますか」


「来ます」と工藤は言った。「来年も、その次も」


---


 ラクカの灯りが、夜の可児に点っていた。


 太田が一人で、閉店の準備をしていた。


 カウンターの根古のカップを洗う前に、太田はスマートフォンを出した。


*「今日もよく動きました。工藤さんが、ヒノキに手を合わせていたそうですね。??太田」*


 送った。


 すぐに返信が来た。


*「知っていました。ヤマトが教えてくれました。??根古」*


 太田はメッセージを読んだ。


 閉じた。


 根古のカップを、丁寧に洗った。


 来年も、このカップを使う。


 毎日、一杯、出す。


 それだけのことを、二十年続けてきた。


 これからも、続ける。


 ラクカの灯りが消えた。


 可児の夜が、静かになった。


 神明さまのヒノキが、冬の空の下に、大きくあった。


 根元は、暗かった。


 しかし??そこに、何かがいる気がした。


 黒い猫が、一匹。


 ヒノキの根元で、丸くなっているような気がした。


 気がしただけかもしれない。


 しかし??そこにいた。


 確かに、そこにいた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ