「権次のイモさし」
十二月の可児市は、山が枯れていた。
紅葉が終わり、葉が落ち、木の骨格だけが冬の空に向かっていた。可児川の水が澄んで、川底の石が見えた。朝の空気が冷たく、息が白くなった。
冬の可児は、静かだった。
しかし??何かが、動いていた。
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最初に気づいたのは、江戸川だった。
十二月の第一週、夜の街を歩いていた時、可児川沿いの畑の近くを通った。
畑は、冬の間は使われていない。枯れた茎が残っていた。
しかし??土が、動いていた。
誰かが耕していた。
夜の十一時に、畑を耕している人間がいた。
江戸川は足を止めた。
老人だった。
背が丸く、ゆっくりした動作で、鍬を振るっていた。
江戸川は近づこうとした??老人が気配を感じたのか、鍬を止めた。振り返らずに、また歩き始めた。暗い中で、どこかへ消えていった。
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翌朝、江戸川が工藤に話した。
「老人が、夜中に畑を耕していました」
「耕して、何を植えていましたか」と工藤は言った。
「何も植えていませんでした」と江戸川は言った。「耕すだけで、去っていきました」
「権次のイモさし、を知っていますか」と工藤は言った。
「知りません」
「可児の民話です」と工藤は言った。「権次という男が、芋を畑に差したが、逆さに差してしまったという話です。笑えるが??一生懸命やろうとした人間の話でもある」
「逆さに差した芋」と江戸川は言った。「老人が何も植えていなかったのは」
「それはわかりません」と工藤は言った。「ただ??見張ってみましょう。今夜も来るかもしれません」
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その夜、江戸川と千紗都が畑の近くで待った。
千紗都がシロを少し離れた場所に停めた。ミケが助手席にいた。
夜の十時を過ぎた頃、ミケが動いた。
耳を立てて、窓の方を向いた。
「来ます」と千紗都は言った。
江戸川が外を見た。
老人が、畑の方へ歩いていた。昨夜と同じ、背が丸い老人だった。手に鍬を持っていた。
二人は距離を置いて、見ていた。
老人は畑に入った。ゆっくりと、しかし確実に、土を耕し始めた。
江戸川が千紗都を見た。千紗都が頷いた。
二人が近づいた。
「こんばんは」と江戸川は言った。静かに。
老人が止まった。振り返った。
七十代後半、あるいは八十代かもしれなかった。顔に深い皺があった。目が??少し、焦点が合っていないような、遠くを見ているような目だった。
「誰ですか」と老人は言った。
「通りかかりました」と江戸川は言った。「何を植えているんですか」
「イモです」と老人は言った。
「今夜植えますか」
「今夜植えます」と老人は言った。「今夜植えないと、春に間に合わない」
「今は十二月ですが」と江戸川は言った。
「十二月?」と老人は言った。首を傾けた。「そうですか。……でも、植えないと」
「ここは、あなたの畑ですか」と江戸川は言った。
「私の畑です」と老人は言った。「ずっと、私の畑です」
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工藤に連絡した。工藤が来た。安藤も来た。
老人に話しかけながら、名前を聞き出した。
田辺清三郎、八十一歳。
安藤がスマートフォンで調べると??失踪届が出ていた。家族が届けていた。一週間前から、夜になると外出して、朝方に戻ってくるという行動を繰り返していた。
「認知症です」と安藤は工藤に小声で言った。「家族が、施設への入居を検討しているところだったそうです」
「畑は」と工藤は言った。
「昔、この方の家族の畑だったそうです」と安藤は言った。「今は別の人が借りている。田辺さんは若い頃、毎年ここでイモを作っていたそうです」
工藤は老人を見た。
老人は、冬の畑の前に立って、鍬を手に持ったまま、遠くを見ていた。
「田辺さん」と工藤は言った。
「はい」と老人は振り返った。
「イモ、一緒に植えましょうか」と工藤は言った。
老人が少し、顔を輝かせた。
「植えてくれますか」
「植えます」と工藤は言った。
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冬の夜中に、工藤と江戸川と千紗都が、老人と一緒に畑を耕した。
イモはなかった。植えるものは何もなかった。
それでも、四人で土を耕した。
老人は満足そうだった。「春になったら、芽が出ます」と言った。「毎年、出るんです」
「楽しみですね」と千紗都は言った。
「楽しみです」と老人は言った。
ミケが畑の端まで来て、土の匂いを嗅いでいた。
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老人の家族が来た。
娘の田辺恵子、五十代だった。老人を見て「お父さん」と言った。声が震えていた。
「イモを植えた」と老人は言った。娘に。「春に来い」
「来ます」と娘は言った。泣きながら。「来ます、必ず」
老人が頷いた。満足した顔で。
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翌朝、太田に電話した。
「根古さんに伝えてもらえますか。権次のイモさしの畑の近くで、認知症の老人が夜中に耕していました。家族と繋がれました」
「わかりました」と太田は言った。
しかし??折り返しはなかった。
昼過ぎに、太田から短いメッセージが来た。
*「根古さんから、工藤さんへ。今夜、少し話してもいいですか。ラクカに来てもらえれば。??太田」*
工藤はメッセージを読んだ。
今夜、話したい。
根古から、工藤へ。
直接ではなく、太田経由で??しかし、工藤だけへ。
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夜、工藤は一人でラクカへ行った。
江戸川には「今夜は一人で行きます」と言った。
「根古さんですか」と江戸川は言った。
「そうです」
「何を話すんですかね」
「わかりません」と工藤は言った。「ただ??聞いてきます」
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ラクカには、太田だけがいた。
閉店後の時間だった。灯りは絞られていた。カウンターに、コーヒーが一杯置いてあった。
「根古さんが話したい、とのことです」と太田は言った。
「太田さんも聞きますか」と工藤は言った。
「根古さんが、工藤さんだけに、と言いましたので」と太田は言った。「私は奥に行っています」
「わかりました」
太田が奥へ引いた。
工藤がカウンターに座った。
コーヒーを一口飲んだ。
スピーカーが置いてあった。
しばらくして??声が出た。
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「工藤さん」
「根古さん」と工藤は言った。
「一人で来てくれてありがとうございます」
「いえ」
「今夜は」と根古は言った。「少し、自分のことを話してもいいですか」
「聞かせてください」と工藤は言った。
根古が少し間を置いた。
「可児に来たのは、二十年前です」と根古は言った。「仕事を辞めて??何もする気がなくて、ただ歩いていました。どこへ行くかも決めていなかった。ただ、歩いていた」
「どこから歩いてきたんですか」
「東京から」と根古は言った。「二週間、歩きました。どこへ行くかより、どこへも行かなくていい、ということだけを考えながら」
「仕事は」と工藤は言った。
「今は言えません」と根古は言った。「スティーブが後輩だった、ということだけで」
「わかりました」
「可児に着いたのは、十一月でした」と根古は言った。「今くらいの季節です。神明神社の前を通った時、境内の大ヒノキが見えました。夕方の光で、大きく見えました」
工藤は手帳を出しかけて、止めた。今夜は書かなくていいと思った。
「境内に入りました」と根古は言った。「ヒノキの根元に座りました。どれくらいいたかわかりません。気づいたら、暗くなっていた」
「その時」
「ヤマトが来ました」と根古は言った。声が、少し変わった。「黒猫でした。どこから来たかわからない。ヒノキの根元に座っている私の膝に、乗ってきた」
「ヤマトが」
「はい」と根古は言った。「膝に乗ってきて??動かなかった。私も、動けなかった。そのまま、ずいぶん長い時間、二人でヒノキの下にいました」
工藤は、手帳に書き留めた言葉を思い出した。「ヒノキは正しかった」という根古のメッセージを。
「それから可児に」と工藤は言った。
「そうです」と根古は言った。「ヤマトを連れて、部屋を借りました。それから、出ていません」
「二十年、出ていない」
「ヤマトが、出たくないのかもしれません」と根古は言った。「ヒノキの近くにいたい、と。私は??ヤマトが帰りたい場所を、守っています」
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工藤はしばらく、何も言わなかった。
コーヒーが冷めていた。飲んだ。
「根古さん」と工藤は言った。
「はい」
「今夜の話を、江戸川に伝えてもいいですか」
「いいです」と根古は言った。「江戸川さんには、いつか話そうと思っていました。あなたが伝えてくれれば、十分です」
「他のみなさんには」
「太田さんは知っています」と根古は言った。「他の方は??いつか、自然に」
「わかりました」
「工藤さん」と根古は言った。
「はい」
「可児に来てくれて、ありがとうございます」と根古は言った。「皆さんが動いてくれて、可児が少しずつ、守られていきました。私は出られませんでしたが??皆さんが足になってくれました」
「根古さんが頭でした」と工藤は言った。
「頭というより」と根古は言った。「ヤマトが頭で、私がその声を聞いていただけです」
「ヤマトは今」
「膝の上にいます」と根古は言った。「いつも通り」
「今夜は、どちらを見ていますか」
「ラクカの方角を」と根古は言った。「ずっと」
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工藤がラクカを出たのは、夜の十一時だった。
外は冷たかった。息が白くなった。
工藤は歩いた。
可児川沿いを歩いて、田辺老人が耕していた畑の前を通った。
夜の畑は、静かだった。耕された土が、冬の月光を受けていた。
工藤は少し立ち止まった。
権次のイモさし。間違えて逆さに差した芋。芽が出なかった。
しかし??耕すことは、できた。
田辺老人も、毎夜耕しに来ていた。植えるものがなくても、耕すことができた。それが、その人に残っていた最後の仕事だった。
間違えても、芽が出なくても??耕すことは、できる。
工藤はまた歩いた。
神明神社の前を通った。
境内のヒノキが、冬の夜空に向かって枝を広げていた。
葉が落ちて、骨格だけになったヒノキが、それでも大きく、そこにあった。
工藤は石段を上った。
ヒノキの根元に、立った。
手を合わせた。
誰に祈るかは、決めていなかった。
ただ??この場所が、二十年前の根古を受け止めて、ヤマトを届けて、今夜の自分をここに立たせていることに、手を合わせた。
冬の風が通った。
ヒノキの枝が、かすかに揺れた。
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翌朝、ラクカに全員が集まった。
工藤が昨夜のことを、少し話した。根古がヒノキでヤマトと出会った話。二十年、出ていない理由の話。
全員が静かに聞いた。
フェルナンドが「ヒノキは最初からわかってた」と言った。
「何がですか」と江戸川が言った。
「根古さんのことを。二十年前から、根古さんのことを知っていた。だから??第八話の男も、ここへ帰ってこれた」
「ヒノキが知っていた」と千紗都は言った。
「そうや」とフェルナンドは言った。「ヒノキは、迷子を守る。根古さんも??二十年前、迷子やったんや」
誰も否定しなかった。
太田がカウンターから「コーヒー、出ます」と言った。
全員分が出た。
根古のカップも、出た。
今日のカップは??いつもより、少し、近くに置いてあった。
カウンターの端ではなく、真ん中に。
誰も何も言わなかった。
ただ??全員が、そのカップを、見た。
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田辺老人は、翌週から施設に入った。
入居の日、娘の恵子が工藤に電話をくれた。「父が、春になったらイモを見に行きたいと言っています。畑の方、お願いできますか」
「伝えておきます」と工藤は言った。「春になったら、芽が出るかもしれません」
「芽が出ますか」
「出ると思います」と工藤は言った。
電話を切った後、工藤は今の団子屋の店主に連絡した。田辺老人の畑のことを伝えた。
店主が「わかりました。春に、何か植えておきます」と言った。
「ありがとうございます」
「田辺さんには、長く団子を食べに来てもらっていたので」と店主は言った。「芽が出たら、見に来てもらいましょう」
工藤は電話を切った。
窓の外、可児川が流れていた。
冬の川は、透明だった。
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夕方、太田からメッセージが来た。
*「根古さんから。権次のイモさしは、芽が出なかった。でも??権次は、また来年、差した。それでいい。??太田」*
工藤はメッセージを読んだ。
江戸川に見せた。
「権次は、また来年、差した」と江戸川は繰り返した。「それでいい、ということですか」
「そうです」と工藤は言った。
「芽が出なくても、また差す」
「また耕す、でもいいですね」と工藤は言った。「田辺さんのように」
「根古さんは」と江戸川は言った。「二十年、出ていない。それでも??こうして、みんなと繋がっている」
「そうです」
「それも??また来年、差した、ということですか」
「そうだと思います」と工藤は言った。「形は違っても」
江戸川はしばらく考えた。
「工藤さん」と江戸川は言った。
「何ですか」
「可児に来てよかったですね」
「そうですね」と工藤は言った。
「横浜とどっちがいいですか」
「どちらも、いいです」と工藤は言った。「どちらも、自分の場所です」
「じゃあ、来年も来ますか」
「来ます」と工藤は言った。「来年も、その次も」
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ラクカの灯りが、夜の可児に点っていた。
太田が一人で、閉店の準備をしていた。
カウンターの根古のカップを洗う前に、太田はスマートフォンを出した。
*「今日もよく動きました。工藤さんが、ヒノキに手を合わせていたそうですね。??太田」*
送った。
すぐに返信が来た。
*「知っていました。ヤマトが教えてくれました。??根古」*
太田はメッセージを読んだ。
閉じた。
根古のカップを、丁寧に洗った。
来年も、このカップを使う。
毎日、一杯、出す。
それだけのことを、二十年続けてきた。
これからも、続ける。
ラクカの灯りが消えた。
可児の夜が、静かになった。
神明さまのヒノキが、冬の空の下に、大きくあった。
根元は、暗かった。
しかし??そこに、何かがいる気がした。
黒い猫が、一匹。
ヒノキの根元で、丸くなっているような気がした。
気がしただけかもしれない。
しかし??そこにいた。
確かに、そこにいた。




