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「神明さまの大ヒノキ」

十一月の可児市は、山が赤く染まっていた。


 久々利の山、我田の山、明智の山??どこも色づいていた。可児川沿いの木々が黄色くなり、風が吹くたびに葉が舞った。秋の終わりの、最後の色だった。


 神明神社は、市内の住宅地に面した小さな神社だった。


 鳥居が一基、石段が十五段、拝殿が一棟。よくある規模の神社だったが??境内の奥に、一本だけ、大きなヒノキがあった。


 樹齢は推定三百年以上。幹の周囲が四メートルを超え、枝が境内全体を覆っていた。根元には小さな石碑があり「神明さまの大ヒノキ」と刻まれていた。


 地元では「迷子を守るヒノキ」と呼ばれていた。子供が迷子になると、このヒノキの下で見つかる??という話が、代々語り継がれていた。


---


 男が倒れているのを見つけたのは、朝の掃除をしていた宮司だった。


 六時半。ヒノキの根元に、男が横になっていた。五十代くらい。薄いジャンパーを着て、荷物は何もなかった。


 宮司が声をかけると、男は目を開けた。


「ここは」と男は言った。


「神明神社です」と宮司は言った。


「神明さま」と男は繰り返した。「……あった」


「大丈夫ですか」と宮司は言った。


「わかりません」と男は言った。「私が、誰かが、わかりません」


---


 雨月雅之が来たのは、七時過ぎだった。


 男は救急で病院に運ばれていた。身体的な異常はなかった。ただ??自分の名前が言えなかった。住所が言えなかった。何年生まれかも言えなかった。


「記憶喪失です」と雨月は工藤に電話で言った。「医者もそう言っています。ただ??外傷はない。薬物反応もない。なぜ記憶がないのか、わからない」


「身元は」と工藤は言った。


「わかりません。所持品が何もないので。指紋照会をしましたが、記録がなかった」


「記録がない」


「前科がない、ということです。ただ??それ以上のことは、今は」


「わかりました」と工藤は言った。「行きます」


---


 病院で、工藤は男に会った。


 江戸川が一緒だった。


 男はベッドに座っていた。五十代後半くらいに見えた。髪が少し長く、日焼けしていた。長い間、屋外で生活していた人間の肌だった。


「こんにちは」と工藤は言った。


「こんにちは」と男は言った。


「名前を教えてもらえますか」


「わかりません」と男は言った。穏やかに。怯えてはいなかった。むしろ??落ち着いていた。


「神明さまのヒノキを知っていましたか」と工藤は言った。


 男の目が、少し動いた。


「ヒノキ」と男は言った。「……大きい木」


「そうです。あなたはその根元で眠っていました」


「そうですか」と男は言った。「……帰ったんですね」


「帰った?」と江戸川が言った。


「どこかへ、帰った気がします」と男は言った。「どこかは、わかりませんが」


---


 工藤は太田に電話した。


「根古さんに伝えてもらえますか。神明神社のヒノキの根元に、記憶喪失の男性が倒れていました。身元不明、所持品なし。本人は『帰った気がする』と言っています」


「わかりました」と太田は言った。


 ラクカに戻ると、柊澪が来ていた。


「何かありましたか」と澪は言った。「雰囲気でわかります」


「神明さまのヒノキに、人が倒れていました」と工藤は言った。


 澪が少し考えた。「……三年前にも、似た話がありました」


「知っているんですか」と工藤は言った。


「太田さんから聞きました。ラクカに来た人が話してくれたそうで??三年前に、同じヒノキの根元で、記憶が曖昧な人が見つかった、と」


工藤は太田を見た。


「ありました」と太田は言った。カウンターから。「ただ??その方は、すぐに自分で立って帰りました。名前も言えたし、記憶もあった。ただ、なぜヒノキの下にいたかだけが、わからなかった」


「三年前に」と工藤は言った。


「はい」


「今回の方と、同じ人間の可能性はありますか」


太田はしばらく考えた。「年齢は、近かったです。顔は??はっきりとは覚えていません」


---


 太田からメッセージが来たのは、夕方だった。


*「根古さんから。その人は逃げているのではない。帰ろうとしている。ヒノキの根元は、昔から帰り道の目印だった。どこへ帰りたいのかを、聞いてほしい。??太田」*


 工藤はメッセージを読んだ。


 江戸川に見せた。


「帰ろうとしている」と江戸川は言った。「逃げているのではなく」


「根古さんは、何かを知っているんですかね」と江戸川は言った。


「知っているか、見えているか」と工藤は言った。


「違いますか」


「知っているのは、情報から来ます」と工藤は言った。「見えているのは??その人間の動き方から来ます。根古さんは、この人が帰ろうとしている、と見えている」


「どこへ帰りたいか、聞く」と江戸川は言った。「病院に戻りますか」


「戻ります」と工藤は言った。


---


 病院で、工藤は男に再び会った。


 今度は一人で来た。


「もう一度、聞いてもいいですか」と工藤は言った。


「どうぞ」と男は言った。


「あなたは、どこへ帰りたいですか」


 男は少し間を置いた。


「子供の頃の場所へ」と男は言った。


「どんな場所ですか」


「木が、大きくて??神社があって」と男は言った。「境内に入ると、空気が変わる場所です。子供の頃、よく行きました。何かあると、そこへ行きました」


「神明さまの神社ですか」


「……神明さま」と男は言った。「そうです。神明さまです。名前を聞いたら、思い出しました」


「可児で生まれたんですか」


「生まれました」と男は言った。「可児で生まれて??どこかへ行って??」


「どこへ行ったか、覚えていますか」


 男は首を振った。「覚えていません。ただ??長い間、帰れなかった。帰りたかったけれど、帰れなかった」


「なぜ帰れなかったんですか」と工藤は聞いた。静かに、急かさずに。


 男はしばらく黙った。


「怖かったから、だと思います」と男は言った。「どこかが、怖かった。何が怖かったかは??思い出せないんですが」


---


 翌日、星野由紀子が病院に来た。


 工藤が声をかけた。


「何かわかりましたか」と工藤は言った。


「垂井さんに調べてもらいました」と星野は言った。「可児出身で、五十代後半、長期間住所が不定だった可能性がある人間を」


「見つかりましたか」


「候補が一人います」と星野は言った。「本名は今は言えませんが??十八年前から、住民票がない。それ以前は可児に住んでいた」


「十八年前に消えた」


「はい」と星野は言った。「その前に??DVの被害届が、一件だけ出ています。本人が取り下げました」


 工藤は星野を見た。


「逃げていたんですか、十八年間」


「おそらく」と星野は言った。「逃げながら、帰れなかった。ただ??帰りたかった」


「根古さんが言っていた通りです」と工藤は言った。


「根古さんは、どうやって」と星野は言った。「情報も何もない段階で」


「見えていたんだと思います」と工藤は言った。「この人の動き方が」


---


 春日が病院に来たのは、星野の後だった。


 工藤は驚いた。「来たんですか」


「星野さんから連絡をもらいました」と春日は言った。「……私も、逃げていた人間なので。何か、できることがあるかと思って」


「男性に、会えますか」


「会えます」と春日は言った。


---


 春日と男が、病室で向き合った。


 工藤と星野は廊下に出た。


 十分ほどして、春日が出てきた。


「何か話しましたか」と工藤は言った。


「少し」と春日は言った。「逃げることについて。怖くなくなる日が来ること。帰れる日が来ること」


「男性は」


「泣いていました」と春日は言った。「名前は、まだ言えなかったけれど??泣いていました。それで、十分だと思います」


 星野が「逃げることと、帰ることは、同じことかもしれません」と言った。


「どういう意味ですか」と工藤は言った。


「逃げることは、帰る場所を探し続けること」と星野は言った。「逃げている間中、帰る場所を探していた。だから??ヒノキに辿り着いた」


 春日が頷いた。


 言葉は出なかったが、頷いた。


---


 三日後、男に記憶が戻り始めた。


 断片的だったが、名前が出てきた。住んでいた場所が出てきた。垂井が確認した候補と、一致した。


 十八年間、各地を転々としていた。定職には就けなかった。ただ??死なずに生きてきた。


「なぜ今、可児に戻ったんですか」と雨月が聞いた。記録のための確認だった。


「わかりません」と男は言った。

「気づいたら、歩いていました。どこへ行くかも決めていなかったのに??神明さまが、見えた気がして」


「ヒノキが見えた気がした」


「はい。それで??帰れると思いました」


---


 ラクカに全員が集まった夜、工藤が報告した。


 柊澪が「よかったです」と言った。茜が「帰れてよかった」と言った。


 フェルナンドが「ヒノキは、やっぱり守護があった」と言った。


「守護がありました」と工藤は言った。


「俺、最初からそう言ってた」


「言っていませんでした」と工藤は言った。「今回は一言も」


「……雰囲気で言ってた」


「雰囲気では言っていたかもしれません」と工藤は言った。


 フェルナンドが「ビッグ」と言った。満足そうに。


---


 太田から、その夜メッセージが来た。


*「根古さんから。ヒノキは正しかった。帰れた人間がいた。??太田」*


 工藤はメッセージを読んだ。


 短かった。いつも通りだった。


 しかし??「ヒノキは正しかった」という言葉が、工藤には少し引っかかった。


 ヒノキは正しかった。


 まるで、ヒノキのことを、古くから知っているような言い方だった。


 工藤はそれを、手帳の端に書き留めた。


 理由はわからなかった。ただ??書いておく気がした。


---


 神明神社に、秋の夜が来た。


 大ヒノキが、境内を覆っていた。


 枝の間から、星が見えた。


 根元の石碑が、夜の中に静かにあった。


 迷子を守るヒノキ。


 三百年、ここにあった木が??今夜も、ここにあった。

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