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「我田の大岩、動かざるもの」

八月の可児市は、暑かった。


 山があるので街より少しだけ涼しいはずだったが、今年の八月は例外だった。

アスファルトが熱を持ち、川の水位が下がり、杉の葉が少し色を変えた。

それでも我田地区の大岩は、変わらずそこにあった。


 大岩は、名前の通り大きかった。


 高さ三メートル、幅五メートルほどの花崗岩が、山の斜面に半分埋まるように立っていた。

表面に苔が生え、根元に小さな祠があった。

地元では「動かしてはならない」という言い伝えが、いつからともなく伝わっていた。

理由は誰も知らなかった。ただ??知らなくても、動かそうとする人間はいなかった。今まで。


---


 測量会社「東和サーベイ」が我田地区に入ったのは、八月の第一週だった。


 近隣の山林開発に向けた地質調査、という名目だった。チームは五人。

代表の片桐という四十代の男が責任者で、残り四人が測量士だった。


 大岩の周辺も、調査範囲に含まれていた。


 チームが来て二日目の朝、測量士の一人が「辞めます」と言った。


 理由を聞くと「個人的な事情です」と言った。荷物をまとめて、宿を出た。


 四日目、また別の測量士が「辞めます」と言った。


 同じ言葉だった。「個人的な事情です」。荷物をまとめて、出た。


 一週間で、四人が辞めた。残ったのは片桐だけだった。


---


 古田麻尋がそれを知ったのは、街歩きの途中だった。


 麻尋は毎日、可児の街を歩いた。警察の動向を把握する習慣があった。

何かが起きると、街の空気が少し変わる??それを麻尋は歩きながら読んでいた。


 我田地区を歩いていた時、測量士たちが慌ただしく宿を出ていくのを見た。

一人ではなかった。二人目を見た時、おかしいと思った。


 工藤に連絡した。


---


 工藤が我田地区に来たのは、五人目が辞めた翌日だった。


 一週間後に、辞めた四人が??記憶を持たずに可児に戻ってきた。


 一人目が戻ってきた時、片桐が連絡を受けた。

「辞めたはずなのに、なぜここにいるのか、わからない」と言っていると。


 二人目が戻った。三人目が戻った。四人目が戻った。


 全員、可児の街の中で「気づいたらここにいた」と言った。

辞めた記憶はある。どこへ行ったかの記憶がない。


 第一話の鬼ヶ島、第二話の川の人、第三話の春日??記憶を失う、という共通点が、また現れた。


---


 安藤が「根古さんに相談しましたか」と工藤に言った。


「まだです」と工藤は言った。「太田さんに伝言を」


 工藤が太田に電話をした。


「根古さんに伝えてもらえますか。

我田の大岩の周辺で測量をしていた会社の社員が、一週間で全員辞めて、全員記憶を失って戻ってきた。測量会社の代表だけが残っています」


「わかりました」と太田は言った。「伝えます」


 しかし??折り返しは太田ではなかった。


 三十分後、工藤のスマートフォンが鳴った。


 知らない番号だった。


 出ると、低い声がした。


「工藤さんですか。根古です」


---


「珍しいですね、直接のお電話は」と工藤は言った。


「太田さんが昼の仕込みで忙しそうだったので」と根古は言った。

「それと??今回は、少し急いだ方がいいと思って」


「急ぐ理由は何ですか」


「大岩を調べようとしている人間が、測量会社だけではないからです」と根古は言った。

「別の組織が、すでに動いています」


「別の組織、というのは」


「第四話で地下道を使っていた組織と??関係があるかもしれません」と根古は言った。


「繋がっていますか、袈裟斬り地蔵の件と」


「わかりません。ただ??似た手口を使う集団が、可児のいくつかの場所を同時に動いています。大岩は、その一つです」


 工藤は手帳を出した。「測量は口実ですか」


「そうだと思います」と根古は言った。「大岩の下に、何かがあることを知っている人間がいる。

測量を名目に近づいた」


「測量士が辞めて、記憶を失ったのは」


「口封じです」と根古は言った。「第一話と同じ手口。ただ??今回の方が、規模が大きい」


「根古さん」と工藤は言った。「一つ、聞いてもいいですか」


「どうぞ」


「ヤマトは今日、どちらを見ていますか」


 少し間があった。


「三日間、我田の方角を見ていました」と根古は言った。「今日も、同じ方向を見ています」


「わかりました」と工藤は言った。「動きます」


「一つだけ」と根古は言った。「星野さんと、朱音さんに聞いてほしいことがあります」


「何をですか」


「昔の仕事で、同じケースを見たことがないか、と」


---


 星野由紀子は、話を聞いて少し黙った。


 工藤事務所の椅子に座って、窓の外を見た。


「ある」と星野は言った。


「同じケースを」と工藤は言った。


「始末屋の仕事をしていた頃??似た話を聞いたことがあります。場所の調査を依頼されて、測量や工事の名目で近づいて、関係者の記憶を処理して」


「記憶の処理、というのは」


「薬です」と星野は言った。

「市販されていない薬物を使って、特定の期間の記憶を消す。精度は高くない??完全には消えない。だから当人は『辞めた記憶はある、でもその後がない』という状態になる」


「第一話の被害者と同じです」と安藤が言った。


「同じです」と星野は言った。「おそらく、同じルートで入手した薬物です」


「組織が同じ、ということですか」


「か、同じ組織から学んだ別の集団か」と星野は言った。


---


 朱音が来たのは、その夕方だった。


 療養中の体だったが、星野から連絡をもらって、シロに乗ってきた。

千紗都が運転してきた。


「根古さんが聞きたがっている、と聞きました」と朱音は言った。


「無理をさせてしまいましたか」と工藤は言った。


「無理ではありません」と朱音は言った。「根古さんが聞きたいなら、答えたい」


「根古さんを、知っているんですか」


「名前だけ」と朱音は言った。

「始末屋の世界で??動かせない人間、という話を聞いていました。引きこもりで、FXをしていて、猫と暮らしている。でも、誰も無視できない。そういう人間がいる、と」


「動かせない人間」と工藤は言った。


「大岩みたいな人間だ、と言った先輩がいました」と朱音は言った。「私は会ったことがないけれど??そういう人間が可児にいると知っていたから、ここに来た理由の一つです」


 工藤は朱音を見た。


「根古さんを頼りに、可児に来たんですか」


「来た理由の一つです」と朱音は言った。「もう一つは??療養に適した場所だったから」


「両方、正しい理由だと思います」と工藤は言った。


---


 朱音が話した内容は、星野と重なっていた。


 同じ薬物、同じ手口、同じ目的??場所に何かを「埋める」か「掘り出す」かのために、周辺の人間の記憶を処理する。


「大岩の下には、何があるんですか」と朱音は言った。


「根古さんの見立てでは??戦国期の埋蔵物だそうです。

武器か、文書か。学術的価値が高いものが、埋まっている可能性があります」


「それを狙っている人間がいる」


「そうです」


「売る気ですか。文化財を」


「おそらく」と工藤は言った。


「それは」と朱音は言った。静かに、しかし強く。「止めなければなりません」


「垂井さんに動いてもらいます」と工藤は言った。


「垂井さんがいれば、法的に止められます」と朱音は言った。

「私は??証言できます。この手口について。始末屋の仕事として関わったことはありませんが、見聞きした範囲で」


「それで十分です」と工藤は言った。「ありがとうございます」


---


 垂井美智子に連絡すると、「わかりました」と即座に言った。


「準備はできますか、早急に」と工藤は言った。


「根古さんから昨日、『明日、動くかもしれない』と連絡が来ていました」と垂井は言った。

「準備は、昨日から始めています」


「根古さんが昨日から」と工藤は言った。


「退屈しないので、付き合うことにしています」と垂井は言った。飄々と。「何が必要ですか」


「測量会社の法的な停止と、周辺の立入禁止区域の設定です」


「できます」と垂井は言った。

「文化財保護法と、不法侵入の未然防止。組み合わせれば、今夜中に書類が整います」


「今夜中に」


「退屈しないと言ったでしょう」と垂井は言った。


---


 夜、雨月が動いた。


 垂井の書類を持って、我田地区へ向かった。安藤が同行した。


 片桐は測量会社の代表として、まだ我田に残っていた。宿に滞在していた。


 雨月が書類を示した。


 片桐は書類を読んだ。顔色が変わった。


「弁護士が動いているんですか」と片桐は言った。


「そうです」と雨月は言った。


「今夜、我田への立入は」


「禁止です」と雨月は言った。「文書はここにあります」


 片桐はしばらく黙った。


 それから??スマートフォンを出した。どこかに電話をかけようとした。


 安藤が静かに「それはやめた方がいいと思います」と言った。


 片桐は止まった。


「証拠は、もう揃っています」と安藤は言った。「連絡しても、状況は変わりません」


 片桐がスマートフォンをポケットに戻した。


 それで、終わった。


---


 翌朝、工藤は我田地区に来た。


 一人で、大岩の前に立った。


 朝の光が、岩の表面の苔を緑に照らしていた。根元の祠に、新しい花が供えてあった。

誰かが今朝も来ていた。


 工藤は岩を見た。


 三メートルの花崗岩が、何百年もここにあった。

動かしてはならない、という言い伝えが守ってきた。理由を知らなくても、守ってきた。


 その下に、何かがある。


 掘り出すかどうかは??学術機関と行政が決めることだった。工藤の仕事ではなかった。


 工藤の仕事は??動かしてはならないものを、動かそうとした人間を止めることだった。


 それは、終わった。


---


 ラクカに戻ると、星野と朱音が来ていた。


 千紗都がシロを外に停めて、ミケを抱いて入ってきた。


 柊澪と茜も来ていた。二人は何も聞いていなかったが、何かあると感じると自然にラクカに来た。


 太田がコーヒーを出した。全員分。


「根古さんから何か来ましたか」と工藤は太田に聞いた。


「少し前に、メッセージが来ました」と太田は言った。紙に書いて渡してくれた。


*「よく動いた。大岩は、まだそこにある。??根古」*


 工藤はメッセージを読んだ。


 江戸川に見せた。


「短いですね」と江戸川は言った。


「いつも短いです」と工藤は言った。


「でも??全部入っていますね」と江戸川は言った。


「そうですね」と工藤は言った。


 大岩は、まだそこにある。


 それが全てだった。


---


 朱音がコーヒーを一口飲んで、窓の外を見た。


「工藤さん」と朱音は言った。


「何ですか」


「根古さんに、会えますか、いつか」


「わかりません」と工藤は言った。「根古さんは来ません」


「そうですか」と朱音は言った。「でも??いる、という感じがします。どこかに、ちゃんと」


「います」と工藤は言った。「ちゃんと」


 太田がカウンターの奥で、静かに次のコーヒーを淹れていた。


 根古のカップは、今日も一杯、カウンターに出た。


 湯気が立っていた。

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