「弟媛(オトヒメ)伝説・久々利をふまえて」
七月の久々利は、緑が濃く、空気が重かった。
梅雨が明けきらない空の下、久々利城址の山が霞んでいた。
斎藤道三に攻められた土岐氏の城跡。戦乱の記憶が土に染みているような場所だった。
山の麓に、小さな祠があった。弟媛を祀る祠だった。
誰が管理しているのか、花が新しく供えられていた。
北村唯と遠藤成気が可児に来たのは、前日の夕方だった。
遠藤成気、二十八歳。黒人ハーフ、長身、目が鋭かった。
ラクカに入ってきた時、太田が「いらっしゃいませ」と言ったが、それ以上は何も聞かなかった。
遠藤が「何も聞かないんですね」と言うと、太田が「聞く必要があれば、あなたが話してくれます」と言った。
遠藤はしばらく太田を見て、「コーヒーをください」と言った。
唯がラクカでコーヒーを飲みながら、工藤に言った。「根古さんから連絡が来た時??驚きました」
「なぜですか」と工藤は言った。
「根古さんが自分から連絡をしてくる、という話を聞いたことがなかったので」
「根古さんは太田さん経由が多いですが」
「うちには直接来ました」と唯は言った。「メッセージで、一行だけ。
『可児に来てほしい。スティーブも来る。??根古』と」
「スティーブ・ヘイブンスが来るんですか」と工藤は言った。
「明日、来ます」と唯は言った。「護衛のカルロスと一緒に」
「根古さんとスティーブさんの関係は」
「私にも、詳しくはわかりません」と唯は言った。「ただ??スティーブが『後輩だ』と言っていました」
「後輩」と工藤は言った。「根古さんが先輩、ということですか」
「そうなります」と唯は言った。「どこの、とは言いませんでしたが」
---
翌朝、太田から短いメッセージが来た。
*「根古さんから。古い文書が久々利城址の近くで見つかった。垂井さんに連絡済み。工藤さんは城址へ。安藤さんと麻尋さんも呼んでほしい。??太田」*
工藤は安藤に電話した。麻尋にも連絡した。
安藤が「文書とは」と言った。工藤が「詳しくは現場で」と言った。
麻尋は既に動いていた。「城址ですね。十分前から来ています」と返信が来た。
久々利城址への道を、工藤、江戸川、安藤、唯、遠藤が上った。
麻尋が城址の入口で待っていた。手書きの地図を持っていた。今日の分だった。
「昨日、地元の方から連絡があって」と麻尋は言った。
「城址の石垣の近くで、何かが埋まっているのを見つけた人がいて。掘ったら??これが出てきたそうです」
麻尋が袋を出した。透明な袋の中に、折り畳まれた紙が入っていた。
「触っていません」と麻尋は言った。「根古さんから、触るなというメッセージが来たので」
「根古さんから直接?」と工藤は言った。
「はい。今朝、初めてメッセージが来ました。びっくりしました」
「何と書いてありましたか」
「『触るな。工藤さんに渡せ。??根古』とだけ」と麻尋は言った。
「根古さんって、短いですね、メッセージが」
「そうです」と工藤は言った。「内容は短いが、正確です」
---
垂井美智子が来たのは、それから三十分後だった。
四十四歳、弁護士。白いジャケット、黒のパンツ、書類鞄。
久々利城址に弁護士が来る光景は奇妙だったが、垂井は気にしなかった。
「根古さんから連絡をもらいました」と垂井は言った。工藤に。
「今朝ですか」
「昨夜、遅くに」と垂井は言った。
「『明日、久々利に行ってほしい。法的に動く準備をしておいてほしい』と。詳細はなし」
「根古さんらしいですね」
「いつもそうです」と垂井は言った。飄々と。「ただ??根古さんが動く時は、必ず何かある。退屈しないので、付き合うことにしています」
「弁護士として、ですか」
「弁護士として、かつ??個人的な興味として」と垂井は言った。
「根古さんの見立てが外れたことが、一度もないので」
---
文書を開いた。
唯が手袋をつけて広げた。
古い紙だった。しかし??書かれた文字は、古くなかった。
地名が書いてあった。久々利の山の中の地名。
現代の地名が、古い文字体で書かれていた。そして??人名があった。
「春日」という文字があった。
工藤は春日を見た。
春日が石垣の端に座っていた。星野由紀子の隣で、青い顔をしていた。
「春日さん」と工藤は言った。「この文書を、知っていますか」
春日がゆっくりと立ち上がった。文書を見た。
「……知っています」と春日は言った。「私が書きました」
---
全員が静かになった。
「あなたが書いた」と星野が言った。
「はい」と春日は言った。「三年前、逃げ始めた頃に。
もし私が消えても??この場所に手がかりを残しておけば、誰かが見つけてくれると思って。
古い文書のように見せて、目立たないように埋めました」
「古い地名を使ったのは」と工藤は言った。
「久々利に伝わる弟媛伝説を知っていたからです。弟媛は土地の守護神。この土地なら、守ってくれると思いました」
「三年間、気づかれなかった」と麻尋は言った。
「誰も掘らなかったから。先週、地元の方が偶然??」
「偶然ではないかもしれません」と工藤は言った。
「どういう意味ですか」
「根古さんが、誰かに気づかせたかもしれません」
春日は工藤を見た。「根古さんが??私の文書を知っていたんですか」
「わかりません。ただ??根古さんは、必要な時に必要なことを知っています」
---
文書の裏に、もう一つの記述があった。
唯が指でなぞった。「これは??」
「組織の名前です」と春日は言った。「私を追っている組織の。証拠として残しました」
「どんな組織ですか」と遠藤が聞いた。初めて口を開いた。
「始末屋を束ねている、民間の情報組織です」と春日は言った。
「表向きは??企業のセキュリティ会社です。可児にも、関係者がいます」
「関係者が可児に」と安藤が言った。
「坑道にケースを隠した人間と、同じ組織だと思います」と春日は言った。
工藤は遠藤を見た。遠藤が頷いた。
「坑道のデータと、この文書が??同じ組織に繋がる」と工藤は言った。
「そう思います」と春日は言った。
---
スティーブ・ヘイブンスが城址に現れたのは、昼前だった。
五十七歳。背が高く、グレーの髪、サングラス。
護衛のカルロス・ホセが後ろについていた。
スティーブは城址を見渡した。集まった全員を見た。
「根古さんに言われた通りに来ました」とスティーブは日本語で言った。少し訛りがあったが、流暢だった。「皆さんが揃っているとは思っていなかった」
「根古さんの段取りです」と工藤は言った。
「そうですか」とスティーブは言った。「根古さんは、昔から段取りが上手かった」
「昔から、というのは」と江戸川が言った。
スティーブは江戸川を見た。「根古さんの過去について、聞きたいですか」
「聞きたいです」と江戸川は言った。
「今日は話せません」とスティーブは言った。
「ただ??今日の仕事が終わったら、ラクカでコーヒーを飲みながら、少し話せるかもしれない」
「今日の仕事というのは」と工藤は言った。
「春日さんの件です」とスティーブは言った。春日を見た。
「お名前は聞いていました。根古さんから」
「根古さんが」と春日は言った。
「三日前に、メッセージをもらいました。
『春日という人間が可児にいる。追われている。助けてほしい』と」
「三日前」と工藤は言った。「春日さんが見つかる前です」
「根古さんは??それより前から、知っていたようです」とスティーブは言った。
「どうやって知ったかは、聞いていません。根古さんに聞いても、答えないので」
---
垂井が前に出た。
「では」と垂井は言った。「法的な話をしてもいいですか」
「どうぞ」とスティーブは言った。
「春日さんを追っている組織の日本国内での活動は、複数の法令に抵触しています」と垂井は言った。
書類鞄から紙を出した。「今朝、準備しました。根古さんから昨夜連絡が来た時点で、動いていました」
「準備が早い」と安藤が言った。
「退屈しないので」と垂井は言った。淡々と。
「スティーブさん、NSAとして、この資料を使えますか」
「使えます」とスティーブは言った。資料を受け取った。「カルロス」
カルロス・ホセが前に出た。無言で資料を確認した。頷いた。
「今日中に動きます」とスティーブは言った。
「日本国内の関係者については??雨月さん、ですか」
「そうです」と安藤が言った。
「雨月さんと連携してください。根古さんから、雨月さんには話が通っているはずです」
---
昼過ぎ、雨月が城址に来た。
息を切らしていた。走ってきたらしかった。
「根古さんからメッセージが来ました」と雨月は言った。
「『今すぐ久々利に行け。坑道の件と川の件が繋がった。証拠がある』と」
「来ましたね」と工藤は言った。
「来ました」と雨月は言った。全員を見た。「これは??大きな案件ですか」
「そうだと思います」と工藤は言った。
「根古さんが動いているなら、急いだ方がいいのはわかっています」と雨月は言った。
「指示をください」
「根古さんの指示を待ちましょう」と工藤は言った。
「根古さんから来るんですか、ここに」
「来ません」と工藤は言った。「ただ??必要な時に、必要なことが届きます」
---
その言葉が終わる前に、工藤のスマートフォンが震えた。
根古からだった。直接。
テキストメッセージだった。
*「組織の可児担当者が今日、動く。午後三時、久々利の山中に入る予定。坑道のデータを回収しに来る??データはもうないが、知らない。雨月さんに、山の入口を抑えてもらいたい。垂井さんの資料があれば、その場で止められる。工藤さんは城址で待機。動く必要はない。??根古」*
工藤は雨月に見せた。
雨月が読んだ。「午後三時か」と言った。時計を見た。「二時間あります」
「十分です」と垂井が言った。「資料はここにあります」
「スティーブさん」と雨月は言った。
「一緒に動きます」とスティーブは言った。
---
午後三時、久々利の山の入口で、組織の担当者が止まった。
雨月と安藤が待っていた。スティーブとカルロスが後ろにいた。
担当者は二人だった。四十代の男と、三十代の女。スーツを着ていた。
山に入る格好ではなかった。
雨月が警察手帳を出した。「可児署です。同行をお願いします」
男が「理由は」と言った。
垂井が前に出た。書類を差し出した。「こちらをどうぞ」
男が書類を読んだ。顔が変わった。
女が後ろを向いた。
カルロスが静かに立ちはだかった。
五分で、終わった。
---
城址で待っていた全員に、安藤から連絡が来た。
「終わりました」
江戸川が「終わった」と言った。
誰かが息を吐いた。
春日が石垣の上に座ったまま、目を閉じていた。星野が隣に立っていた。
「春日さん」と星野は言った。
「はい」
「終わりましたよ」
春日は目を開けた。久々利の山を見た。夏の空が、城址の上に広がっていた。
「……終わりましたか」と春日は言った。
「終わりました」
春日が泣いた。声を出さずに泣いた。三年間の逃走が、七月の久々利で終わった。
弟媛の祠に、風が通った。
---
夕方、ラクカに全員が集まった。
工藤、江戸川、安藤、星野、春日、千紗都、麻尋、柊澪、藤原茜、藤原朱音、雨月、唯、遠藤、スティーブ、カルロス、垂井、美佑、ロドリゲス、フェルナンド。
十九人だった。
ラクカは満員だった。太田が黙って全員分のコーヒーを出し始めた。
朱音が久々利から来ていた。療養中の体だったが、星野から連絡をもらって来た。
「来ないわけにいかないじゃないですか」と言った。
柊澪が茜と並んで座っていた。
澪が「私、何もしていないですが」と言い、茜が「いてくれたじゃないですか」と言った。
ロドリゲスが「配信していいですか」と言い、美佑が「今日はやめましょう」と言い、ロドリゲスが「そうですね」と素直に言った。
フェルナンドがカードを出しかけて、しまった。
今日は、カードがなくてもわかる。
---
スティーブが工藤の隣に座った。
「根古さんの話、しますか」とスティーブは言った。
「聞かせてください」と工藤は言った。
「根古さんは??昔、私の組織にいました」とスティーブは言った。
「NSAですか」
「それに近い、日本側の組織です」とスティーブは言った。
「私は根古さんより十年若い。研修の時に、根古さんに教わりました。だから後輩です」
「いつ離れたんですか、根古さんは」
「二十年前です」とスティーブは言った。
「理由は??根古さんは言いません。ただ、離れた後、可児に来て、家に入って、出なくなりました」
「二十年、引きこもっているんですか」
「そうです」とスティーブは言った。
「ただ??出なくなっただけで、止まったわけではありません。根古さんは、家の中から見ています。ヤマトと一緒に」
「ヤマトが窓の外を見ると、何かわかる、と言っていました」
「猫は正直ですから」とスティーブは言った。「根古さんはそれを信じています。長年、そうしてきた」
「能力というのは」と江戸川が聞いた。いつの間にか隣に来ていた。
「根古さん自身の力です」とスティーブは言った。
「情報を繋げる力。点と点が、根古さんの頭の中で線になる。訓練で得たものと、もともと持っていたものが??混ざっています。私には、説明できません」
「二十年、家から出ていない人間が」と江戸川は言った。
「なぜ今も、そんなに多くのことを知っているんですか」
「太田さんがいるからです」とスティーブは言った。
全員がカウンターの太田を見た。
太田は黙ってコーヒーを淹れていた。
「太田さんが、ラクカに集まる全員の話を聞いています」とスティーブは言った。
「何も聞かない、と言いながら、全部聞いています。それが根古さんに届く。
根古さんはそれを繋げる。太田さんと根古さんは??二十年、そうしています」
太田がカウンターから顔を上げた。
「コーヒー、冷めますよ」と太田は言った。
全員が笑った。
---
夜が深くなった頃、ラクカに一人分だけ、コーヒーが余った。
太田が最後にカウンターに出したカップだった。
「誰の分ですか」と美佑が聞いた。
「根古さんの分です」と太田は言った。
「来るんですか」
「来ません」と太田は言った。「ただ??いつも、一杯だけ出しています」
誰も何も言わなかった。
カップから湯気が立った。
根古の分のコーヒーが、ラクカのカウンターに静かにあった。
---
全員が帰った後、太田一人がラクカを片付けた。
根古のカップを洗う前に、太田はスマートフォンを出した。
短いメッセージを打った。
*「今日もよく動きました。コーヒー、出しておきました。??太田」*
送信した。
すぐに返信が来た。
*「ありがとう。ヤマトが今日は珍しく、ずっと窓の外を見ていた。久々利の方角を。??根古」*
太田はメッセージを読んだ。
閉じた。
カップを丁寧に洗った。
明日も、ラクカは開く。
何も聞かない場所として、いつも開いている。
---
---
# あとがき(作中世界より)
*春日は、その後も可児に留まった。星野由紀子の貸家で、しばらく過ごした。名前は、少しずつ、取り戻した。*
*垂井美智子が法的手続きを進め、組織の日本国内の活動は半年後に完全に停止した。垂井は「退屈しなかったので満足しています」と言った。*
*坑道のデータは、スティーブとNSAが引き取った。北村唯が解析した。内容については、非公開とされた。唯は「複雑な内容でした」とだけ言った。遠藤は何も言わなかった。*
*雨月雅之は、この件をきっかけに署内での立場が少し変わった。変わり方については、雨月自身も「よくわかりません」と言っている。ただ??根古からのメッセージは、今も時々届く。*
*古田麻尋は、久々利の地図を書き直した。新しい情報を加えて。以前より少し、詳しくなった。*
*柊澪は、次の月からラクカを週五日通うようになった。太田は何も聞かなかった。ただ、澪の分のコーヒーの量が、少し増えた。*
*鳴海美佑は、弟媛伝説の動画を上げた。登録者が四万を超えた。ロドリゲス斎藤との共同配信回が特に再生された。フェルナンド・村田が「ビッグビッグ」と叫ぶ場面がサムネイルになった。*
*太田豊は、今日もラクカを開けた。いつもより少し早く。根古から「今日も人が来る」とメッセージが来ていたから。*
*根古親司は、今日も家にいた。ヤマトが膝の上で丸くなっていた。スマートフォンを見ながら、FXをしながら、窓の外を??ヤマトが見ている方角を、一緒に見ていた。*
*可児川は、今日も流れている。*
*久々利の山に、風が通る。*
*弟媛の祠に、誰かが花を供えた。*
*誰が供えたかは、わからない。*
*ただ??花は、新しかった。*




