「キツネの氷渡り」
六月の可児川は、水量が多かった。
五月の雨が山に染み込み、六月になって川に出てきた。可児川の流れが少し速く、少し濁っていた。川沿いを歩く人間は少なかった。梅雨前の蒸し暑さが、川面から立ち上っていた。
西野千紗都が軽バンのシロを川沿いに停めたのは、朝の七時だった。
理由は特になかった。ただ、この時間にここを通ると、川が綺麗に見えることを知っていた。三毛猫のミケが助手席で丸くなっていた。千紗都は窓を開けて、川を見た。
川の真ん中に、人が立っていた。
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千紗都は目を疑った。
可児川の、水が流れている川の真ん中に、人間が立っていた。流されてもいない。溺れてもいない。ただ、立っていた。
白い服を着た人だった。遠くて顔はわからなかった。こちらを向いているのか、向こうを向いているのかも、わからなかった。
千紗都は車から降りようとして??ミケが低く唸った。
千紗都は止まった。
もう一度、川を見た。
誰もいなかった。
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千紗都は工藤事務所に来た。
江戸川が朝のコーヒーを淹れていた。工藤はデスクで資料を見ていた。
「川に人がいました」と千紗都は言った。「川の中に」
江戸川がコーヒーを持ってきた。「座ってください」
千紗都が話した。全部話した。白い服の人間、流されない人間、ミケが唸った後に消えた人間。
工藤は手帳に書き留めた。
「場所はどの辺りですか」と工藤は言った。
「可児川大橋の上流、五百メートルくらいのところです」
「川幅はどれくらいですか」
「二十メートルくらいはあると思います。川の真ん中だから??十メートル以上離れていた」
「水深は」
「あの辺りは深いです。大人が立てる深さじゃないと思います」
工藤は手帳を閉じた。「キツネの氷渡り伝説を知っていますか」
千紗都が少し間を置いた。「知っています。可児川に伝わる??厳冬期に川が凍って、キツネが渡ったという話。見た人間は幸運になるとも、不吉の前兆とも言われています」
「今は六月ですが」
「氷は張っていません」と千紗都は言った。「でも??あの人は、立っていました。確かに」
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工藤は太田に電話をした。
「根古さんに伝えてもらえますか。可児川の真ん中に人が立っているのを、目撃者が見ました。今朝、七時頃です」
「わかりました」と太田は言った。
十分後、太田からメッセージが来た。
*「根古さんから。それは人間だ。逃げている人間だ。川を選ぶのは理由がある。あと??千紗都さんに、もう一度同じ時間に同じ場所へ行くよう伝えてほしい。ミケは連れて行かなくていい。??太田」*
工藤は千紗都にメッセージを転送した。
千紗都から「わかりました」と返信が来た。一分後に「なぜ根古さんが私の名前を知っているんですか」という追加のメッセージが来た。
工藤は「根古さんはそういう方です」と返した。
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江戸川が美佑に電話をした。
美佑は「キツネの氷渡り!」と叫んだ。電話越しに聞こえた。
「知っていましたか」と江戸川は言った。
「知っています。可児川の伝説の中でも、特に謎が多いやつです。目撃談が多いんですけど??全員、見た後に記憶が薄れるんです。はっきりとは覚えていられない」
「千紗都さんはわりとはっきり覚えていました」
「それは珍しいです」と美佑は言った。「普通は??夢だったかな、という感じになるらしいんです。千紗都さんは??目がいいんですかね、なんか」
「素直な目、ということかもしれません」と江戸川は言った。
「どういう意味ですか」
「根拠はありません。直感です」
「探偵が直感を言っていいんですか」
「必要な時に使います」と江戸川は言った。
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星野由紀子が事務所に来たのは、昼前だった。
四十歳。可児の貸家に、千紗都と麻尋と三人で暮らしていた。背が高く、目が静かで、声が低かった。元始末屋??という過去を、工藤は安藤から聞いていた。詳しくは聞いていなかった。
「川の話、聞きました」と星野は言った。
「千紗都さんから」と工藤は言った。
「はい」
「何か知っていますか」
星野は椅子に座った。すぐには話さなかった。考えていた。
「知っている人間かもしれません」と星野は言った。
「知っている人間」
「川に立っていた人が、ということです」と星野は言った。「始末屋の世界には??存在を消して生きる人間がいます。記録から消える、顔を変える、名前を変える。そうやって生きている人間が、可児にいるとしたら??」
「川を選ぶのは理由がある」と工藤は言った。「根古さんの言葉です」
「根古さんが」と星野は言った。少し、声の調子が変わった。
「ご存知ですか」
「名前は、聞いたことがあります」と星野は言った。それだけ言った。
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午後、雨月警部補が事務所に来た。
「坑道のケース、中身がわかりました」と雨月は言った。
「何が入っていましたか」と工藤は言った。
「暗号化されたデータが入った記録媒体です」と雨月は言った。「うちでは解析できないので、上に投げています。ただ??データの形式が特殊で」
「特殊というのは」
「民間のものじゃない、という話です」と雨月は言った。「それ以上はわかりません。ただ??今朝、署に一本電話がかかってきました。うちの代表番号に」
「どんな電話ですか」
「名乗らなかった。ただ??『坑道のものには触れない方がいい』と言って、切れました」
工藤は安藤を見た。安藤が頷いた。
「脅しですか」と江戸川が言った。
「脅しとも取れます」と雨月は言った。「ただ??声が、穏やかだったと受付が言っていて。怒鳴るわけでもなく、ただ静かに言って、切れた」
「根古さんに伝えます」と工藤は言った。
「根古さんが関係しているんですか、これに」と雨月は言った。
「わかりません。ただ??根古さんはいつも、必要なことを知っています」
雨月は少し考えた。「根古さんは??川の話も、知っていますか」
「知っています」
「そうですか」と雨月は言った。「では、私も動きます。川沿いの聞き込みをします。今朝、他に目撃者がいないか」
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翌朝、千紗都は一人で川へ行った。
ミケは家に残してきた。
朝の七時、可児川大橋の上流五百メートル。昨日と同じ場所に、シロを停めた。
川を見た。
誰もいなかった。
五分待った。十分待った。
川の流れが、少し速かった。
十五分が経った頃??
川の向こう岸に、人影が見えた。
川の中ではなかった。向こう岸の、草むらの端に、人が立っていた。こちらを見ていた。
白い服ではなかった。暗い色の服を着ていた。
千紗都はドアを開けた。
人影が動いた。草むらの中に入っていった。
千紗都は川を渡れなかった。橋まで走って、向こう岸へ行った。草むらを探した。
誰もいなかった。
ただ??草が踏まれていた。人が歩いた跡があった。可児川の上流の方向へ、続いていた。
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千紗都から電話が来た。工藤に。
「向こう岸に人がいました」と千紗都は言った。「草の跡を確認しました。上流に向かっています」
「戻ってください」と工藤は言った。「一人で追わないでください」
「わかりました。ただ??工藤さん」
「何ですか」
「その人が??こちらを見ていた時、何かを持っていました。小さいものです。紙か、布か??白いものでした」
「白いもの」
「こちらに見せようとしていたのかな、と思いました。逃げながら、でも??見せようとしていた」
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工藤は太田に電話をした。
「根古さんに伝えてください。川の向こう岸に人影が出ました。上流に向かっています。白いものを持っていた、と目撃者が言っています」
太田が「少し待ってください」と言った。
三分後、太田の声が戻った。
「根古さんから。その人間は、会いたがっている。ただ、怖いから近づけない。白いものは??手紙か、あるいはそれに近いものだと思う。上流に、行き止まりの場所がある。そこで待っているはず。安藤さんと工藤さんで、急がず、一人で行けるよう見せた方がいい、とのことです。??太田」*
「一人で、というのは」
「一人の方が、怖くないから、ということだと思います」と太田は言った。「根古さんはそこまで言いませんでしたが」
「太田さんの解釈ですか」
「そうです」と太田は言った。
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工藤が一人で川沿いを上流へ歩いた。
安藤は五十メートル後ろで待機した。江戸川はもう少し離れた場所から見ていた。
川沿いの道が細くなり、やがて草に埋もれた。岩が増えた。可児川の上流は、山に近づくにつれて景色が変わった。
行き止まりがあった。
大きな岩が川に張り出し、道がそこで終わっていた。
岩の影に、人がいた。
四十代くらいの女性だった。暗い服を着て、壁に背中をつけて、膝を抱えていた。工藤を見て、立ち上がろうとして、震えていた。
「こんにちは」と工藤は言った。静かに、遠くから。
女性は何も言わなかった。
「探偵です」と工藤は言った。「あなたを捕まえに来たわけではありません」
女性がゆっくりと手を伸ばした。何かを持っていた。
白い紙だった。
折り畳まれた、白い紙だった。
工藤は近づいた。受け取った。
広げた。
短い文章が書いてあった。手書きで、震えた字で。
*「助けてください。追われています。星野由紀子さんを知っていますか」*
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工藤は安藤に連絡した。安藤が来た。江戸川も来た。
女性は名前を言わなかった。ただ、星野由紀子の名前を知っていた。
「星野さんを呼びます」と工藤は言った。「ここで待っていてもらえますか」
女性は頷いた。
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星野が来た。
岩場に星野が入った瞬間??女性が立ち上がった。
「由紀子」と女性は言った。
星野の顔が、変わった。
「……生きていたんですか」と星野は言った。
「生きていました」と女性は言った。「ずっと、逃げていました」
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夕方、ラクカで星野が話した。
女性の名前は、仮に「春日」と呼ぶことにした??本名は今は言えない、と春日は言った。
始末屋の世界にいた人間だった。三年前、ある組織から離脱した。離脱は認められなかった。以来、逃げ続けていた。
「星野さんも同じ世界にいたんですか」と工藤は言った。
「いました」と星野は言った。「ただ??私は、うまく離脱できた。春日は、できなかった」
「なぜ可児川に現れたんですか」と江戸川が春日に聞いた。
「根古さんを探していました」と春日は言った。
「根古さんを」
「始末屋の世界で??根古という名前を聞いたことがありました。引きこもりで、FXをしていて、猫と暮らしていて、しかし誰も無視できない人間だ、という話を。その人に相談できれば、と思っていました」
「なぜ直接来なかったんですか」
「怖かったから」と春日は言った。「ずっと追われているので、どこへ行っても怖かった。可児に来ても、人に近づくのが怖くて??川で立ち止まっていたら、こちらを見ている女性がいた。ミケがいたから、安全な人だとわかった」
「ミケが」と千紗都は言った。「私の猫が」
「猫がいる人間は、信頼できます」と春日は言った。「それだけで判断しました」
太田がカウンターの奥から「根古さんも猫と暮らしていますよ」と言った。
誰も笑わなかったが、場が少し柔らかくなった。
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その夜、工藤は太田に電話した。
「根古さんに伝えてください。春日さんが保護できました。星野さんと合流しています。根古さんを探していたそうです」
太田が少し間を置いた。「わかりました。伝えます」
十分後、メッセージが来た。
*「根古さんから。よく見つけた。春日さんには、しばらくラクカに来るよう伝えてほしい。何も聞かない場所だから、と。追っている組織については??次の話になる。スティーブに連絡する。??太田」*
「スティーブ」と工藤は呟いた。
「誰ですか」と江戸川が聞いた。
「わかりません。根古さんの知り合いのようです」
「根古さんって、どんな人と知り合いなんですかね」
「それが??第三話の問いになりそうです」
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深夜、北村唯からメッセージが来た。
工藤のスマートフォンに、直接。
*「工藤さん。可児で動きがあると聞きました。遠藤と一緒に明日そちらへ向かいます。根古さんから連絡が来ました。??北村唯」*
工藤は画面を見た。
根古がNSAに連絡を入れた。
引きこもりで、FXで生活して、猫と暮らしている男が??NSAに、直接。
工藤はメッセージを閉じた。
窓の外、可児の夜が続いていた。
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翌朝、フェルナンドがラクカでタロットを引いた。
またカメラなしで。
出たのは「星」だった。
星は希望の象徴だ。長い夜の後に来る光。逃げ続けた人間が、ようやく一息つける場所を見つける??そういう意味を持つことがある。
フェルナンドはカードを見て、春日のことを思った。
川に立っていた人間が、ラクカに来る。
根古さんが「何も聞かない場所だから」と言った場所に。
「太田さん」とフェルナンドは言った。
「はい」
「ここって、なんで何も聞かないんですか」
太田はコーヒーを淹れながら答えた。「聞いても、何かが変わるわけではないので」
「聞いたら、変わりますか」
「場合によっては」と太田は言った。「ただ、たいていは??話したくなった時に、自分から話してくれます。それで十分です」
フェルナンドは「ビッグ」と言った。
今度は最後まで言った。
「ビッグな場所ですね、ここ」
太田は何も言わなかった。ただ、コーヒーをカウンターに置いた。
美味かった。




