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「桃太郎伝説・鬼ヶ島」

五月の可児市は、緑が深かった。


 可児川沿いの土手に草が伸び、久々利の山に霞がかかり、朝の空気が湿っていた。

横浜とは違う湿気だった。海ではなく、山と川から来る湿気だった。


 工藤俊一が可児市に事務所を開いて、三ヶ月が経っていた。


 なぜ可児市かと聞かれると、工藤は「縁です」と答えた。

詳しく聞かれると「ラクカのコーヒーが美味しいので」と答えた。それ以上は答えなかった。


 江戸川勉は横浜と可児を行き来していた。「どっちに住んでるんですか」と事務所の大家に聞かれ、「どちらでもあります」と答えた。

大家は意味がわからなかったが、家賃は払われているので何も言わなかった。


---


 事件の始まりは、鳴海美佑だった。


 いつもそうだった。


 鳴海美佑、二十四歳。地元YouTuber、登録者三万人超。

可児市とその周辺の歴史・伝説・怪談を主なコンテンツにしている。

声が明るく、度胸があり、「これは絶対バズる」という嗅覚だけは本物だった。


 その美佑が、五月の第二週に工藤事務所のドアを叩いた。


「ロドリゲスさんと、フェルナンドさんが、山に入ったまま帰ってこないんです」


 工藤は手帳を出した。「いつからですか」


「昨日の夕方から。久々利の山です。桃太郎伝説の鬼ヶ島を取材するって言って」


「鬼ヶ島」


「可児市には桃太郎伝説があるんです。

鬼ヶ島と呼ばれる岩場が久々利にあって??そこで最近、人が記憶をなくして帰ってくる、という話があって」


「記憶をなくして」


「三件です。今年に入ってから。全員、鬼ヶ島の近くまで行って、気づいたら麓にいた。その間の記憶がない」


 工藤は江戸川を見た。


 江戸川はコーヒーを飲みながらすでにスマートフォンで地図を見ていた。

「久々利城址の北側に岩場があります。入口は??ここかな」


「その岩場です」と美佑は言った。


---


 安藤修が事務所に来たのは、美佑の話が終わった直後だった。


 三十六歳、元刑事。可児在住。工藤事務所に週三日手伝いに来ていた。

元刑事の習慣として、朝は早い。


「鬼ヶ島の件、知っています」と安藤は言った。ドアを開けながら。


「知っていたんですか」と工藤は言った。


「雨月さんから聞いていました。記憶喪失の件、可児署でも把握しています。

ただ??事件性が立証できないので動けていない」


「雨月さんというのは」と江戸川が聞いた。


「可児署の警部補です」と安藤は言った。

「俺の古い知り合いで??根古さんとも繋がっています」


「根古さん」と美佑が言った。「あの根古さんですか」


「知っているんですか」と工藤は言った。


「可児では知らない人がいません」と美佑は言った。

「有名人です。引きこもりの??なんかすごい人、という認識で」


「なんかすごい人」と江戸川は繰り返した。


「正確な説明ではありませんが、間違ってもいません」と安藤は言った。


---


 久々利の山へ向かう前に、工藤は太田豊に電話をした。


 ラクカのマスター。何も聞かない、いつも起きている男。


「太田さん」と工藤は言った。

「根古さんに伝えてもらえますか。久々利の鬼ヶ島で、行方不明者が出ました。ロドリゲス斎藤さんとフェルナンド村田さんです」


 電話口で少し間があった。


「わかりました」と太田は言った。「根古さんに伝えます。何かあれば、折り返します」


「お願いします」


 工藤が電話を切ると、江戸川が「根古さんって、会えるんですか」と聞いた。


「会えません」と工藤は言った。


「なぜですか」


「来ないからです」と工藤は言った。「ただ??聞いています。いつも」


---


 古田麻尋が合流したのは、久々利の入口だった。


 二十三歳、小柄で、リュックを背負い、地図を手に持っていた。

印刷した地図ではなく、手書きだった。久々利の山道を、自分で歩いて書いたものだった。


「待っていました」と麻尋は言った。


「連絡しましたか、私は」と工藤は言った。


「美佑から聞きました」


「俺より先に動いているんですか、みなさん」


「可児はそういう街です」と麻尋は言った。涼しい顔で。


 麻尋は地図を広げた。「鬼ヶ島の岩場、ここです。北側に入口があって、内側に空洞があります。地元では知られているんですが、観光案内には載っていない」


「空洞があるんですか」と安藤が言った。


「昔の炭鉱跡です。明治期に使われていた小規模な坑道が、岩場の下に残っています。今は封鎖されているはずでしたが??」


「はずでした、というのは」


「今年の春に、封鎖の蓋が外れているのを見ました」と麻尋は言った。


 安藤が「それが雨月さんに行っていなかった」と呟いた。


---


 山道を上り始めた頃、工藤のスマートフォンが震えた。


 太田からのメッセージだった。


 短かった。


*「根古さんから。岩場の北側に空間がある。地上から見えない位置。入口は低い。這って入る。ガスに気をつけろ、とのことです。??太田」*


 工藤は麻尋に見せた。


 麻尋は地図を見た。「北側の、ここか」と指で示した。

「行ったことがないです。道がない」


「道がなくても行けますか」と江戸川が言った。


「行けます」と麻尋は言った。「私が先に歩きます」


---


 鬼ヶ島の岩場は、名前より静かだった。


 巨大な岩が重なり合い、その隙間に木が生えていた。

観光地でも心霊スポットでもなく、ただ古い山の地形だった。しかし??何かが、空気の中にあった。

工藤にはわからなかったが、江戸川が「なんか変な感じがします」と言い、安藤が「俺も」と言った。


 麻尋が北側へ回り込んだ。


「ここです」と麻尋は言った。


 岩の隙間に、低い開口部があった。大人が這わなければ入れない大きさだった。


 安藤が懐中電灯を出した。「俺が先に入ります」


「気をつけてください」と工藤は言った。「ガスが出ているかもしれません」


「どこ情報ですか」と安藤が聞いた。


「根古さんです」と工藤は言った。


 安藤は少し間を置いた。「……信じます」


---


 中に、ロドリゲス斎藤とフェルナンド・村田がいた。


 二人とも、壁にもたれて座っていた。

意識はあったが、目が虚ろだった。スマートフォンのバッテリーが切れていた。カメラは回っていなかった。


「ロドリゲスさん」と安藤が声をかけた。


 ロドリゲスが顔を上げた。「……あ」と言った。


「大丈夫ですか」


「大丈夫です」とロドリゲスは言った。「ただ??なぜここにいるのか、少し、わからなくて」


 フェルナンドが「……鬼ヶ島、来たんやったっけ」と呟いた。


「来ました」と江戸川は言った。「昨日の夕方から、ずっとここにいました」


「昨日の夕方」とフェルナンドは繰り返した。「そんなに経ったんか」


---


 二人を外に連れ出した後、工藤は開口部の前にしゃがんだ。


 安藤が「ガスです」と言った。

「微量ですが、出ています。天然のものか、坑道の残留ガスか??専門家じゃないと判断できません。ただ、長時間いれば意識に影響が出る」


「記憶をなくして帰ってきた三人も」と工藤は言った。「同じですね」


「おそらく」


「なぜ今年になってから、という問題が残ります」と工藤は言った。

「封鎖の蓋が外れたのが春。つまり??誰かが外した可能性がある」


「誰が、何のために」と江戸川は言った。


「それが次の問いです」


---


 麓に下りたところで、雨月雅之が待っていた。


 二十八歳、可児署警部補。スーツを着ていたが、山道を歩いてきたような靴だった。


「安藤さんから連絡を受けました」と雨月は言った。「二人は見つかりましたか」


「見つかりました」と工藤は言った。

「無事です。ただ、坑道のガスで一時的に意識が朦朧としていた可能性があります」


「坑道」と雨月は言った。顔が変わった。「封鎖が外れていたんですか」


「麻尋さんが春に確認しています」


「……把握できていませんでした」と雨月は言った。「申し訳ない」


「今からでも間に合います」と工藤は言った。「ただ??」


「ただ?」


「封鎖が外れた経緯を、調べてもらえますか。自然に外れたものか、人為的なものか」


 雨月は少し間を置いた。「……根古さんが関係していますか、これに」


「アドバイスをいただきました」と工藤は言った。


「そうですか」と雨月は言った。何かを考える顔をした。

「根古さんが動いているなら??急いだ方がいいですね」


---


 夕方、ラクカに全員が集まった。


 工藤、江戸川、安藤、美佑、麻尋。ロドリゲスとフェルナンドは医者に診てもらった後、一足先にラクカに来ていた。


 太田がカウンターでコーヒーを淹れていた。人数分、黙って出した。


 ロドリゲスが「チャンネル登録お願いします」と言った。


「今ですか」と麻尋が言った。


「生きていたので」とロドリゲスは言った。「報告しないと」


 フェルナンドが「鬼ヶ島、怖かったで」と言った。「入った時は大丈夫やったのに、気づいたら記憶がなくて」


「記憶がない間、何かありましたか」と江戸川が聞いた。


「夢みたいなのを見た」とフェルナンドは言った。「山の中に、誰かおった。俺に向かって??何か言ってた気がするんやけど、聞き取れなかった」


「それは」と麻尋が言った。「他の三人も同じことを言っています」


「誰かいたんですかね、本当に」と江戸川が言った。


 全員が黙った。


 太田がカウンターの奥で、静かにカップを磨いていた。


---


 工藤のスマートフォンが震えた。


 太田からではなかった。


 知らない番号だった。


 出ると、低い声がした。


「工藤さんですか」


「そうです」と工藤は言った。


「根古です」


 ラクカの中が、少し静かになった気がした。実際には何も変わっていなかったが。


「初めて直接ご連絡をいただきました」と工藤は言った。


「太田さんが忙しそうだったので」と根古は言った。「坑道のガス、調べてもらえましたか」


「雨月さんに依頼しました」


「それで十分です」と根古は言った。「一つ、お伝えしたいことがあります」


「どうぞ」


「坑道の蓋を外した人間は??ガスが目的ではありません」と根古は言った。

「坑道の奥に、何かを隠したかった。ガスは副作用です」


「何を隠したんですか」


「それは工藤さんが見つけてください」と根古は言った。「私は行けませんので」


「わかりました」


「一つだけ聞いてもいいですか」と根古は言った。


「どうぞ」


「ヤマトが、今日は珍しく窓の外を見ていました。久々利の方角を」


「猫が方角を知っているんですか」


「ヤマトは、いつも正しい」と根古は言った。「では」


 電話が切れた。


 江戸川が「根古さんですか」と聞いた。


「そうです」と工藤は言った。


「どんな声でしたか」


「静かな声でした」と工藤は言った。

「ヤマトという猫が、今日は窓の外を見ていたそうです」


「それが情報になるんですか」


「根古さんにとっては、なるそうです」


---


 翌朝、工藤と安藤が坑道に戻った。


 今度は装備を整えて、ガスマスクをつけて入った。雨月が手配してくれた。


 坑道は思ったより奥まで続いていた。古い木の支柱が腐りかけながら残っていた。


 奥の、壁際に??金属製のケースがあった。


 鍵がかかっていた。工藤は開けなかった。写真を撮って、雨月に連絡した。


「何が入っていたんですかね」と帰り道に安藤が言った。


「それは雨月さんが調べます」と工藤は言った。


「根古さんは、何が入っているか知っていると思いますか」


「おそらく」と工藤は言った。


「なぜ言わないんですかね」


「言う必要がないからだと思います」と工藤は言った。

「私たちが見つけることが、大事なんでしょう」


 安藤は少し考えた。「……引きこもりで、FXで生活して、猫と暮らしている人が??なぜそんなに物事を知っているんですかね」


「それが第二話の問いだと思います」と工藤は言った。


「第二話」


「次の事件が来た時に、見えてくるかもしれません」


---


 夕方、太田から短いメッセージが来た。


*「根古さんから。よく動いた。次はキツネに注意するよう伝えてほしい、とのことです。意味はわかると思う、と。??太田」*


 工藤はそれを江戸川に見せた。


「キツネ」と江戸川は言った。「次の話の予告ですか」


「可児には、キツネの伝説があります」と美佑が後ろから言った。いつの間にか来ていた。


「なぜいるんですか、ここに」と江戸川は言った。


「ラクカにいたら工藤さんが来たので」と美佑は言った。「キツネの氷渡り、知っていますか」


「知りません」と工藤は言った。


「可児川に伝わる伝説です」と美佑は言った。目が輝いていた。「絶対バズります」


「バズらせるかどうかは、状況次第です」と工藤は言った。


「わかってます」と美佑は言った。「でも??根古さんがキツネって言ったなら、来ます、絶対」


 太田がカウンターの奥から「コーヒー、もう一杯どうぞ」と言った。


 誰に言ったのかは、わからなかった。


 全員分、出てきた。


---


 その夜、フェルナンドが一人でカードを引いた。


 ラクカの隅で、カメラなしで。


 出たのは「月」だった。


 月は幻惑の象徴だ。見えるものが真実とは限らない。隠されたものが、水面の下にある。


 フェルナンドはカードを見ながら、今日見た「夢」を思い出した。


 山の中に、誰かがいた。


 声が聞き取れなかった、と思っていた。


 しかし??今になって思い返すと、何か言っていた気がした。


 *見るな。*


 あるいは??


 *見ろ。*


 どちらだったか、わからなかった。


 フェルナンドはカードをしまって、コーヒーを飲んだ。


「太田さん」とフェルナンドは言った。


「はい」


「根古さんって、会ったことありますか」


「あります」と太田は言った。


「どんな人ですか」


 太田はしばらく考えた。「静かな人です」と言った。

「ただ??ヤマトの話をする時だけ、少し声が柔らかくなります」


「猫の話をする時に」


「はい」


 フェルナンドは「ビッグ……」と言いかけて、止めた。


 今夜は、それだけで十分だった。

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