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「夏祭りと、温泉の答え」

八月の御前湯は、祭りの匂いがした。


 宿から山道を下ること二十分、集落の鎮守の森に、小さな夏祭りがあった。女将によると、百年以上続く祭りだという。屋台は十軒ほど、神輿は一基、花火は二十分。規模は小さいが、山の夏には似合っていた。


「浴衣で行きましょう」と千恵が言い出した。


 全員が賛成した。


 問題は、浴衣を持ってきていない人間が半数いたことだった。


 女将が「宿に貸し出し用があります」と言い、倉庫から古い浴衣を十二着出してきた。柄は様々だった。紺地に白の朝顔、白地に藍の幾何学模様、薄緑に笹の葉、黒地に金魚??。


 着付けは千恵と女将が担当した。


---


 問題は、ムハンマドとロドリゲス斎藤の二人だった。


 問題というのは語弊があった。むしろ??予想外に板についた、というのが正確だった。


 ムハンマドは黒地に白の波模様を選んだ。背が高く、体格が良く、浴衣の帯をきっちり締めると、どこかの旅館の主人のようだった。


「似合いすぎです」と長曾我部が言った。


「ありがとうございます」とムハンマドは言った。涼しい顔で。


 ロドリゲス斎藤は白地に赤い金魚の浴衣を選んだ。背丈が中くらいで、浴衣の裾がちょうどよく、帯の結び方を千恵に教わりながら「これ、バイヤーとして商品になりませんかね」と言っていた。着上がると、横浜の盆踊りに来た粋な人間に見えた。


「配信します」とロドリゲスは言った。


「今日は祭りだから、少しくらいいいと思います」と千恵は言った。


 珍しい許可だった。ロドリゲスは三回聞き直した。


---


 鏑木は紺地に白の朝顔を着て、「こういうの、むかし着たな」と言った。加藤は薄緑の笹の葉模様で、「フィアットに乗ってくる格好じゃないな」と言った。織田は「ラーメン屋っぽくない」と言い、フェルナンドは「占い師っぽすぎる」と言った。フェルナンドが選んだのは紫地に月と星の柄だった。確かに占い師だった。


 松平秀麿は、白地に藍の幾何学模様を選んで、一人で着た。神主は着物に慣れているので、浴衣など造作もなかった。


 秋月は濃紺の無地を選んだ。余計な柄がなく、元刑事らしかった。


 工藤は灰色に細い縞模様を選んだ。地味だったが、似合っていた。


 北村唯は、薄水色に白い花の浴衣を着た。千恵が帯を結んでやった。二十六歳のエージェントが浴衣を着ると、ただの若い女性になった。それが唯には、少し照れくさかった。


「綺麗ですよ」と千恵は言った。


「ありがとうございます」と唯は言った。鏡を見た。鏡の中の自分が、少し知らない人に見えた。悪くない知らない人だった。


---


 山道を全員で下った。


 提灯の明かりが見えてきた。屋台の匂いが上がってきた。焼き鳥、綿菓子、焼きそば??夏祭りの匂いは、山の中でも変わらなかった。


 集落の人々が振り返った。見慣れない顔が多かったが、浴衣を着ていたので、誰も咎めなかった。


「焼き鳥食べます」とムハンマドが言い、屋台に向かった。大柄な浴衣姿のカレー店長が焼き鳥を買う光景は、屋台の主人を少し戸惑わせたが、ムハンマドが「美味しそうですね」と笑顔で言ったので、主人も笑顔になった。


 フェルナンドが「占い、一回やりましょか」と集落の人に声をかけ始めた。千恵が「やめなさい」と言い、フェルナンドが「需要があるんですよ」と言い、長曾我部が「場所をわきまえてください」と言った。


 ロドリゲスは配信しながら屋台を巡った。「夏祭り、山の中です。チャンネル登録お願いします。今夜は特別回です」と言っていた。


 鏑木と加藤が金魚すくいをした。二人とも取れなかった。「ポイが弱い」と鏑木は言い、「腕が悪い」と加藤は言い、二人の議論が始まった。


---


 工藤は人混みの端で、冷やしあめを飲んでいた。


 山の祭りの夜気は涼しく、浴衣でちょうど良かった。提灯が揺れ、太鼓の音が遠く聞こえ、子供たちが走り回っていた。


 隣に唯が来た。


「冷やしあめ、美味しいですか」と唯は聞いた。


「飲んだことがありますか」と工藤は聞いた。


「ありません」


「甘くて、しょうがが効いています」と工藤は言った。「好みが分かれます」


「買ってきます」と唯は言って、屋台に向かった。


 戻ってきた唯は、一口飲んで「好みが分かれるとはこういうことですか」と言った。


「嫌いですか」


「嫌いではありません。ただ、驚きます」


「最初はそうですね」


 二人は並んで、祭りを見た。


 鏑木と加藤がまだ金魚すくいをしていた。二人とも意地になっていた。


「工藤さん」と唯が言った。


「はい」


「今夜、答えを言います」


「レイモンドさんが来るんですか」


「来ます」と唯は言った。「花火の前に」


 工藤は唯を見た。唯は祭りを見ていた。浴衣の袖を少し引っ張るようにして、冷やしあめのコップを持っていた。


「怖いですか」と工藤は聞いた。


「怖くはありません」と唯は言った。「ただ??寂しい気もします。少し」


「どちらを選んでも?」


「どちらを選んでも」


 工藤は少し考えた。


「寂しさは、続きません」と工藤は言った。「ここに来れば、全員いますから」


「来年の冬も」


「来年の冬も」


 唯は頷いた。


---


 レイモンドが現れたのは、花火の三十分前だった。


 集落の外れ、杉の木の陰から歩いてきた。今日もリネンのジャケットだった。浴衣姿の全員を見て、一瞬だけ表情が動いた。


「浴衣か」とレイモンドは言った。


「お前も着ればよかった」と秋月が言った。


「次の機会に」とレイモンドは言った。


 唯がレイモンドの前に立った。浴衣の帯をきっちり締めた、二十六歳のエージェントが、上司の前に立った。


「レイモンド」と唯は言った。


「唯」とレイモンドは言った。


 全員が遠巻きに見ていた。フェルナンドがタロットを出しかけたが、長曾我部に止められた。ロドリゲスがカメラを向けかけたが、秋月に止められた。


「答えを聞かせてくれ」とレイモンドは言った。


「はい」と唯は言った。一呼吸、置いた。


「私は??しばらく、ここに残ります」


 夜気が、静かになった。


「組織を離れる、ということではありません」と唯は続けた。「ただ、この場所の担当として、継続して関わりたい。レポートは出します。ただし??内容は、私の判断で書きます。それが受け入れられないなら」


「受け入れる」とレイモンドは言った。


 唯が止まった。


「え」


「受け入れる、と言った」とレイモンドは繰り返した。「お前の判断で書いていい。最初から、そのつもりだった」


「最初から」


「お前が手を挙げた時から」とレイモンドは言った。「お前がなぜここへ来たいのか、わかっていた。だから担当にした」


 唯は、レイモンドを見た。


「知っていたんですか。父のことを」


「知っていた」


「なぜ言わなかったんですか」


「お前が気づくまで、待っていた」とレイモンドは言った。「気づいた後は??お前が自分で答えを出すまで、待っていた」


 唯は何も言わなかった。


 レイモンドが続けた。


「唯。お前の父親も、同じことをした」


---


 全員が、静かになった。


 フェルナンドも黙った。ロドリゲスも黙った。鏑木も加藤も、金魚すくいのポイを持ったまま、固まった。


「父が」と唯は言った。「同じことを」


「この場所を、守ろうとした」とレイモンドは言った。「組織に報告せず、自分の判断で、この温泉を記録の外に置いた。私はその判断を支持した。だが??組織の中では通らなかった。父は任務を離れた。自分の選択で」


「父は」と唯は言った。声が少し変わった。「それを、後悔していますか」


「していない」とレイモンドは言った。「私が最後に会った時??あいつは笑っていた。お前くらいの年の頃、あいつはこう言った。守りたいものが見つかった、と」


 唯の目が、動いた。


 泣くかと思った。しかし泣かなかった。


 唯は一度、深く息を吸った。


「父は」と唯は言った。「今も」


「生きている」とレイモンドは言った。「どこにいるかは、私にも言えない。ただ??生きている」


---


 沈黙があった。


 長い沈黙だった。


 最初に口を開いたのは、フェルナンドだった。


「ビッグビッグビッグ??!」


 全員が一斉にフェルナンドを見た。


「すみません」とフェルナンドは言った。「堪えてたんですが、無理でした」


 鏑木が笑った。


 加藤が笑った。


 ムハンマドが「人生はスパイスのようなものです」と言い、誰も意味がわからなかったが、全員が笑った。


 長曾我部が眼鏡を外して拭いた。湯気のせいではなかった。


 千恵が豆助を抱き上げて、唯に近づいた。


「よかったですね」と千恵は言った。それだけだった。


 唯は豆助を見た。豆助が鼻をひくつかせた。


「よかったです」と唯は言った。


---


 レイモンドが、全員の方を向いた。


「皆さんに、一つ聞いてもいいですか」


「どうぞ」と秋月が言った。


「この温泉は??本当に予知をするんですか」


 全員が顔を見合わせた。


「します」と鏑木が言った。即座に。


「証拠はありますか」


「証拠はありません」と長曾我部が言った。「ただ??毎回、何かが起きます」


「科学的な説明は」


「工藤さんが仮説を持っています」とムハンマドが言った。


「希土類元素が、人間の感知能力をわずかに開く、というものです」と工藤が言った。


「証明されていますか」


「されていません」


「つまり」とレイモンドは言った。「信じるか信じないかは、個人の判断だ」


「そうです」と松平が静かに言った。「ただ??私たちは、信じています。信じてここに集まっています。それが全てです」


 レイモンドはしばらく黙った。


「わかりました」とレイモンドは言った。「唯の報告書を、信頼します」


---


 花火が、始まった。


 集落の外れの河原から、一発目が上がった。


 山に囲まれた夏の夜空に、光が広がった。音が遅れて来た。山が反響させて、音が二重になった。


 全員が空を見た。


 鏑木が「ええな」と言った。


 加藤が「ええな」と繰り返した。


 ムハンマドが手を合わせた。信仰の仕草ではなく、ただ、感謝の仕草だった。


 フェルナンドが「配信してええか」とロドリゲスに聞いた。「します」とロドリゲスは言った。


 松平が目を閉じた。目を閉じていても、光は瞼の裏に届いた。


 長曾我部は帳面を出さなかった。今夜は書かなかった。ただ、見ていた。


 千恵が豆助を抱いたまま、空を見た。豆助も空を見た。花火の音に耳を伏せたが、逃げなかった。


 工藤は秋月の隣に立って、空を見た。


「秋月さん」


「何だ」


「来てよかったですか、今年の夏も」


「来てよかった」と秋月は言った。迷わずに。「来年の夏も来る」


「冬も」


「冬も来る」


 北村唯は、レイモンドの隣に立っていた。


 二人で空を見た。


「レイモンド」と唯は言った。


「何だ」


「父に、会えますか。いつか」


 レイモンドは少し間を置いた。


「わからない」と言った。「ただ??伝えることはできる」


「何を伝えてほしいですか」と唯は聞いた。自分で決めるために、聞いた。


「御前湯に来てほしい、と伝えてください」と唯は言った。「お友達の会に、一人分、空きがあります」


 レイモンドは唯を見た。


 笑った。


 初めて、声を出して笑った。


「伝える」と言った。


---


 花火が続いた。


 山の空に、次々と光が咲いた。


 赤、青、金、白??色が溶けて、夜に散った。


 音が遅れて届くたびに、山が応えるように響いた。


 全員が空を見ていた。


 十二人が、山の夏の夜に、並んでいた。


---


 翌朝、チェックアウトの前。


 全員が玄関に集まった時、温泉の話になった。


「今月は予知がなかったですね」と松平が言った。


「来月はあるかな」と鏑木が言った。


「あるでしょう」とフェルナンドが言った。「俺の占いがそう言うてる」


「占いで占いを補強するのは相変わらずですね」と長曾我部が言った。


「二重に安心できます」


 レイモンドが「一つ聞いていいですか」と全員に言った。


「どうぞ」と秋月が言った。


「来月、また来てもいいですか」


 全員が顔を見合わせた。


「予約してから来てください」と鏑木が言った。


「前回も言われました」とレイモンドは言った。


「大事なことやから二回言います」


---


 車が、一台ずつ出発した。


 鏑木の軽トラが最初に出た。加藤が助手席から手を振った。


 ムハンマドのワンボックスが続いた。フェルナンドとロドリゲスが同乗していた。配信はまだ続いていた。


 千恵が豆助を助手席に乗せて出た。


 松平は今月も千恵の車で帰った。


 長曾我部はタクシーを呼んでいた。乗る前に振り返って、御前湯を一度だけ見た。


 レイモンドが先に出た。去り際に唯に「来月」とだけ言った。唯が頷いた。


 工藤と秋月の車が最後から二番目だった。


「唯は」と秋月が言った。


「残ります、少しだけ」と工藤は言った。「送っていきます、後で」


「そうか」と秋月は言った。助手席に乗り込んで、窓を開けた。「唯」


「はい」と唯が答えた。


「来年の冬、忘れるなよ」


「忘れません」と唯は言った。


「御前湯の雪は、夏より綺麗だ」


「見たことがないので、楽しみにしています」


「楽しみにしておけ」と秋月は言った。


 工藤が車を出した。砂利道を走り、杉林に入り、見えなくなった。


---


 唯が一人、御前湯の前に立った。


 夏の朝の光が、宿の屋根に当たっていた。


 女将が縁側に出てきた。


「またいらっしゃいますか」と女将は聞いた。


「来ます」と唯は言った。「来月も、冬も、来年も」


「お待ちしています」と女将は言った。


 唯は御前湯を見た。


 色褪せた看板。手入れされた盆栽。杉の木。夏の空。


 父が来たかもしれない場所。


 自分が来た場所。


 これからも来る場所。


 唯は、深く息を吸った。


 山の夏の空気が、肺の中に入ってきた。


 温かくはなかった。しかし??冷たくもなかった。


 ちょうどいい、と思った。


 この場所は、ちょうどいい。


---


 大浴場では、湯が静かに湧いていた。


 誰もいない浴場に、湯気が立っていた。


 湯面が、かすかに揺れた。


 文字は浮かばなかった。


 ただ??揺れた。


 まるで、また来い、と言うように。


 まるで、待っている、と言うように。


 御前湯の夏が、終わった。


---

*??シーズン2 第四話「夏祭りと、温泉の答え」了??*


---


# シーズン2 あとがき(作中世界より)


*お友達の会は、その夏以降、人数が一人増えた。*


*レイモンド・北村は、翌月から御前湯の常連になった。最初は「視察」という名目だったが、三回目からはその言葉を使わなくなった。浴衣は次の夏に自前で用意してきた。柄は、紺地に白い波だった。*


*北村唯の報告書は、その後も「異常なし」で提出され続けた。上司のレイモンドは毎回承認した。組織の中で異議を唱える者は、いなかった。*


*唯の父親がいつか御前湯に来たかどうかは、この物語では書かない。ただ??レイモンドが伝えた、という話は、後に唯から聞いた。*


*工藤俊一の探偵事務所は、翌年に少し手狭になった。助手を一人雇った。助手の名前は、ここでは書かない。スピンオフで明かされる予定がある。*


*秋月小五郎は、相変わらず誰にも言わずについてきた。ただ一度だけ、工藤に「俺がいると、邪魔か」と聞いたことがある。工藤は「邪魔ではありません」と答えた。秋月は「そうか」と言い、それ以上何も聞かなかった。*


*豆助は、その秋も生きていた。十七歳になっていた。御前湯の冬に、また来た。雪の縁側で、丸くなって眠った。*


*御前湯は、今年も湯を湧かしている。

*


*予知は、今月も出た。*


*何が出たかは??来年の話になる。*


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