「唯が語る夜」
七月の終わり、お盆の少し前。
御前湯の山は、一年で一番緑が濃い時期だった。杉の葉が重なり合い、昼間でも林の中は薄暗く、渓流の水音が深くなった。宿の縁側から見える稜線が、夏の空との境界を鮮明に引いていた。
お友達の会が揃ったのは、いつもより一日遅かった。
鏑木が現場の都合で夕方になり、全員が夕食を待って揃えた。女将が「遅くなりましたが」と鍋を運んできた時、鏑木が「待っててくれたんか」と言い、全員が「当たり前です」と言った。それだけのことだったが、それだけのことが大事だった。
北村唯は、今月も来た。
来月に答えを出すと言った。その来月が、来た。
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夕食の後、全員が湯に入った。
今月は予知を待つ雰囲気ではなかった。全員がわかっていた??今月は、唯の月だ。温泉が何を言うかより、唯が何を言うかの方が、大事な月だった。
湯に浸かりながら、お友達の会の面々は、いつもより静かだった。
フェルナンドも「ビッグサイン」と言わなかった。ロドリゲスもスマートフォンを出さなかった。鏑木も加藤も、いつもの議論をしなかった。
ただ、湯に浸かっていた。
松平が目を閉じて、静かに座っていた。
ムハンマドがスパイスティーを淹れてきて、全員に渡した。湯の中でカップを受け取るという、奇妙な光景だったが、誰も笑わなかった。
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夜が深くなってから、唯が工藤と秋月に声をかけた。
「少し、話せますか。二人に」
工藤は頷いた。秋月は「ああ」と言った。
三人が大浴場に残った。他の面々は先に上がっていた。千恵が豆助を連れて部屋に戻る時、唯の方を一度だけ振り返った。何も言わなかったが、その目が言っていた。??ゆっくり話してきなさい。
三人だけの大浴場。
虫の声が、外から聞こえていた。
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しばらく、誰も口を開かなかった。
湯の温度は変わらなかった。蒸気が天井に向かって昇っていった。
唯が最初に口を開いた。
「私がNSAに入ったのは、二十三歳の時です」と唯は言った。「大学で国際安全保障を学んで、試験を受けて、合格しました」
「どこの大学ですか」と工藤が聞いた。
「東京です。でも、父がアメリカ人だったので、英語は問題ありませんでした」
「父親が」と秋月が言った。
「はい」と唯は言った。「父は??日系アメリカ人でした。母が日本人で、私は日本で生まれました。父は私が十二歳の時に、仕事でいなくなりました」
「いなくなった、というのは」
「死んだわけではありません」と唯は言った。「ただ??会えなくなりました。仕事の都合で、と母は言っていました。子供だった私には、それ以上のことはわかりませんでした」
湯が、静かに揺れた。
「大人になってから、わかったんです」と唯は続けた。「父も、エージェントだったということが」
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秋月が何も言わなかった。
工藤も何も言わなかった。
唯はそれに感謝しているようだった。急かされずに話せる、ということに。
「父が最後にいた場所が、長野でした」と唯は言った。「詳しい場所は、記録に残っていませんでした。ただ??長野の山の中で、何かを調査していた、という記録だけが」
「御前湯に」と工藤は言った。
「来ていたかもしれません」と唯は言った。「証拠はありません。ただ??この温泉の予知能力が観測対象になった時、私は自分で手を挙げました。担当になりたい、と」
「父親を探しに来た」と秋月は言った。断定ではなく、確認のように。
「探すというより」と唯は言った。「何かを確かめたかった。父がここで何を見たか。父が何を感じたか」
「わかりましたか」と工藤が聞いた。
唯はしばらく黙った。
「わかりました」と唯は言った。「この温泉は??特別な場所じゃないんです。泉質が特殊なわけでも、地質が特異なわけでも、ない」
「工藤さんの仮説と同じですか」と秋月が言った。
「はい。人間の中にある感知能力を、わずかに開く。それだけの場所です」
「それだけの、というのは」
「十分すぎる、という意味です」と唯は言った。「父が何を感じたか??ここに来た人間が、みんな自分の中の何かに気づく場所。それを父も感じたんだと思います」
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湯面が、かすかに揺れた。
三人が湯面を見た。
文字は浮かばなかった。ただ、波紋が広がって、消えた。
松平が一人で入りに来るはずの時間は、まだ先だった。
「父は」と唯は続けた。「最終的に、組織を離れました。私が十五歳の頃、母からそれを聞きました。正式な退職ではなく??任務を途中で止めた、ということでした。どこかで何かを選んで、組織の外に出た」
「その後は」と工藤が聞いた。
「わかりません」と唯は言った。「今も、どこにいるかわかりません。生きているかどうかも」
秋月が湯の中で、少し動いた。
「唯」と秋月は言った。今まで「唯さん」と呼んでいたが、今回は呼び捨てだった。本人も気づいていないようだった。「お父さんを、恨んでいるか」
「恨んでいません」と唯は即座に言った。「ただ??理解できなかった。どうして途中で止めたのか。任務を捨てることが、何を意味するのか」
「今は理解できるか」
唯はゆっくりと、工藤を見た。それから秋月を見た。
「できます」と唯は言った。「ここに来て、わかりました」
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「レイモンドは」と唯は続けた。「父の同僚でした。父がいなくなった後、私を気にかけてくれていた人です。私がNSAに入った時、レイモンドが担当になったのも??偶然ではないと思います」
「知っていて、担当になった」と工藤は言った。
「おそらく」と唯は言った。「だから先月、『お前の父親も同じことをした』と言いかけた??」
「言いかけた?」と秋月が言った。
「まだ言っていません」と唯は言った。「花火の時に言うはずだったのかもしれません。来月、来ると言っていました」
「来月、また来るということか」と秋月は言った。
「はい」
秋月は天井を見た。蒸気が流れていた。
「レイモンドは」と秋月は言った。「お前のことを、心配しているんだろう」
「心配と、任務は別です」と唯は言った。
「一緒のこともある」と秋月は言った。「俺も??工藤のことが心配で、ついてきたが、それは任務じゃない。ただ、心配だった」
工藤が秋月を見た。
秋月は工藤を見なかった。湯面を見ていた。
「秋月さん」と工藤は言った。
「何だ」
「今、大事なことを言いましたね」
「言ってない」
「言いました」
「言ってない」
唯が、静かに笑った。声は出さなかったが、笑った。それが大浴場の空気を、少しだけ変えた。
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「答えは」と工藤は聞いた。「決まりましたか」
「決まっています」と唯は言った。「来月、レイモンドに伝えます」
「教えてもらえますか、今夜」
「……花火まで待ってください」と唯は言った。
「来月の祭りまで」
「はい」
秋月が「そうか」と言った。「じゃあ来月まで待つ」
「秋月さんは、どう思いますか」と唯は聞いた。「私の答えが、何だと思いますか」
秋月は少し考えた。「わからん」と言った。
「わからない、というのは本当ですか」
「本当だ」と秋月は言った。「ただ??どっちを選んでも、来年の冬に御前湯に来い。それだけは言える」
唯は秋月を見た。
「冬も来ますか」と唯は言った。
「来る」と秋月は言った。「工藤も来る。全員来る。だから、お前も来い」
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長い沈黙があった。
悪い沈黙ではなかった。湯の温かさと虫の声と水音が、沈黙を埋めていた。
唯が言った。
「私がここに来たのは、任務じゃなかった」
「最初から?」と工藤が言った。
「最初から」と唯は言った。「父が来たかもしれない場所へ、娘として来た。それが最初でした」
「それを、レイモンドは知っていますか」と工藤は聞いた。
「知っています」と唯は言った。「だから??ゆっくり考えろ、と言ったんだと思います」
「優しい上司ですね」と工藤は言った。
「優しいのか厳しいのか、わかりません」と唯は言った。「ただ??父の代わりに、私を気にかけてくれていた。それは本当だと思います」
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秋月が「俺は古いやり方しか知らん」と言った。
突然だったので、工藤と唯が秋月を見た。
「急にどうしましたか」と工藤が言った。
「なんとなく」と秋月は言った。「お前たちの話を聞いていたら、自分のことを思った。俺は十八年、刑事のやり方しか知らなかった。退職した時、それしかない自分が、少し怖かった」
「今は怖くないですか」と唯が聞いた。
「今は??」と秋月は言った。「ここがあるから」
工藤が言った。「それで十分だと思います」
秋月は工藤を見た。
「……お前は、なんでそういうことを、さらっと言えるんだ」
「さらっとは言っていません」と工藤は言った。「本当のことを言うのに、飾る必要がないので」
秋月は何も言わなかった。
唯が「秋月さんと工藤さんは」と言った。「いつからそんなに、息が合っているんですか」
「合っていません」と秋月は言った。
「合っています」と工藤は言った。
「合っていない」
「合っています」
唯がまた笑った。今度は声が出た。小さかったが、本物の笑い声だった。
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三人が湯から上がった時、廊下に全員が待っていた。
待っているつもりはなかったのかもしれない。ただ、廊下にいた。鏑木が壁にもたれ、加藤が隣に座り、ムハンマドが何かを持っていた??スパイスティーだった。四人分。
「多い」と秋月が言った。「三人だ」
「女将の分です」とムハンマドは言った。
女将が廊下の奥から「ありがとうございます」と言った。本当に待っていたらしかった。
長曾我部が「お疲れさまでした」と唯に言った。それだけだった。それで十分だった。
フェルナンドが「なんか言うことある?」と唯に聞いた。
「来月も来ます」と唯は言った。
「それだけか」
「今夜は、それだけです」
「ええやないか」とフェルナンドは言った。「それで十分や」
千恵が豆助を連れてきた。豆助が唯の足元に近づいて、鼻をひくつかせた。
「豆助が認めてくれました」と千恵は言った。
「豆助に基準があるんですか」と唯は言った。
「あります。この子は嘘をつく人間が嫌いです」
唯は豆助を見た。老いた柴犬が、丸い目で唯を見上げていた。
「嘘はついていません」と唯は言った。
「知っています」と千恵は言った。
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その夜、松平が一人で大浴場に入った。
いつもの習慣だった。
湯に浸かって、目を閉じた。
湯面が、揺れた。
松平は目を開けた。
文字が浮かんだ。
*語った。*
それだけだった。
松平はしばらくその文字を見た。
予知ではなかった、と松平は思った。
温泉が、今夜起きたことを、ただ確認していた。
語った。
語ることが??この場所では、すでに答えだったのかもしれない。
松平は目を閉じた。
湯が、温かかった。




