「唯の上司が来た」
七月の御前湯は、六月より蒸していた。
山の湿気が杉林に溜まり、朝から空気が重かった。それでも街の暑さとは違う。街のアスファルトが放つ熱とは違う、土と草と水の湿気だった。鏑木は「職人の汗と一緒や」と言った。加藤は「全然一緒やない」と言った。二人の議論は駐車場で十分続いた。
今月は全員が揃っていた。
北村唯も来た。今月は少し早めではなく、全員と同じタイミングで来た。女将に挨拶して、荷物を部屋に置いて、縁側で山を見た。
山は、今月は静かだった。
先月の機材は、消えたままだった。
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異変は、昼食の後に起きた。
全員が大広間でお茶を飲んでいた時、玄関の引き戸が開いた。
チェックインの予定は、全員分が終わっていた。
女将が対応に出て、しばらくして戻ってきた。「お客様が一名、いらっしゃいました」と言った。「ご予約はないのですが??お知り合いの方だそうで」
全員が顔を見合わせた。
引き戸の向こうから、男が入ってきた。
五十代。背が高く、肩幅が広く、髪は黒と白が半々だった。顔立ちは日本人とそうでない人の間のどこかにあり、目が細く、しかし油断のない目だった。スーツではなく、薄いリネンのジャケットを着ていた。旅慣れた人間の服装だった。
男は大広間を見渡した。一人ひとりを、順番に、しかし素早く見た。
そして北村唯を見た。
唯は立ち上がっていた。顔は動かさなかったが、全身が少し、固くなっていた。
「唯」と男は言った。日本語だったが、イントネーションが少し違った。
「……レイモンド」と唯は言った。「なぜ、ここに」
「視察だ」と男??レイモンドは言った。穏やかな声だった。穏やかすぎて、逆に圧があった。「お前の報告書が気になってね」
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秋月が最初に動いた。
立ち上がって、レイモンドの前に出た。元刑事の立ち方だった。腰が低く、重心が前にある。
「どちら様ですか」と秋月は言った。
「レイモンド・北村です」と男は答えた。「唯の、上司です」
「北村、というのは」
「妻の姓を名乗っています」とレイモンドは言った。「日本では、その方が便利なので」
秋月はレイモンドを見た。レイモンドは秋月を見た。二人の間に、短い静寂があった。元刑事とエージェントが互いを値踏みする、数秒間だった。
「お茶でも」と秋月は言った。
「いただきます」とレイモンドは言った。
鏑木が「誰やこれ」と小声でフェルナンドに聞いた。フェルナンドが「わからん、でもビッグオーラや」と小声で答えた。ロドリゲスがスマートフォンを出しかけて、唯の視線を受けてしまった。そっとポケットに戻した。
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レイモンドはお茶を飲みながら、大広間を見回した。
「皆さんが、唯が言っていた『お友達』ですか」と言った。
「言っていたんですか、私のことを」とフェルナンドが即座に聞いた。
「言っていました。変わった人たちが集まる温泉だ、と」
「変わった人!」と鏑木が言った。今度は嬉しそうだった。「また言われた」
「褒め言葉として受け取ります」とムハンマドが言った。
「褒め言葉として言いました」とレイモンドは言った。表情は変えなかったが、目の奥が少し柔らかくなった。
唯はその間、何も言わなかった。長椅子の端に座って、お茶のカップを両手で持ったまま、動かなかった。
工藤は唯を横目で見た。
唯の手が、かすかに震えていた。
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夕食の前、唯がレイモンドに呼ばれた。
二人は宿の廊下の端で、小声で話した。お友達の会の面々は大広間にいたが、廊下との境の障子が薄く、声の断片が漏れてきた。聞こうとしたわけではなかったが??聞こえた。
鏑木は「盗み聞きはあかん」と言って、わざと咳払いをした。長曾我部は帳面を開いた。ムハンマドはお茶のお代わりを注いだ。みんなが、聞こえないふりをした。
しかし秋月だけは、廊下の方に耳を傾けていた。
断片だった。
「……報告書が薄い」というレイモンドの声。
「……現地に特異な事象は」という唯の声。
「……お前が感情的になっているのではないか」というレイモンドの声。
「……感情は判断を妨げていません」という唯の声。
そして沈黙。
長い沈黙の後、レイモンドが言った言葉は、聞き取れなかった。
唯が戻ってきた時、顔は変わっていなかった。しかし工藤には、何かが変わったとわかった。
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夕食は賑やかだった。
女将が夏の山菜と川魚の料理を並べた。ムハンマドが「少しだけスパイスを」と言い、千恵が「少しだけですよ」と言い、今回も絶妙な味になった。レイモンドは川魚を一口食べて、「これは何ですか」と聞いた。「岩魚です」と女将が答えた。「美味しい」とレイモンドは言った。素直な言葉だった。
「レイモンドさん」とフェルナンドが話しかけた。「占いはお好きですか」
「信じません」とレイモンドは即座に言った。
「信じない人ほど当たるんです」
「それは商売上手な言い方ですね」
「三十年やってるんで」
レイモンドはフェルナンドを見た。少し、笑った。「正直な人だ」と言った。
「占い師は正直やないとあかん」とフェルナンドは言った。「嘘をつくと、カードに出る」
「カードが嘘をつく人間を判別するんですか」
「人間が判別します。カードはきっかけです」
レイモンドはしばらく考えた。「なるほど」と言った。
唯は二人の会話を聞きながら、岩魚を箸でほぐしていた。食べていなかった。
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食後、レイモンドが大浴場を見たいと言った。
唯の顔が少し動いた。
「浴場の視察も任務のうちです」とレイモンドは言った。「温泉の泉質を確認する必要がある」
「今は??」と唯が言いかけた時。
「今はカレーの仕込みがあります」とムハンマドが立ち上がった。
全員が見た。
「カレーの仕込みが、浴場と何の関係があるんですか」とレイモンドが言った。
「スパイスを挽く作業が浴場の近くで行われます」とムハンマドは言った。まったく動じずに。「蒸気が必要なので」
「浴場でスパイスを挽くんですか」
「そうです」
レイモンドは、ムハンマドを見た。ムハンマドは、レイモンドを見た。
その間に、鏑木が廊下に出て、浴場の前に仁王立ちした。
「ここは俺らの現場や」と鏑木は言った。腕を組んで。大工の立ち方で。「現場には段取りがある。段取りを無視してええことは何もない」
レイモンドは鏑木を見た。
六十歳の大工が、NSAの上級エージェントを、正面から見ていた。
レイモンドは、少し間を置いて言った。「わかりました。明日にします」
鏑木は頷いた。「それでよろしい」
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夜、工藤は唯を探した。
廊下にも、大広間にも、縁側にもいなかった。
裏庭に出ると、唯が石灯籠の横に立っていた。虫の声の中で、一人で山を見ていた。
「唯さん」と工藤は言った。
「工藤さん」と唯は振り返らずに言った。「聞こえましたか、さっきの話」
「断片だけ」と工藤は言った。「感情的になっていると言われましたか」
唯は少し間を置いた。「はい」
「感情的になっていますか」
「……なっています」と唯は言った。「それが、問題なんです」
工藤は唯の隣に立った。山を見た。夜の山は黒く、しかし虫の声が賑やかで、生きていた。
「レイモンドさんは」と工藤は言った。「どんな人ですか」
「優秀な人です」と唯は言った。「公正で、冷静で、任務に忠実な人です」
「嫌いではないんですか」
「嫌いではありません」と唯は言った。「だから??難しい」
「好きな上司に、逆らうことが」
「逆らっているかどうかも、わからないんです」と唯は言った。「報告書に『異常なし』と書いたことは、私の判断でした。でも??正しい判断だったかどうか」
「正しかったと思います」と工藤は言った。
「根拠はありますか」
「この温泉と、ここに集まる人たちが、守られるべきものだという根拠なら」と工藤は言った。「十分にあります」
唯はゆっくりと工藤を見た。
「工藤さんは」と唯は言った。「探偵だから、そう言えるんですか」
「探偵だから言えることと、人間だから言えることは、違います」と工藤は言った。「今のは、人間として言いました」
唯は少し、目を細めた。
泣くのかと工藤は思ったが、泣かなかった。
「ありがとうございます」と唯は言った。
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夜の大浴場に、秋月が一人で入った。
遅い時間だったが、眠れなかった。
湯に浸かりながら、レイモンドのことを考えた。
優秀な人間だと思った。話し方、立ち方、目の動き??全部が洗練されていた。感情を見せない訓練を、長年受けてきた人間の顔だった。
秋月にはわかった。
自分も、似たような訓練を、現場で積んできたから。
ただ??一つだけ、気になったことがあった。
夕食の時、川魚を食べた時の顔。「美味しい」と言った時の顔。
その瞬間だけ、レイモンドの目が、子供のように素直だった。
あの顔は、訓練で作れる顔ではない。
秋月は湯の中で腕を組んだ。
レイモンドという人間は??思ったより、単純ではないかもしれない。
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翌朝。
レイモンドが大広間で一人、コーヒーを飲んでいた。女将が「インスタントしかありません」と言ったが、「それで十分です」と言って受け取った。
秋月が向かいに座った。
「昨夜はよく眠れましたか」と秋月は聞いた。
「山の宿は静かすぎて、眠れませんでした」とレイモンドは言った。「都市の生活が長くて」
「どこに住んでいますか」
「ワシントンです。主に」
「主に、というのは」
「任務によって変わります」
秋月は少し考えた。「昨夜の岩魚は美味しかったですか」
レイモンドは、秋月を見た。少し、意外そうな顔をした。
「美味しかったです」と言った。「日本の川魚は、小さい頃に食べた記憶があります」
「日本に住んでいたんですか」
「子供の頃、少し」とレイモンドは言った。それ以上は言わなかった。
秋月も、それ以上聞かなかった。
「唯さんは」と秋月は言った。「あなたにとって、どんな部下ですか」
レイモンドは少し間を置いた。
「優秀です」と言った。「判断力がある。観察力もある。ただ??」
「ただ?」
「感情が、仕事に出ることがある」とレイモンドは言った。「それは、エージェントとしての弱点です」
「人間としての強みでもありますが」と秋月は言った。
レイモンドは秋月を見た。
「元刑事ですか」とレイモンドは言った。
「なぜわかりますか」
「座り方が、そうです」
秋月は少し笑った。「十八年です」
「長い現場だ」とレイモンドは言った。
「あなたも、長いでしょう」
「三十年です」
二人は、しばらく黙ってコーヒーを飲んだ。
山の朝の光が、大広間の障子を染めていた。
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昼前、レイモンドが唯を呼んだ。
今度は、全員が聞こえないところで話した。宿の外、駐車場の端だった。
全員は大広間にいたが、誰も近づかなかった。
フェルナンドがタロットを一枚引いた。カメラなしで。
「何が出た」と鏑木が聞いた。
「戦車」とフェルナンドは言った。「正位置」
「どういう意味や」
「意志の力。自分の道を、自分で切り開く」
大広間が、少し静かになった。
長曾我部が帳面に何かを書き始めた。
ムハンマドがお茶を淹れた。
千恵が豆助を膝に乗せて、静かに撫でた。
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唯が戻ってきた。
全員が見た。
唯の顔は、来た時より少し、静かだった。決まった、という顔だった。何が決まったかは、まだわからなかった。
「レイモンドさんは」と工藤が聞いた。
「帰りました」と唯は言った。「今夜、東京に戻ると」
「話し合いは」
「しました」と唯は言った。「答えは??まだ出していません。少し、時間をもらいました」
「時間は、どれくらい」
「来月までに」と唯は言った。「来月、また来ます。その時に、答えを出します」
全員が唯を見た。
唯はみんなの顔を、一人ひとり見た。
「ありがとうございます」と唯は言った。「みなさんが??ここにいてくれるから、来月が来ます」
鏑木が「なんや、当たり前やろ」と言った。ぶっきらぼうに、しかし温かく。
「来月も来るわ。全員で」と鏑木は続けた。
全員が頷いた。
豆助が鼻を鳴らした。
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夕方、レイモンドが宿を出る前に、大広間に顔を出した。
「お世話になりました」と全員に言った。
「またどうぞ」とフェルナンドが言った。「占い、しますよ。無料で」
「信じませんが」とレイモンドは言った。「……機会があれば」
鏑木が「ここは俺らの現場やからな」と言った。「また来る時は予約してこい」
「わかりました」とレイモンドは言った。少し、笑っていた。
唯が玄関まで送った。
全員は大広間から、二人が外へ出るのを見た。
駐車場で、レイモンドが唯に何か言った。唯が頷いた。レイモンドが車に乗った。
車が砂利道を走り、杉林の向こうに消えた。
唯が戻ってきた。
「何を言われましたか」と秋月が聞いた。
唯は少し考えた。
「ゆっくり考えろ、と言われました」と唯は言った。「それだけです」
秋月は頷いた。
工藤は唯を見た。
唯の顔に、今日初めて、少しだけ柔らかいものが浮かんでいた。
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その夜、温泉に予知は来なかった。
全員が湯に浸かり、虫の声を聞き、山の夏の夜を過ごした。
予知がない夜も、悪くなかった。
ただ湯が温かく、隣に誰かがいて、来月また来ると決まっている。
それだけで、十分な夜だった。
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*??シーズン2 第二話「唯の上司が来た」了??*




