「夏の御前湯に、蛍と不審者」
六月の御前湯は、別の宿だった。
雪が溶け、砂利道が乾き、杉林が深緑に変わっていた。冬の間は枯れていた渓流が増水して、宿の裏手から水音が絶えず聞こえてくる。玄関先の盆栽は、誰かが手を入れたのか、少し形が整っていた。女将に聞くと「春に庭師が来ました」と言った。「毎年来るんですか」と千恵が聞くと「来ません。今年初めて」と女将は答えた。それ以上の説明はなかった。
お友達の会が御前湯に揃うのは、二月以来だった。
四ヶ月。
それぞれの日常があった。鏑木は現場で働いた。長曾我部は帳簿を眺めた。加藤は車を直した。ムハンマドはカレーを作った。千恵は動物を診た。織田はラーメンを茹でた。松平は祈った。フェルナンドは占って配信した。ロドリゲスは買い付けに飛び回った。
工藤は探偵事務所を再開した。横浜の街が、少し明るく見えると書いたのは、五話の終わりだった。それは本当だった??四月の横浜は明るかった。五月も明るかった。ただ、六月になって、また少しだけ、何かが重くなった。理由はわからなかった。
だから御前湯に来た。
秋月は「俺も行く」と言った。今回は声に出して言った。
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北村唯は、全員より一日早く来ていた。
女将に頼んで、裏山の遊歩道を一人で歩いた。冬の間に倒れた木が二本あり、苔が広がり、道の輪郭が少し曖昧になっていた。唯はその道を、ゆっくりと、写真を撮るような目で歩いた。
写真は撮らなかった。
ただ、見た。
山の中腹まで上ったところで、足を止めた。
斜面の奥、木々の隙間に??何かあった。
人の気配ではなかった。しかし、人が作ったものの気配だった。
唯はそれを確認して、山を下りた。女将には何も言わなかった。
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全員が揃ったのは、夕方だった。
玄関先で、四ヶ月ぶりの顔が並んだ。
「でかくなったな」と鏑木が言った。
「誰がですか」と長曾我部が言った。
「誰でもない。なんとなく言うた」
「なんとなくで言わないでください」
加藤がフィアットから降りてきて「今年は坂でスタックしなかった」と言った。誰も聞いていなかった。ムハンマドが大きな荷物を抱えてきた。中身を聞くと「夏のスパイスは冬と違います」と言った。それ以上の説明はなかった。
千恵は今回も豆助を連れてきた。
「山は涼しいから大丈夫かと思って」と千恵は言った。
豆助は十六歳から十七歳になっていた。足取りが冬より遅かったが、鼻だけは元気だった。玄関先でムハンマドの荷物に顔を近づけ、しきりにひくひくさせていた。
「正しい反応です」とムハンマドは言った。満足そうに。
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夕食の後、全員が縁側に出た。
夜の御前湯は、冬とまるで違った。虫の声が重なり、水音が混じり、杉の葉が風に揺れた。空気が湿っていて、しかし不快ではなかった。山の夏の湿気は、街のそれとは種類が違う。
そして??蛍が飛んでいた。
渓流の方から、一匹、また一匹。
「おお」と鏑木が言った。
「綺麗ですね」と松平が静かに言った。
「撮ります」とロドリゲスがスマートフォンを出した。
「蛍は撮れませんよ、暗すぎて」と長曾我部が言った。
「撮ります」とロドリゲスは繰り返した。
結果として撮れなかったが、ロドリゲスは「幻想的な暗闇」というタイトルで十秒の動画を配信した。視聴者から「何も見えない」とコメントが来た。
フェルナンドが「蛍ってな、魂の象徴やねんで」と言い始めた。「古来から、死者の魂が蛍になって帰ってくると言われてて??」
「縁起でもない」と加藤が言った。
「縁起やないことはない。むしろ??」
「縁起でもない」
フェルナンドは諦めて黙った。
十一人が、縁側に並んでいた。
工藤は端の方に座っていた。蛍を見ていた??と思っていたが、ふと気づくと、山の方を見ていた。
その隣に、北村唯が座っていた。
唯も、山の方を見ていた。
二人の視線が、同じ方向に向いていた。
「工藤さん」と唯が小声で言った。
「はい」と工藤も小声で答えた。
「山の中腹、見えますか。あの木の、右側」
工藤は目を細めた。夜の山は暗く、木の輪郭しかわからない。しかし??何かが、かすかに光った。一瞬だけ。蛍ではなかった。蛍より小さく、点滅のリズムが機械的だった。
「……見えます」と工藤は言った。
「昨日も、同じ場所に光がありました」と唯は言った。「今朝、確認しに行きました」
「何がありましたか」
「機材です」と唯は静かに言った。「観測機材。ただし??私の組織のものではありません」
工藤は唯を見た。唯は山の方を向いたまま、表情を動かさなかった。
「知っていたんですか、来る前から」
「疑いはありました」
「全員に言わなかったのは」
「言えば、誰かが動きます」と唯は言った。「それが危ない」
工藤は少し考えた。
「秋月さんに言いますか」
「……お願いします」と唯は言った。「私より、秋月さんの方が??うまく、抑えてくれると思います。鏑木さんを」
「鏑木さんが一番心配ですか」
「真っ先に山へ行きそうなので」
工藤は縁側を見た。鏑木が蛍を指差しながら加藤に何か言っていた。その横顔は、穏やかだった。
「そうですね」と工藤は言った。「鏑木さんが一番心配です」
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男湯で、工藤は秋月に話した。
全員が湯に浸かっている中、二人だけ少し離れた岩陰で、小声で話した。
秋月は聞きながら、何も言わなかった。
聞き終わって、一息ついた。
「唯は、誰だと思っている」と秋月は聞いた。
「わかりません。シーズン1で来ていた情報ブローカーとは別の組織かもしれない、と言っていました」
「別の、な」
「はい」
秋月は湯の中で腕を組んだ。元刑事の習慣として、情報を整理する時間が必要だった。
「とりあえず」と秋月は言った。「みんなには言わない。ただし??」
「ただし?」
「鏑木には、少しだけ匂わせておく」
「なぜですか」
「黙っておくと、後で余計に動く」と秋月は言った。「少し匂わせて、自分が知っていると思わせておけば、様子を見る」
「……それは、経験からですか」
「十八年分の」
工藤は少し考えた。「秋月さんは、部下の扱いがうまかったんですね」
「俺は部下の扱いは下手だった」と秋月は言った。きっぱりと。「ただ、現場の勘はあった」
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その夜、温泉が予知を出した。
全員が湯に浸かっていた時ではなく??夜中に、松平秀麿が一人でもう一度湯に入った時だった。
松平は夜中の入浴を習慣にしていた。誰もいない大浴場で、静かに浸かる時間を好んでいた。
湯面が、揺れた。
*影、山を下る。*
松平は目を閉じた。
影が山を下る??それは脅威か、それとも単なる動きの記述か。松平には判断できなかった。ただ、その言葉には、冬の予知と少し違う質感があった。
冬の予知は、どこか遠くから来る感じがした。
この予知は??近かった。
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翌朝、松平が全員に予知を伝えた。
朝食の卓で、静かに告げた。
全員が箸を止めた。
「影て」と鏑木が言った。「何の影や」
「人かもしれません。あるいは??比喩かもしれません」
「比喩て」と加藤が言った。「温泉が比喩を使うんか」
「使うかもしれません」
「高度やな」
「神意は、時に詩的です」と松平は言った。
「詩的て言うたら全部説明できるな」と鏑木が言った。
「全部は説明できません。ただ??今回は、何かが山にある気がします。昨夜、そう感じました」
全員の視線が、山の方角へ向いた。窓の外、夏の緑が深く、しかし何かを隠していた。
工藤は長曾我部を見た。長曾我部は眼鏡のつるを押し上げた。
秋月は鏑木を見た。鏑木は腕を組んだ。
「ちょっと見てくる」と鏑木が立ち上がった。
「待ってください」と秋月が言った。
「なんで」
「熊が出ます」
「熊」
「六月の山には熊が出ます。大工一人で行くのは危ない」
鏑木は一秒考えた。「じゃあ一緒に行くか」
「行きません」と秋月は言った。「だから待つんです」
鏑木はまた一秒考えて、座った。
工藤は、秋月が「うまい」と思った。十八年分の現場の勘は、確かだった。
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昼過ぎ、全員が大広間に集まって「山の怪人」についての議論が始まった。
これはお友達の会の習性だった。予知が出ると、全員が何らかの解釈を持ち寄る。解釈の質は問わない。数が大事だ、とフェルナンドが言った。長曾我部は「数より精度です」と言ったが、誰も聞かなかった。
「天狗説」を唱えたのはフェルナンドだった。「この山には天狗の伝説がある。影が山を下る??天狗が人里に降りてくる予兆や」
「天狗の伝説は全国どこにでもあります」と長曾我部が言った。
「あるから本物なんや」
「逆です」
「熊説」を唱えたのは松平だった。「影というのは、生き物のことかもしれません。大型の」
「神主が熊説を唱えるんですか」と織田が言った。
「神主も熊は怖い」
「廃屋に住む人説」を唱えたのはロドリゲスだった。「山の廃屋に誰かが住んでいて、宿の様子を伺っている。それが影」
「それは怖い」と加藤が言った。「一番怖い説それ」
「現実的です」と長曾我部が言った。
「不法占拠か」と鏑木が言った。「それなら俺が??」
「熊が出ます」と秋月が言った。
鏑木は黙った。
北村唯は議論の端で、お茶を飲みながら全員を見ていた。何も言わなかった。
工藤も何も言わなかった。
二人だけが、答えを知っていた。
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夕方、唯が工藤の部屋に来た。
「動きがありました」と唯は言った。
「山の機材ですか」
「消えました。今朝から昼の間に、撤収されています」
「それは??」
「良いことか悪いことか、わかりません」と唯は言った。「撤収は二通りの意味があります。諦めたか、目的を達したか」
「目的、というのは」
「この温泉の情報を、十分に得たということ」
工藤は窓の外を見た。夏の夕暮れが、山の稜線を染めていた。
「唯さん」と工藤は言った。
「はい」
「あなたの組織は、今も動いていますか。この温泉について」
唯は少し間を置いた。
「……動いています」と唯は言った。「ただ??私の報告書は、今も『異常なし』です」
「それは、今後も続きますか」
「それが??」と唯は言った。「わかりません。今は」
工藤は唯を見た。二十六歳のエージェントの顔が、少しだけ、疲れていた。
「唯さん」
「はい」
「今夜、温泉に入りますか」
唯は少し驚いた顔をした。それからゆっくりと、頷いた。
「入ります」
「それでいいと思います」と工藤は言った。「今夜は」
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夜の大浴場。
全員が揃った。
蛍の声??いや、蛍は音を出さない。ただ、外で光っているのがわかった。窓の向こうで、点滅しながら飛んでいた。
湯は静かだった。
予知は来なかった。
それでいい夜もある、と松平は思った。
鏑木が「なあ」と口を開いた。「今年の夏も、何かありそうやな」
「ありそうですね」と長曾我部が言った。帳面は持っていなかったが、記憶している顔をしていた。
「ええやないか」と鏑木は言った。「来てよかった」
誰も異論を言わなかった。
異論を言う理由が、どこにもなかった。
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その夜遅く、工藤は一人で縁側に出た。
山は暗かった。機材は消えていた。蛍だけが、渓流の上を静かに漂っていた。
隣に秋月が来た。
「どう思う」と秋月は聞いた。
「唯さんは、挟まれています」と工藤は言った。「組織と??ここと」
「そうだな」
「秋月さんは、どちらだと思いますか。唯さんが選ぶのは」
秋月は腕を組んで、蛍を見た。
「俺は刑事だったから」と秋月は言った。「組織を離れることが何を意味するか、わかる」
「それは??大変なことですか」
「大変だ」と秋月は言った。「ただ??」
一呼吸、置いた。
「できないことでもない」
工藤は秋月を見た。秋月は蛍を見たまま、それ以上何も言わなかった。
しかし工藤には、その言葉の重さがわかった。
十八年間、警視庁にいた男が言う言葉の、重さが。
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翌朝、チェックアウトの前。
全員が玄関に集まった時、鏑木が「来月も来るか」と言った。
「来ます」と全員が、ほぼ同時に言った。
北村唯も、言った。
一瞬だけ、迷う顔をした。しかし言った。
「来ます」
女将が見送りに出てきた。「またお待ちしています」と言った。
御前湯の夏が、始まった。
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