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「占い師と刑事と、消えた長曾我部」

一月の御前湯は、十二月より静かだった。


 雪が深くなり、砂利道が白く埋まり、宿までの七分が十分になった。それでも全員が来た。鏑木は軽トラにチェーンを巻いて来た。加藤は旧型フィアットで来て、坂の手前で一度スタックして、ムハンマドに押してもらって来た。長曾我部は電車とタクシーを乗り継いで来た??と、チェックインの時に言っていた。


 今回は工藤と秋月も最初から来る予定だった。工藤が「また行きます」と言い、秋月は「俺も行く」と言った。工藤は「声に出して言いましたね、今回は」と言い、秋月は「当たり前だ」と言った。


 北村唯も来た。今回は「また来ます」と言った通りに。


---


 予知は、夕食の後に出た。


 湯に浸かっていた全員の、耳の奥で、音ではない何かが響いた。


 *裏切り者。*


 フェルナンドが最初に声を上げた。「聞こえた」


「聞こえた」と鏑木が続けた。


「……聞こえました」と松平が目を閉じたまま言った。


 長曾我部は何も言わなかった。ただ、眼鏡のつるを押し上げて、湯面を見ていた。


「裏切り者、て」と加藤が腕を組んだ。「誰が誰を裏切るんや」


「それが今回の問いですね」とムハンマドが言った。カレーの翌月にしては落ち着いた声だった。「前回、予知は場所を特定しませんでした。今回は??人を特定しないかもしれません」


「つまり」と織田が言った。「誰でもありえる」


 静寂が湯の上を漂った。


 誰かが誰かを、横目で見た。


---


 翌朝、長曾我部圭吾がいなかった。


 朝食の時間に現れず、部屋をノックしても返事がなく、女将が合鍵で開けると荷物はあった。財布も、帳面も、眼鏡ケースも。


 ただ、本人だけがいなかった。


「夜中に出ていったんだろう」と秋月が言った。廊下に出て、足跡を確認した。雪が降り続いていたが、玄関の外に、靴の跡がうっすら残っていた。「一人で」


「どこへ」と工藤が聞いた。


「それがわからん」


 お友達の会は騒然とした。


「裏切り者が長曾我部さんやったんか」とフェルナンドが言った。


「まだわかりません」と千恵が静かに言った。「消えたことと、裏切りは別のことかもしれない」


「でも??」と織田が言いかけて、止まった。


 全員がわかっていた。「でも」の先に何があるか。


 会計士が一人で消えた夜、温泉は「裏切り者」と告げていた。


---


 秋月が動いた。


 長年の刑事経験が言っていた。足跡を追え。現場を見ろ。仮説は後でいい。


 靴跡は玄関から左、宿の裏手へ向かっていた。渓流の方向だ。秋月は雪の中を歩いた。工藤がその後ろについてきた。何も言わずに。


「一人でいい」と秋月は言った。


「わかりました」と工藤は言った。ついてきながら。


 秋月は振り返らなかった。


 足跡は渓流の手前で止まっていた。そこから先は??岩場を回り込んで、上流の方へ続いていた。秋月はしゃがんで足跡の間隔を見た。急いでいない。走っていない。ただ、ゆっくりと、目的を持って歩いていた。


「目的地がある」と秋月は言った。


「宿の敷地の外ですか」と工藤が言った。


「おそらく」


 二人は顔を見合わせた。


---


 その頃、宿の中では。


 フェルナンド・村田がタロットを広げていた。


 今回は食堂のテーブルに広げて、真剣な顔で向き合っていた。普段のフェルナンドのタロットは、どこかパフォーマンスの匂いがする??YouTube用、とでも言うべき、見栄えの良い解釈をしがちだった。しかし今は、カメラがなかった。ロドリゲスも外へ出ていた。


 カードを引いた。


 「隠者」。正位置。


 フェルナンドは長い時間、そのカードを見た。


 隠者は孤独の象徴だ。一人で洞窟に籠もる老人。しかしそれは逃避ではなく??内省、あるいは守護のための孤立を意味することがある。


 *孤独な正義。*


 フェルナンドは独り言を言う癖があるが、この時は声に出さなかった。


 テーブルの向かいに、北村唯が座っていた。


「何が出ましたか」と唯が聞いた。


「隠者の正位置」とフェルナンドは言った。「裏切り者やない。孤独な正義や」


 唯は少しの間、カードを見た。


「そうかもしれませんね」と唯は言った。


 その声に、フェルナンドは何かを感じた。この子は??知っている。少なくとも、知っていることがある。


「あんた、何者や」とフェルナンドは聞いた。


 唯は静かに微笑んだ。「旅行者です」


「嘘やな」


「……」


「占い師はな」とフェルナンドは言った。「嘘をつく時の顔を、ずっと見てきてるんや。関西で三十年」


 唯はしばらく黙っていた。


「今は、言えません」と唯は言った。「でも??長曾我部さんは、悪いことをしていません」


「知ってるんか、どこに行ったか」


「……おそらく」


 フェルナンドは立ち上がった。「秋月さんを呼んでくる」


「待ってください」と唯が言った。「まだ??少し、時間が必要です。長曾我部さんが戻るまで」


「戻るんか」


「戻ります」と唯は言った。「今日中に」


---


 昼を過ぎた頃、秋月と工藤が宿へ戻った。


 足跡は山道を上り、峠の手前で消えていた。雪が深く、それ以上は追えなかった。


「見失った」と秋月は珍しく悔しそうな顔をした。


「でも」と工藤は言った。「目的地がある人間の足跡でした。迷っていない」


「ああ」


「迷っていない人間は、戻ってきます」


 秋月は工藤を見た。若い探偵の横顔は、いつも通り静かだった。静かだったが??今は、少し違う静かさがあった。確信のある静けさ、とでも言うべきか。


「……そうだな」と秋月は言った。


---


 フェルナンドが食堂から出てきて、秋月に唯のことを伝えた。


 秋月の顔が、少し変わった。


「あの子が知ってると」


「はい。全部は言わんかったけど??長曾我部さんが戻る、て言いました。今日中に」


 秋月は工藤を見た。工藤は何も言わなかった。ただ、頷いた。


「……わかった」と秋月は言った。「待つ」


 それだけ言って、縁側へ出た。雪の庭を見ながら、腕を組んだ。待つという行為が、元刑事には似合わない??しかし今は、それしかなかった。


 工藤が隣に来た。


「秋月さん」


「何だ」


「信じますか、占いを」


 秋月はしばらく黙った。


「信じない」と言った。「ただ??」


「ただ?」


「あのフェルナンドという男が、今日はカメラなしで、一人でカードを引いていた」と秋月は言った。「それは信じる」


 工藤は少し考えて、「それは、信じていることになりませんか」と言った。


 秋月は答えなかった。


---


 夕方、四時を少し回った頃。


 玄関の戸が、静かに開いた。


 長曾我部圭吾だった。


 コートに雪をつけ、頬が赤く、呼吸が少し乱れていた。眼鏡は宿に置いてきたので、目を細めながら全員の顔を見回した。


「……ただいま」と長曾我部は言った。


「どこ行ってたんや」と鏑木が立ち上がった。怒っているというより、心配の方が先に出た声だった。


「少し、確かめることがあって」と長曾我部は言った。


「確かめる?」と加藤が聞いた。


 長曾我部は靴を脱ぎながら、少しためらった後で言った。


「先月から、この宿に見慣れない車が止まっているのを、私は気にしていました。一度だけではなく、毎回。ナンバーが違う。レンタカーです。深夜に来て、夜明け前に去る」


 全員が静かになった。


「それが何かは、わかりません。ただ??今月は早めに来て、確認しようと思っていた。昨夜の予知で、迷っていた気持ちが決まりました。一人で確認する方が、全員を巻き込むよりいいと思って」


「それで」と秋月が前に出た。元刑事の顔になっていた。「何があった」


「宿の裏手の山道に、今朝も車が止まっていました」と長曾我部は言った。「人はいませんでしたが、車の中に??」


 長曾我部は工藤を見た。次に、北村唯を見た。


「観測機器のようなものが、積んでありました。カメラではなく??私には何かわかりませんでしたが、精密な機械でした」


 沈黙が、ロビーに満ちた。


 全員が、北村唯を見た。


 唯は、静かに立ち上がった。


---


「長曾我部さん」と唯は言った。「ありがとうございます。無事で、よかった」


「……あなたは」と長曾我部は言った。「知っていたんですか」


「はい」


「あの車のことを」


「はい。私の??関係者ではありません。別の組織です」


 秋月が一歩踏み出した。「別の組織、というのは」


「今は、言えることと言えないことがあります」と唯は言った。「ただ、この宿の皆さんに害を与えようとしている人間がいることは、確かです。長曾我部さんが気づいてくれたことで、今夜??その人間が動く前に、対処できます」


「対処、て」とフェルナンドが言った。「あんた、何者や」


 唯はフェルナンドを見た。


「旅行者ではありません」と唯は言った。「それだけ、今は言えます」


---


 その夜は、全員が眠れなかった。


 しかし前回とは違う意味で。前回は予知を待って眠れなかった。今回は??現実が、予知より先に動いていた。


 秋月は深夜、一人で宿の外を歩いた。雪の中、山道を少しだけ上った。


 車はなかった。


 唯が言っていた通り、「対処された」のかどうかは、秋月にはわからなかった。


 ただ、長曾我部が無事に戻った。それは確かだった。


 温泉は「裏切り者」と告げた。しかし長曾我部は裏切り者ではなかった。フェルナンドのカードが言った通り??孤独な正義だった。


 では、温泉の予知は外れたのか。


 秋月は山道に立って、宿の明かりを見た。


 外れていない、と思った。ただ??誰が読むかによって、意味が変わる。


 *裏切り者。*


 それは警告だったのかもしれない。裏切り者が「いる」という告知ではなく、裏切り者に「気をつけろ」という。


 秋月は刑事時代、証拠の解釈に何年も費やしてきた。証拠は語る。しかし何を語るかは、読む人間次第だ。


 温泉も、同じかもしれない。


 雪が、また降り始めた。


---


 翌朝、長曾我部が帳面を開いた。


 今月の記録を書き始めた。日記ではなく、今回は報告書の体裁で??誰に提出するわけでもないが、会計士は記録することで考えを整理する。


 書きながら、ふと止まった。


 こんなことを書いた。


*私は昨夜、一人で動いた。全員に相談すべきだったかもしれない。しかし??相談していたら、誰かを危険に巻き込んでいたかもしれない。どちらが正しかったかは、今もわからない。ただ、温泉が「裏切り者」と言った夜に、私は一人で宿を出た。それが誰かに「裏切り」と見えたなら、申し訳なかった。でも、それ以外の選択が、私にはできなかった。*


 ペンを置いた。


 窓の外、雪が降り続いていた。


---


 チェックアウトの前、フェルナンドが長曾我部の隣に立った。


「長曾我部さん」


「何ですか」


「隠者の正位置、て言いましたよね、俺」とフェルナンドは言った。「カメラなしで、一人で引いたカードや。あれは??正しかったと思う」


「占いが正しかった、ということですか」


「あんたが正しかった、ということや」とフェルナンドは言った。「それを占いが見えた、ということ」


 長曾我部は眼鏡のつるを押し上げた。


「……フェルナンドさん」


「何ですか」


「あなたは、なかなか良いことを言いますね」


「三十年やってるんやから当たり前や」


 二人は並んで、雪の庭を見た。


---


 秋月が工藤の車の助手席に乗りながら言った。


「北村唯という子は」


「はい」


「何者だと思う」


 工藤はエンジンをかけながら答えた。「わかりません。ただ??この温泉を、調べに来ている。それは確かだと思います」


「調べる組織がある、ということか」


「ええ。そして、別の組織も」


 秋月は窓の外、チェックアウトする面々を見た。鏑木が軽トラに荷物を積み、加藤がフィアットのエンジンをかけ、ムハンマドが宿の女将に深々と頭を下げ、フェルナンドとロドリゲスが何か言い合っていた。


「来月も来るか」と秋月は聞いた。


「来ます」と工藤は言った。


「第五話がある」


「第五話?」


「お前が言い出したんだろう、続きがあるって」


「……そんなことは言っていませんよ」


「顔に書いてあった」


 工藤は何も言わなかった。


 御前湯が、雪の向こうに小さくなっていった。


---

*??第四話「占い師と刑事と、消えた長曾我部」了??*


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