「動物病院と神様と、カレーの香り」
お友達の会が正式に発足してから、一ヶ月が経った。
会則はない。会費もない。会長もない。あるのは、御前湯の常連という共通点と、「あの温泉はたまに文字を浮かべる」という、誰にも証明できない記憶だけだった。
長曾我部圭吾は、会計士らしく一度だけ「組織としての体裁を整えるべきでは」と提案したが、フェルナンド・村田に「体裁て何や、スピリチュアルに体裁いらんねん」と一蹴され、それ以来黙っている。
十一月の第二土曜日。
御前湯に全員が戻ってきた。
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今回の予知は、前回より少し手が込んでいた。
お湯が赤くなることはなかった。湯気が文字を描くこともなかった。ただ、松平秀麿が湯船に浸かった瞬間、湯面がかすかに揺れ、波紋が一点に集まって、にわかに模様を描いた。
「……老犬」と松平は言った。「川へ」
全員が湯船の中で固まった。
「老犬?」と鏑木が繰り返した。
「川、て……宿の裏の川か」と加藤が顔色を変えた。宿の裏手には、幅三メートルほどの渓流が流れている。十月は水量が多い。
その時、女湯の方から引き戸を叩く音がした。
「ちょっと??豆助がいない!」
木下千恵の声だった。
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豆助は柴犬、十六歳だった。
正確には「木下動物病院」の入院患者で、慢性関節炎と軽度の心疾患を抱えたシニア犬だった。千恵は出張診察のついでに御前湯へ来るとき、容態の安定した患者だけを連れてくることがあった??宿の女将が動物好きで、「お連れしてもいいですよ」と言ってくれていたからだ。
豆助は今朝まで、千恵の部屋の隅で丸くなって眠っていた。
それが、消えた。
「廊下に出たのかもしれません」と千恵は脱衣所の前で言った。すでに服を着込んでいて、目が本気だった。「老犬が川に近づいたら??」
「わかった、探しましょう」と長曾我部が言った。普段は冷静な会計士だが、動物のこととなると、どこか放っておけない顔をする。
全員が動いた。
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宿は意外に広かった。
廊下、食堂、厨房、物置、庭、裏庭??手分けして探すことになったが、問題はすぐに起きた。
「見つけ方がわからん」と鏑木が廊下の突き当たりで腕を組んだ。「豆助って、どんな犬や」
「柴犬。小さいです。茶色と白」と千恵が答えた。
「それ、全部の柴犬やないか」
「固有名詞で特定できる特徴がないんです。十六歳なので動きが遅い。それだけ」
「……なるほど、遅いのか」と織田が言った。「ラーメン屋で言うたら、麺が延び始めた状態やな」
「そういう例えはやめて」と千恵は静かに言った。
廊下の奥から、イエンガー・ムハンマドが大鍋を抱えて現れた。
「見つけました」
「え、どこ!」と千恵が駆け寄った。
「見つけていません。ただ、見つける方法を考えました」ムハンマドは鍋を掲げた。「カレーです」
全員が黙った。
「犬はカレーに敏感です。スパイスの香りが鼻腔を刺激する。インドでは野良犬の誘導に使います」
「インドの野良犬と、日本の老いた柴犬は違うと思いますが」と長曾我部が言った。
「本質は同じです。動物はスパイスに正直です」
「……ムハンマドさん」と千恵が低い声で言った。「そのカレー、どこに撒くつもりですか」
「廊下です。導線を作ります」
「廊下に撒いたら宿の人に怒られます」
「そうですか」
「そうです」
しかしムハンマドの目に、止まる気配はなかった。
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ロドリゲス斎藤は庭で配信していた。
「今、老犬の行方不明事件が起きています。お友達の会の緊急ミッション??豆助捜索作戦、始まりました」
スマートフォンのカメラが宿の裏庭を映していた。枯れかけた紫陽花、石畳、そして??
「あ」
カメラが止まった。
石畳の先、白木の縁側に、小さな茶色い塊がのんびりと座っていた。
豆助だった。
川からは十メートル以上離れている。縁側の日だまりで、目を細めて、秋の薄い陽光を浴びていた。
「……いた」とロドリゲスは配信画面に向かって呟いた。「めちゃくちゃ普通にいた」
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千恵が縁側へ走った。
豆助は逃げなかった。逃げる体力がないというより、逃げる気がないという顔をしていた。千恵が膝をついて抱き上げると、老犬は一度だけ鼻をひくつかせて、また目を閉じた。
「よかった」と千恵は言った。声が少し震えていた。「バカ、どこ行ってたの」
豆助は答えなかった。
全員が縁側に集まってきた。松平が手を合わせ、鏑木が「よかったなあ」と照れた顔で言い、加藤が「川に落ちてなくてよかった」と胸を撫で下ろした。長曾我部は眼鏡を外して拭いていたが、それは湯気のせいではなかったかもしれない。
「予知が役に立った初めての例です」と千恵は言った。「川へ近づく前に、みんなで探してくれたから」
織田が「ラーメンで言うたら??」と言いかけて、千恵の視線を受けて黙った。
フェルナンドが「これがお友達の会の力や」と両手を広げた。
「チャンネル登録お願いします!」とロドリゲスが続けた。
その瞬間だった。
廊下の引き戸が開いて、ムハンマドが出てきた。大鍋を抱えたまま、満足げな顔で。
「案内する必要がなくなりましたね」
「ありがとう、ムハンマドさん」と千恵が言った。「その鍋、厨房に戻してください」
「もちろんです」とムハンマドは頷いた。「ただ??」
一拍、間があった。
「少し、撒いてしまいました」
全員が廊下の方を見た。
宿の板廊下に、黄金色のスパイスオイルが、美しい曲線を描いて伸びていた。クミンの香りが秋の山の空気に混じって漂い、それはそれで悪くない香りだったが??
誰かが足を踏み入れた。
見事に滑った。
鏑木だった。
次に長曾我部が滑った。
フェルナンドが「あかん、あかん??」と言いながら滑った。
縁側でそれを見ていた豆助が、微かに鼻を鳴らした。笑ったのかどうかは、わからない。
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夕方、松平秀麿が全員を正座させた。
宿の和室、八畳。廊下の清掃が終わり、ムハンマドが女将に深々と頭を下げ、長曾我部が「清掃費の負担は全員で割ります」と宣言した後のことだった。
「お清めをします」と松平は言った。
全員が黙って正座した。ムハンマドも正座した。ムハンマドはヒンドゥー教徒に近い信仰を持っているが、「清める」という概念には異論がなかった。
松平が柏手を打った。
静寂が、部屋に降りてきた。
豆助が千恵の膝の上で、静かに寝息を立てていた。
「予知というものは」と松平が目を閉じたまま言った。「起きたことを止めるためにあるのではないかもしれません。起きる前に、備えるためにある」
「今日は備えて、見つけられた」と千恵が静かに言った。
「そうです」
鏑木が「……ええ話やな」と呟いた。
廊下の向こうから、まだかすかにクミンの香りがした。
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夜、長曾我部が部屋で帳面を開いた。
今月の収支ではなく、日記だった。会計士が日記をつけていることは誰も知らない。
彼はしばらく考えてから、こう書いた。
*温泉が正しかった。老犬は川へは行かなかったが、行きかけていたかもしれない。あるいは行かなかったかもしれない。どちらかは、もうわからない。ただ、全員で探した。それだけは確かだ。*
ペンを置いて、眼鏡を外した。
窓の外、山の稜線が月光に白く光っていた。
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*??第二話「動物病院と神様と、カレーの香り」了??*




