「予知が外れた夜」
十二月の第二土曜日、御前湯に雪が降った。
山の雪は早い。十一月の終わりにはもう初雪があったと女将が言っていたが、今年は特に早く、宿の屋根にも杉の枝にも、うっすらと白が積もっていた。
お友達の会の面々が順番にチェックインしていく中、今回は見慣れない名前が宿帳に加わっていた。
一つは「工藤俊一」。
もう一つは「北村唯」。
そして、誰も呼んでいないのに「秋月小五郎」。
---
工藤俊一は、静かな男だった。
三十二歳。横浜で私立探偵事務所を構えているが、今は休業中だ。理由は本人も言葉にしにくい??疲れた、というより、何かが少しずれた感覚が続いていた。眠れないわけでも、食べられないわけでもない。ただ、横浜の街を歩いていると、自分が透明になっていくような気がした。
だから山へ来た。温泉宿の名前は、かつて世話になった人間から聞いていた。「いい湯だ」と、それだけ言っていた。
チェックインを済ませ、部屋に荷物を置き、工藤は廊下へ出た。
そこで、ほぼ正面から、秋月小五郎とぶつかった。
「……」
「……」
二人は一秒、見つめ合った。
「なんで」と工藤は言った。
「たまたまだ」と秋月は言った。
「たまたま、同じ宿に」
「日本は広いようで狭い」
工藤は秋月の後ろ、廊下の突き当たりを見た。宿の入口に、秋月の旅行鞄が置いてあった。鞄の外側に付いた荷物タグには、工藤が予約した宿の名前が書いてあった。
「……秋月さん」
「刑事は足で稼ぐんだ」と秋月は言った。目を逸らしながら。
---
秋月小五郎は、四十八歳だった。
元・警視庁刑事。十八年間、捜査一課に在籍した。退職後は「嘱託」という曖昧な立場で警察と関わり続けているが、今は特に仕事はない。ただ、工藤が休養を取ると聞いた時??電話で「長野の温泉宿へ行く」と言うのを聞いた時??何かが気になって仕方がなかった。
気になった理由は、秋月自身もうまく言えない。
心配、というより??放っておけない、という感覚だった。
工藤は優秀な探偵だ。観察眼があり、論理的で、感情に流されない。だが時々、その静けさの奥に、秋月には見えないものが沈んでいるような気がした。十八年の刑事経験が言っていた。あの静けさは、本物の休息ではない、と。
だから来た。
それだけだった、と秋月は思っている。
---
北村唯は夕方に現れた。
二十六歳。チェックインの際に差し出したクレジットカードの名義は「KITA YUI」、住所は東京都内のマンション。職業欄には「会社員」と書いた。女将は特に気にしなかった。
ただ、唯が部屋に入る直前、廊下で工藤とすれ違った。
二人は互いに会釈した。
それだけだった。
しかし工藤は、部屋のドアを閉めてから、一度だけ廊下の方を振り返った。
??あの人は、何かを探している。
根拠はない。ただ、探偵の勘がそう言っていた。
---
夜、男湯に全員が集まった。
今回の予知は明快だった。あるいは、明快すぎた。
湯面が揺れ、今度は声のように、空気が震えた。声ではなかった??音でもなかった。ただ、湯に浸かっていた全員の頭の中に、同じ言葉が浮かんだ。
*火災、今夜。*
フェルナンドが「来た来た来た」と叫び、ロドリゲスがスマートフォンを持ち上げ、加藤が「え、宿が燃えるんか」と立ち上がった。
鏑木は黙って湯から上がり、服を着込んで廊下へ出た。大工の本能として、火事という言葉には反射があった。
松平が目を閉じた。「今夜、です。時刻は??わかりません」
「場所は?」と長曾我部が冷静に聞いた。
「それも??」松平は首を振った。「わかりません」
長曾我部はしばらく考えた。会計士として、情報の精度を評価する習慣がある。場所不明、時刻不明、発生源不明。これは使える予知ではない??しかし、無視できる予知でもなかった。
「全員、宿に残りましょう」と長曾我部は言った。「今夜は外出しない」
誰も反対しなかった。
---
その夜の男湯に、工藤と秋月もいた。
お友達の会の騒ぎを、二人は少し離れた場所から聞いていた。
「火災の予知、か」と秋月が湯の縁に腕を置いた。「信じるか」
「わかりません」と工藤は言った。「ただ??」
工藤は湯面を見た。揺れている。波紋が広がって、消えて、また広がる。
「この温泉は、何かを持っている気がします」
「何かって」
「それが何かは、まだわからない」
秋月は黙った。元刑事として、超常現象を信じる習慣はない。しかし??この湯の、妙な静けさは感じた。山の温泉にはそれぞれ個性がある。熱い湯、ぬるい湯、鉄の匂いがする湯。この御前湯は、静かだった。静かすぎるほど、静かだった。
「……いい湯だな」と秋月は言った。
「そうですね」
お友達の会の方では、フェルナンドが「お友達の会、緊急会議!」と叫んでいた。
---
北村唯は、女湯の端で、ほとんど動かずに浸かっていた。
千恵と木下が隣にいたが、唯はほとんど話さなかった。礼儀正しく、穏やかで、ただ??湯の中で、何かを考えていた。
*この温泉の予知能力は、三ヶ月前から観測されている。*
それは唯の上司が言った言葉だった。
*予知の頻度と精度が上昇している。メカニズムが不明なまま放置することは、国家安全保障上のリスクになりえる。*
唯はその言葉を、今も疑っていた。温泉が予知する??それが本当なら、メカニズムは何か。湯の成分か、地下の地質か、あるいは全く別の何かか。
湯の縁に手を触れた。
温かかった。ただ、温かかった。
*(……データと、一致する)*
それだけ確認して、唯は目を閉じた。
---
和室に全員が集まったのは、夜の十一時だった。
布団を並べ、消灯はせず、各自が思い思いの姿勢で「今夜」を待った。
鏑木は壁にもたれ、腕を組んで目を閉じた??眠っているのか起きているのか、区別がつかない。加藤は窓の外をときどき確認した。織田は腹が減ったと言い続け、ムハンマドが「スパイスティーがあります」と言って、全員の分を淹れた。
長曾我部は帳面を出して、何かを書いていた。
フェルナンドは「占ってみる」と言ってタロットカードを広げ、「塔の正位置??変化と崩壊や」と言った後で「ただ、火やないかもしれん」と付け加えた。
「それはどういう意味ですか」と長曾我部が聞いた。
「占いは精度より方向性を見るもんや。火災の方向性として、崩壊と変化??何かが終わって何かが始まる、て感じ」
「……経営者みたいなことを言いますね」と長曾我部は呟いた。
深夜一時を過ぎたころ、ロドリゲスが配信を始めた。
「徹夜で待機中です。チャンネルの皆さん、眠れますか。僕は眠れません」
カメラが和室を映した。布団に転がる大工と、壁際の神主と、うとうとしはじめた自動車屋と、スパイスティーを淹れ続けるカレー店長と、タロットを並べ直す占い師と、帳面を書く会計士と、縁側で外を見つめる探偵と、その隣で腕を組んで寝ているような起きているような元刑事の姿を。
それを部屋の角から、北村唯が静かに見ていた。
---
深夜三時。
誰も眠れていなかった。
ムハンマドのスパイスティーは四回転目に入り、鏑木が「これ、ちょっとクセになってきた」と言い、加藤が「俺も」と言った。フェルナンドのタロットは一周して最初のカードに戻っていた。
ロドリゲスがカメラを工藤に向けた。
「探偵さん、何か見えますか」
「何も」と工藤は答えた。「今のところ」
「秋月さんは」
秋月は目を開けた??どうやら本当に寝ていたらしい??「火の匂いはしない」と言った。「元刑事として、それだけは言える」
北村唯がカメラに手をかざした。静かに、しかし確実に。
「映さないでいただけますか」
「……あ、すみません」とロドリゲスは素直に引いた。
唯はカメラから目を離し、また窓の外を見た。
山の夜は深かった。
---
夜が明けた。
何も起きなかった。
全員が顔を見合わせた。
「外れた」と加藤が言った。
「……そうですね」と松平が静かに答えた。
朝食を食べ、各自が部屋に戻り、昼前に全員が宿のロビーに集まったとき、女将がテレビのリモコンを持って現れた。
「皆さん、昨夜のニュース、ご覧になりましたか」
画面に映ったのは、山間の廃工場だった。
昨夜、午前二時ごろ出火。原因は漏電の疑い。けが人なし。宿から十キロ離れた場所にある、十年以上前から使われていない工場だった。
全員が黙った。
「外れてなかった」とロドリゲスが呟いた。
「場所が違った」と長曾我部が言った。眼鏡のつるを押し上げながら。「宿ではなかった。でも、火災は起きた」
「予知は、場所を特定しないんです」と松平が言った。静かに、しかしどこか確信を持った声で。「何かを知らせる。ただ、どこで何時かは??私たちが読み取らなければならない」
沈黙が続いた。
フェルナンドが「つまり」と口を開いた。「予知は本物やけど、解読が難しい。ということは??」
「本格的に研究が必要ですね」と長曾我部が言った。今度は迷いのない声で。
---
昼過ぎ、工藤は縁側に出た。
雪は止んでいた。庭の松の枝に積もった雪が、陽光を受けてゆっくり落ちていた。
隣に秋月が来た。
「どう思う」と秋月は聞いた。
「温泉の予知ですか」
「ああ」
工藤はしばらく考えた。探偵として、証拠のない話を信じる習慣はない。しかし??
「昨夜の皆さんの行動は、正しかったと思います。外れることを前提に備えた。そして外れた場所で、何かが起きた」
「予知が正しかったとは言わないのか」
「まだわかりません」と工藤は言った。「ただ??この温泉は、嘘をつく場所じゃない気がします」
秋月は黙って庭を見た。雪がまた一塊、松の枝から落ちた。
「そうだな」と秋月は言った。それだけ言った。
---
夕方、チェックアウトの少し前。
工藤が廊下を歩いていると、北村唯が向こうから来た。
二人は立ち止まった。
「昨夜は」と唯が先に口を開いた。「楽しかったです。こういう場所、好きです」
「そうですか」と工藤は言った。
「ええ」
唯は工藤の横を通り過ぎようとして??一瞬、足を止めた。
「工藤さん」
「はい」
「また来ますか、ここに」
工藤は少し考えた。
「来ると思います」
「そうですか」と唯は言った。「じゃあ、また」
それだけ言って、歩いていった。
工藤は唯の背中を見た。廊下の突き当たりで曲がり、消えた。
??あの人は、また来る。用事があって来る。
探偵の勘が、静かにそう言っていた。
---
帰り際、お友達の会は宿の玄関に集まった。
女将に挨拶をして、来月また来ますと言って、各自が車に向かった。
鏑木が軽トラのエンジンをかけながら「来月も予知あるかな」と呟いた。
「あるでしょう」とフェルナンドが言った。「絶対あるわ。俺の占いがそう言うてる」
「占いで占いを補強するんですか」と長曾我部が言った。
「ええやろ、二重に安心できる」
工藤は駐車場から宿を振り返った。
平屋の古い建物。色褪せた看板。杉の木。雪。
??また来よう、と思った。
それは休養のためではなかった??いや、休養でもあったかもしれないが、それだけではなかった。
何か、ここには続きがある。
そういう予感があった。
秋月がすでに助手席に座っていた。誰に断ることもなく、当然のように。
「秋月さん」と工藤は言った。「一人で来たんじゃないんですか」
「帰りも一緒でいいだろう」と秋月は言った。「横浜まで送れ」
「……横浜、逆方向ですよ」
「刑事は??」
「足で稼ぐ、でしょう」
工藤はエンジンをかけた。
御前湯が、雪の向こうに小さくなった。
---
*??第三話「予知が外れた夜」了??*




