「温泉は、最後に笑う」
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二月の御前湯は、一年で一番雪が深い。
砂利道が完全に埋まり、宿までの道は轍の跡だけが頼りになる。それでも全員が来た。鏑木は軽トラのチェーンを二重にして来た。加藤はフィアットをあきらめて、鏑木に乗せてもらって来た。長曾我部は今月も電車とタクシーで来た。ムハンマドは大きなスパイスの袋を三つ抱えて来た。千恵は今月は豆助を連れてこなかった??冬の山は、十六歳の老犬には厳しすぎる。
工藤と秋月は、今回は同じ車で来た。出発前に、どちらからともなく、そういうことになった。
北村唯は、少し早めに来ていた。
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チェックインを済ませた全員が、夕食前に男湯へ集まった。
今月は珍しく、混浴の時間帯に全員が揃った。女将が「特別に」と言って、今夜だけ大浴場を貸し切りにしてくれた。千恵も、唯も、湯に入った。
全員が揃うのは、これが初めてだった。
十一人。
お友達の会の八人と、フェルナンド・村田と、工藤俊一と、秋月小五郎。そして北村唯。
十二人、か??と長曾我部は頭の中で数えた。会計士の癖だ。
湯は静かだった。
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誰も、予知を待っていなかった。
最初の月は、予知に驚いた。二月目は、予知を読み解こうとした。三月目は、予知が外れることを知った。四月目は、予知の意味を問い直した。
今月は??ただ、湯に浸かっていた。
それだけだった。
しばらくして、松平秀麿が静かに言った。「今月は、何も聞こえませんね」
「そうですね」とムハンマドが言った。
「たまには休むんやろ」とフェルナンドが言った。「温泉も、人間も」
誰も笑わなかったが、誰かがふっと息を吐いた。それが笑いに似た音だった。
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夕食の後、全員が大広間に集まった。
女将が大きな鍋を運んできた。信州の山の野菜と、鶏と、きのこを煮込んだ鍋だった。ムハンマドが「スパイスを少し」と言い、千恵が「少しだけですよ」と言い、結果として絶妙な風味の鍋が完成した。
鏑木が徳利を持ち上げ、「まあ飲め」と隣の長曾我部に渡した。長曾我部は一瞬だけ躊躇して、受け取った。
工藤は酒が飲めないので、ムハンマドのスパイスティーを手に持っていた。秋月は日本酒を一合だけ飲んで、あとはお茶にした。
フェルナンドが「今夜は配信せんのか」とロドリゲスに聞いた。
「しない」とロドリゲスは言った。「今夜は」
そのひと言が、不思議と場を和ませた。
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鍋が半分ほどになった頃、北村唯が立ち上がった。
全員が見た。
「話があります」と唯は言った。
誰も何も言わなかった。来るべきものが来た、という空気が、大広間に満ちた。
「私は旅行者ではありません」と唯は言った。「NSA??アメリカ国家安全保障局の、日本担当エージェントです」
沈黙。
加藤が「……えぬえすえー」と繰り返した。
「アメリカの、情報機関です」と工藤が補足した。
「大工と関係あるか」と鏑木が言った。
「ないと思います」と唯は言った。まっすぐに。
松平が目を閉じた。千恵が鍋の蓋をそっと置いた。長曾我部は眼鏡のつるを押し上げ、帳面を出しかけて、やめた。
「この温泉の予知能力は、三ヶ月前から私の組織の観測対象になっていました」と唯は続けた。「理由は??予知の頻度と精度が上昇していたから。メカニズムが不明なまま、他の組織がアクセスする前に実態を把握するよう、指示を受けていました」
「他の組織、というのが」と秋月が言った。「先月の車か」
「はい。別の??民間の、情報ブローカーです。温泉の予知能力を商品として売ろうとしていた。長曾我部さんが気づいてくれたことで、先手を打てました」
長曾我部は黙っていた。眼鏡の奥の目が、少し動いた。
「私は、皆さんを監視していたわけではありません」と唯は言った。「ただ??この温泉を、調べていた。そのうちに、皆さんのことが、好きになってしまいました」
また沈黙が来た。
今度は、少し種類が違う沈黙だった。
「それは」とフェルナンドが言った。「どういう意味で好きになったんや」
「……友達、と言ってもいいのかどうか、わかりませんが」と唯は言った。少し、声が変わった。「こんなに、変な人たちは、初めて会いました」
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鏑木が最初に笑った。
堪えていたが、堪えきれなかった。大工の笑い声は大きかった。
「変な人て!」
「変な人て言うたで今!」と加藤が続いた。
「褒め言葉として受け取ります」とムハンマドが言った。微笑みながら。
「褒め言葉やろそれは」とフェルナンドが言った。「俺なんか三十年変な人やってきてるんやから」
千恵が口元を手で押さえて笑っていた。織田が「ラーメン屋も変な職業やと思われてるかもな」と言った。ロドリゲスが「今日は配信しないって言ったけど撮ってもいいか」と言い、長曾我部が「やめなさい」と言った。
笑い声が、大広間に広がった。
工藤は笑っていなかったが、口の端が少し上がっていた。秋月がそれを横目で見た。
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笑いが収まった後、工藤が口を開いた。
「一つ、仮説を言ってもいいですか」
「どうぞ」と松平が言った。
工藤は少し間を置いてから言った。
「この温泉の予知は??温泉そのものの能力ではないかもしれません」
全員が聞いていた。
「御前湯の泉質を調べると、微量の希土類元素が含まれています。ランタンやセリウムの化合物。これらは、人間の神経系に作用することが、一部の研究で示されています。直接的な効果ではなく??人間が元々持っている、危機を感知する能力を、わずかに増幅させる可能性がある」
「つまり」と長曾我部が言った。「予知は温泉がしているのではなく」
「私たちがしている」と工藤は言った。「この湯に浸かった時、私たちの中にある、普段は意識しない感知能力が、少しだけ開く。それが言葉や映像として現れる??」
「それが『予知』の正体だと」と松平が言った。
「仮説です」と工藤は繰り返した。「証明はできません」
大広間が静かになった。
松平が目を閉じて、ゆっくりと言った。「神意というものは??神の側から降りてくるのではなく、人間の側から立ち上がるものかもしれない。古くから、そういう考え方はあります」
「スパイスも」とムハンマドが言った。「人間の中にある感覚を、開く働きがあります。似ているかもしれません」
「似てへんと思うけど」と鏑木が言った。「でも、まあ??」
鏑木は徳利を持ち上げた。「飲もか」
「それが結論か」と加藤が言った。
「それが結論や」
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夜が更けた頃、全員が湯へ戻った。
二回目の入浴は、最初よりゆったりしていた。誰かが鼻歌を歌っていた??フェルナンドだった。何の曲かはわからなかったが、悪くない声だった。
湯面が、静かに揺れていた。
松平が目を閉じた。何かを待つでもなく、ただ、目を閉じた。
そして??
湯面に、文字が浮かんだ。
全員が見た。今月も、見えた。
*また来年。*
それだけだった。
誰も叫ばなかった。誰もスマートフォンを取り出さなかった。フェルナンドさえ、「ビッグサイン」と言わなかった。
鏑木が「……来年も来い、て言うてるな」と言った。
「そうですね」と松平は言った。
「来るわ」と加藤が言った。
「もちろんです」とムハンマドが言った。
「来ます」と千恵が言った。
「来るに決まってるやろ」とフェルナンドが言った。「チャンネル登録お願いします」
「今かよ」と鏑木が言った。
笑いが、また湯の上を漂った。
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翌朝、チェックアウトの前。
北村唯が全員に名刺を配った。
白い名刺だった。表には日本語で「北村唯」と、携帯の番号。裏には英語で「National Security Agency」と印刷されていた。
鏑木がしばらく眺めて、「なんや」と言った。「大工と一緒やん」
「大工と?」と唯が聞いた。
「現場仕事や」と鏑木は言った。真顔で。「俺も現場で稼ぐ。あんたも現場で稼ぐ。一緒やないか」
唯は一秒、固まった。
そして??笑った。
声を出して笑った。二十六歳の、エージェントの、普通の笑い声だった。
「そうですね」と唯は言った。「一緒かもしれません」
加藤が「俺の名刺も要るか」と言い、ポケットから「加藤自動車」の名刺を出した。ムハンマドが「私のカレー店にも名刺があります」と言い、フェルナンドが「俺はQRコードや」と言い、ロドリゲスが「チャンネルのURLも入れてあります」と言い、長曾我部が「名刺交換は社会の基本です」と言いながら自分のも出した。
玄関先で、十二人分の名刺交換が始まった。
女将が縁側から見ていた。何も言わなかったが、笑っていた。
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最後に、秋月が工藤の隣に立った。
全員が駐車場へ向かう中、二人だけが少し遅れていた。
「来年も来るか」と秋月が言った。
「来ます」と工藤は言った。
「休養のためか」
「……どうでしょう」と工藤は言った。「最初はそのつもりでしたが、今はよくわかりません」
「それでいいんじゃないか」と秋月は言った。「理由が何であれ、来る場所があるということは」
工藤は秋月を見た。
「秋月さんは、来年も来ますよね」
「当たり前だ」と秋月は言った。「お前が来るなら」
「お前が来るなら、ではなく、秋月さん自身はどうなんですか」
「……俺も来る」と秋月は少し間を置いて言った。「俺自身も」
工藤は小さく頷いた。
「じゃあ、また来年」
「ああ」
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車が、一台ずつ御前湯を後にした。
鏑木の軽トラが最初に出た。助手席の加藤が手を振った。ムハンマドのワンボックスが続いた。フェルナンドとロドリゲスは同じ車だった??二人がいつの間にか仲良くなっていた。長曾我部はタクシーを呼んでいた。松平は車を持っていないので、今月は千恵が送っていく。
北村唯は、一番最後に出た。
工藤の車の横に立ち止まり、窓越しに言った。
「また来年」
「また来年」と工藤は言った。
「工藤さん」と唯は言った。「この温泉のこと??私の報告書には、『予知能力の存在を確認できず、温泉の泉質に特異な成分を検出せず』と書きます」
工藤は少し考えた。「それは、嘘の報告書ですか」
「解釈の問題です」と唯は言った。「人間の感知能力を増幅させる成分は、まだ正式に証明されていません。だから??存在を確認できなかった、は嘘ではない」
「……なるほど」
「この場所を、守りたいと思いました」と唯は言った。「変な人たちが、毎年来られるように」
工藤は窓の外の唯を見た。
「ありがとうございます」と工藤は言った。
唯は頷いて、自分の車に乗った。
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御前湯の前の道が、また静かになった。
女将が玄関先に立って、白い息を吐いた。
来年も来るだろう、と女将は思った。あの人たちは、来年も来る。そしてまた、温泉が何か言って、みんなが騒いで、それでも最後には笑って帰っていく。
それが毎年続くということは??悪いことではない、と女将は思った。
大浴場の湯が、静かに湧いていた。
誰もいない大浴場の湯面を、湯気が流れていた。
文字は、もうどこにも浮かんでいなかった。
ただ、湯は温かかった。
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春になれば、また来年がやってくる。
御前湯の砂利道の雪が溶け、杉の枝に新しい芽が出る頃、また全員が集まるだろう。鏑木は軽トラで来て、加藤はフィアットを直して来て、長曾我部は電車とタクシーで来て、ムハンマドはスパイスを抱えて来て、千恵は豆助を連れてくるかもしれない。フェルナンドはカメラの前で叫んで、ロドリゲスは配信して、松平は目を閉じて、織田は何かを食べている。
工藤は休養のためではない理由で来て、秋月はついてくる。
北村唯は??報告書に「異常なし」と書いた場所へ、また戻ってくる。
温泉は、また何か言うかもしれない。言わないかもしれない。
どちらでも、いい。
大事なことは??その湯に浸かった時、人間の中にある何かが、少しだけ開くということだ。それが予知でも、感知でも、ただの錯覚でも。
温かい湯の中で、誰かの隣にいる。
それだけで、十分なのかもしれない。
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*??第五話「温泉は、最後に笑う」了??*
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