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「お湯が告げる、ほんのり不吉」

---


 長野の山の奥に、御前湯という温泉宿がある。


 国道から砂利道を七分ほど走り、杉林を抜けたところに唐突に現れる平屋建ての宿だ。

看板は色褪せ、玄関口の盆栽は手入れされすぎて原型を失いかけているが、泉質だけは本物だった。

硫黄の香りが鼻をくすぐる、ぬるめの単純硫黄泉。

肩が凝った職人も、帳簿に疲れた会計士も、三日も浸かれば大抵のことは忘れられる??そういう湯だった。


 十月の第二土曜日。


 御前湯の男湯には、今年も八人が集まっていた。


---


 最初に口を開いたのは、鏑木俊哉だった。


「文字やて」


 湯船の縁に肘をかけ、湯気の向こうを指で示しながら、六十年分の皮膚を持つ手がゆっくり動いた。

大工歴三十五年。木の目を読むことなら誰にも負けない男が、今しかめっ面で指差しているのは??湯面に浮かんだ何かだった。


「交通事故注意、て書いてあるやろ。見えへんか」


 隣で目を細めた長曾我部圭吾が、眼鏡を手ぬぐいの上に置いて顔を近づけた。

五十九歳、会計士。数字には強いが、霊的なものとは生涯縁がないと思って生きてきた男だ。


「……湯気が揺れてるだけじゃないですか」


「揺れ方が文字や。俺、木目で文字読むのうまいねん」


「それは特技なんですか」と、さらに隣から織田信暢が首を傾けた。

ラーメン屋を営む五十三歳で、こういう話には柔軟だった。「俺も見る。……あ」


「見えたか」と鏑木が膝を打った。


「……なんか、見えた気がする」


「気がするやないか、見えとるんや」


 その会話を、少し離れた岩の上で聞いていた松平秀麿が、静かに目を閉じた。

五十五歳、神主。神域で文字が浮かぶことは珍しくないが、温泉で浮かんだ話は聞いたことがなかった。神前か仏前か、あるいはその中間に位置する「お湯」という場所に、神意が宿ることはあるのだろうか。


「祟り、ではないかもしれません」と彼は呟いた。「むしろ、お知らせかと」


「お知らせ言うても、交通事故注意って具体的すぎひん?」と加藤敬三が湯船の端で腕を組んだ。

六十歳、自動車屋。交通事故は他人事ではない職業だ。「俺のクルマ、点検したばっかりやぞ」


 その瞬間、浴場の引き戸が勢いよく開いた。


「ビッグビッグビッグ??!」


 入ってきたのはフェルナンド・村田、五十三歳だった。

関西を拠点に占いとYouTubeで生計を立てる男で、名前の前半はブラジル人の父親から、後半は大阪の母親から受け継いだ。

湯船に足を入れながら、すでに彼の瞳は爛々と輝いていた。


「今な、廊下歩いてたら全身がぞわっとしてん。霊的ビッグサインや。何かあった?」


「文字が浮かんだ」と鏑木が親指で湯面を示した。


 フェルナンドは一秒固まり、次の瞬間には腰まで湯に浸かりながら叫んでいた。


「来てるやん! 完全に来てるやん! チャンネル登録お願いします!」


「誰に言うてんねん」と長曾我部が呆れた。


 さらに数秒後、浴場の端でスマートフォンの光が灯った。


「……ちょっと、配信していいすか」


 ロドリゲス斎藤、五十二歳。バイヤー兼YouTuberで、珍しいものを見つけた時の反射神経は誰にも負けない。すでにカメラは起動していた。


「待って待って、インカメで映っとる。俺の裸、映っとるやろ」と加藤が腕で身体を隠した。


「大丈夫です、湯気で見えないんで」


「見えんかったら配信する意味ないやろ!」


---


 そのころ、女湯の方では。


 木下千恵(五十三歳、動物病院院長)が一人で静かに湯に浸かり、今頃男湯ではうるさいことになっているだろうなと、壁越しの喧騒を聞きながら思っていた。

毎年この時期に来るようになって五年。最初は疲労回復のつもりだったが、今では顔ぶれが好きで来ている。


 少し遅れて暖簾をくぐってきたのは、イエンガー・ムハンマドだった。五十五歳、カレー店長。

女湯と男湯を間違えたわけではなく(宿では混浴の時間帯がある)、大きなステンレスのボウルを抱えて入ってきた。


「千恵さん、聞きましたか。湯に文字が浮かんだそうです」


「聞こえてたわよ。壁、薄いんだから」


「スパイスで清める方法があります」とムハンマドはボウルを掲げた。

「クミン、コリアンダー、ターメリック。邪気払いに効果的です」


 千恵は長い沈黙の末、穏やかに言った。


「ムハンマドさん。それ、お湯に入れたらダメよ」


「……そうですか」


「そうよ」


 男湯からはまだ声が聞こえていた。

フェルナンドが「ビッグビッグ」と言い続け、ロドリゲスが配信を続け、加藤が怒鳴り、鏑木が湯面を指差し、長曾我部が会計士的な視点でコストパフォーマンスを考え、松平が目を閉じて神意を測り、織田が「見えた気がする」を繰り返していた。


---


 翌朝、六時二十分。


 宿の駐車場で、鏑木の軽トラックが加藤の旧型フィアット・チンクエチェントに、静かに、しかし確実に追突した。


 速度は時速三キロメートル。被害額はゼロ。怪我人もなし。


 ただ、鏑木の助手席に積んであった木材が荷台から落ち、加藤のフィアットのボンネットに乗り上げ、「交通事故注意」の文字が書かれた貼り紙が??鏑木が自分で作って昨夜ダッシュボードに貼ったのだが??風に舞って加藤の顔に張り付いた。


「……」と加藤は言った。


「……」と鏑木は言った。


 駐車場の入口で一部始終を見ていた全員が、しばらく黙っていた。


 最初に口を開いたのは、フェルナンド・村田だった。


「お友達の会、作ろか」


 誰も反対しなかった。

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