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「工藤俊一、可児に残る」

一月の可児は、底冷えがする。

 朝、木曽川沿いを歩いていると、川面に薄氷が張っていた。工藤俊一はコートの襟を立てて、川を見た。

 横浜の冬とは違う冷たさだ。

 湿気がない。乾いている。山から降りてくる風が、真っ直ぐに体を刺す。

 でも不思議と、嫌いではなかった。


 工藤が可児に来て、最初は一週間のつもりだった。

 第一章のとき、根古の事件に巻き込まれた。終わったら横浜に帰るつもりだった。

 でも第二章が始まった。

 第三章も始まった。

 第四章、第五章と続いて、気づいたら一年経っていた。

 横浜の事務所は、知り合いの探偵に頼んで維持している。依頼は転送してもらっている。でも最近、横浜からの依頼より可児での動きのほうが多くなっていた。

 秋月小五郎は先月、横浜に帰った。でも帰り際に言っていた。

「また来る。春になったら来る」

 工藤にはそれが、自分への言葉でもある気がした。


 ラクカで朝のコーヒーを飲んでいると、太田が言った。

「工藤くん、今日も来たのか」

「来ました」

「昨日も来た」太田は言った。「一昨日も来た」

「居心地が良いので」

「それはいいが」太田はコーヒーをおかわりしながら言った。「横浜に帰らないのか」

「帰ろうとするんですが」工藤は言った。「なかなか帰れない」

「何がそうさせるんだ」

 工藤は少し考えた。

「この町が、何かを引き止める気がします」工藤は言った。「根古さんがいるというのもあります。でもそれだけじゃない。何かもっと??根みたいなものが、この町にある気がして」

 太田はカウンターを拭きながら、少し笑った。

「それはヤコブのせいだな」太田は言った。

「ヤコブ・ネコですか」

「あの人が根を張ったから、この町には根を張りやすい土がある」太田は言った。「お前さんも、その土に足が取られたんだろう」

 工藤は川沿いの窓の外を見た。

「そうかもしれません」工藤は言った。


 昼前に、根古の事務所に寄った。

 澪がお茶を出してくれた。ヤマトが工藤の膝に乗ってきた。

「根古さん」工藤は言った。「一つ相談があります」

「何ですか」

「可児に事務所を開けようと思っています」工藤は言った。

 根古は少し止まった。

「江戸川と同じことを言うな」根古は言った。

「江戸川くんは先に動いていますね」工藤は言った。「でも俺も??可児にいる理由が、横浜にいる理由より多くなってきました」

「横浜の事務所は」

「知り合いに譲ります。もう話をつけてあります」工藤は根古を見た。「根古さん、ダメですか」

「俺がダメと言う理由はない」根古は言った。「好きにしろ」

「ありがとうございます」工藤は言った。

「礼を言う必要もない」根古は言った。「ただ??一つだけ聞かせてください」

「何ですか」

「横浜に帰れなくなった本当の理由は何ですか」

 工藤は少し間を置いた。

「根古さんのそばで学びたいからです」工藤は言った。「一年間、根古さんが動くのを見てきました。俺にはできないことがたくさんある。でも??近くにいれば、少しずつ学べると思って」

「俺は師匠ではない」根古は言った。

「でも俺は学んでいます」工藤は言った。「澪さんと同じです」

「澪は弟子ではない」根古は言った。

「俺も弟子ではありません」工藤は言った。「ただ近くにいます」

 根古は少し工藤を見た。

「好きにしろ」根古は言った。


 翌週、工藤は可児市内に小さな事務所を借りた。

 江戸川の事務所から三百メートルの距離だ。

 看板を出した日、澪が見に来た。江戸川も来た。鳴海も来た。

「看板、ちゃんと出しましたね」澪は言った。「工藤探偵事務所」

「シンプルな名前ですね」江戸川は言った。

「シンプルで良いと思って」工藤は言った。「根古さんも、根古探偵事務所ですから」

「可児に探偵が三人になった」鳴海はブログ用のカメラを向けた。「書いていいですか」

「どうぞ」工藤は言った。「でも大げさに書かないでください」

「大げさに書きます」鳴海は言った。「そのほうが読まれるので」


 事務所の開所を、根古に報告しに行った。

 根古はコーヒーを飲みながら聞いた。

「開きましたか」根古は言った。

「開きました」工藤は言った。「依頼が来るかどうか分かりませんが」

「来ます」根古は言った。

「そうですか」

「この町では必ず来ます」根古は言った。「そういう町だと、一年間で分かったでしょう」

「分かりました」工藤は言った。「でも??根古さんの事件に比べると、俺のところには小さな依頼しか来ないかもしれません」

「小さな依頼を丁寧にやれ」根古は言った。「小さな話が大きな話になる。この町では特に」

「それも一年間で学びました」工藤は言った。

 ヤマトが工藤の足元に来て座った。

「ヤマトも歓迎してくれています」澪が言った。

「そうかもしれません」工藤は黒猫を見た。「ヤマトさん、よろしくお願いします」

 ヤマトは答えない。ただ工藤を見ている。

「それが答えだ」根古は言った。

「どういう答えですか」

「悪くない、という答えだ」根古は言った。「ヤマトが嫌いな人間には、近づかない」

「そうでしたね」工藤は言った。「光栄です」


 夕方、工藤は木曽川沿いを歩いた。

 冬の川が静かに流れている。

 横浜の海が好きだった。広くて、遠くまで見える。

 でも木曽川も悪くない。山から来て、海に向かう。長い旅をしている川だ。

 工藤はスマートフォンを取り出し、秋月に電話した。

「秋月さん、工藤です」

「何だ」秋月の声は、横浜にいてもいつもと変わらない。

「可児に事務所を開けました」工藤は言った。

「そうか」秋月は言った。「早かったな」

「春になったら来ると言っていましたね」工藤は言った。

「行く」秋月は即座に言った。「それより工藤、根古さんは何か言ったか」

「好きにしろ、と言いました」

「それは歓迎だ」秋月は言った。「根古さんの好きにしろは、来いという意味だ。一年間でそのくらいは分かるだろう」

「分かりました」工藤は笑った。「春に待っています」

「ああ」秋月は言った。「根古さんにもよろしく言っておけ」


 電話を切って、工藤は川を見た。

 夕日が山の向こうに沈みかけている。

 オレンジ色の光が、川面を染めている。

 横浜では見られない景色だ。

 海の夕日とは違う。山に沈む夕日は、少し寂しい。でも温かい。

 工藤は深呼吸した。

 可児の冬の空気が、肺に入ってきた。

「よし」工藤は小さく言った。

 誰に言うでもなく、自分に言った。

 ここで動こう。この町で、根古さんのそばで、自分なりに動こう。

 それだけのことだ。

 でもそれで十分な気がした。


 翌朝、工藤の事務所に最初の依頼が来た。

 六十代の女性で、飼い猫が行方不明になったという。

「猫ですか」工藤は言った。

「はい」女性は言った。「白い猫で、名前はシロといいます。三日前から帰ってこないんです」

「分かりました」工藤は手帳を出した。「探してみます」

 女性が帰った後、工藤は根古に電話した。

「根古さん、最初の依頼が来ました」

「何ですか」

「猫の迷子です」

「ほう」根古は言った。「俺も以前、似たような依頼を受けた」

「そうでしたね」工藤は言った。「根古さん、猫の迷子はどうやって探しますか」

「歩いて探す」根古は言った。「それだけだ」

「シンプルですね」

「探偵の仕事はシンプルだ」根古は言った。「動いて、見て、考える。それだけだ」

「分かりました」工藤は言った。「行ってきます」

「気をつけて行け」根古は言った。


 工藤はコートを着て、事務所を出た。

 可児の冬の朝、空気が澄んでいる。

 白い猫を探して、可児の町を歩き始めた。

 初めての依頼だ。小さな依頼だ。

 でも小さな話が大きな話になる。根古がそう言っていた。

 工藤は歩きながら、この町のことを考えた。

 五つの章にわたって、いろんなことが起きた。でもその全部の根っこに、ヤコブ・ネコという男がいた。この町に根を張ることを選んだ男が、何十年も後の人々を繋いでいた。

 工藤は自分が今、この町に根を張ろうとしていると感じた。

 根を張るのは、難しいことではないかもしれない。

 ただここにいて、動く。それだけで根は張れると、太田が言っていた。

 工藤は歩き続けた。

 可児の朝が、静かに広がっていた。


 午後、白い猫が見つかった。

 近所の空き家の縁側で、丸くなっていた。

 工藤が近づくと、猫は逃げなかった。じっと工藤を見た。

「シロ」工藤は言った。

 猫は動かない。

「帰ろう」工藤は言った。「飼い主が心配している」

 猫は少し考えるように首を傾けた。

 それから立ち上がり、工藤の足元に来た。

「来てくれますか」工藤は言った。

 猫はまた工藤を見た。

「ヤマトに似ている」工藤は言った。「目が似ている」

 猫は答えない。ただついてくる。

 工藤は猫と一緒に歩いた。

 可児の路地を、白い猫と並んで歩いた。

 初めての依頼が解決した瞬間だった。

 小さな解決だ。でも工藤には、十分大きく感じた。


 夕方、飼い主の女性に猫を返した。

 女性は泣きながら喜んだ。

「ありがとうございます」女性は言った。「本当にありがとうございます」

「お役に立てて良かったです」工藤は言った。

 女性が帰った後、工藤は事務所に戻った。

 電気をつけた。

 小さな事務所だ。机が一つ、椅子が二つ。窓から可児の夕暮れが見える。

 工藤は椅子に座った。

 手帳を開いた。

 最初のページに書いた。

一月、可児。最初の依頼。白い猫の迷子。解決。

 それだけ書いて、手帳を閉じた。

 窓の外に、可児の夕暮れが広がっていた。

 山が赤く染まっている。

 工藤はその景色を見た。

「ここで動こう」工藤はもう一度、静かに言った。

 今度は、もう少し大きな声で。



工藤俊一、可児に残る??完成です!

猫の迷子という小さな依頼から始まる、工藤の新しい出発を描きました。第一部全体の締めくくりにもなる、温かい番外編になったと思います。

他にも番外編を書きますか?秋月小五郎の視点や、神崎綾乃の可児での新生活なども書けます!23:00まで無料のメッセージを使い切りましたアップグレード

猫の迷子という小さな依頼から始まる、工藤の新しい出発を描きました。

第一部全体の締めくくりにもなる、温かい番外編になったと思います。

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