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「廃墟と生配信と、骨」 第六話

シーン6


 安藤修の家は、可児市の外れにあった。

 築三十年はありそうな一軒家。庭の手入れは最低限で、玄関脇の植木鉢が二つ、枯れかけている。

表札はあるが、苗字だけ。

 工藤が呼び鈴を押したのは、翌朝の九時だった。

 しばらく待った。もう一度押した。

 ドアが開いた。

 三十六歳。元警部補。だが今の安藤修は、その肩書きを脱いだ後の男の顔をしていた。

無精髭が伸び、目の下に影がある。Tシャツとスウェットパンツ。寝起きではない??夜を寝ていない目をしていた。

 「工藤です。少しお時間をもらえますか」

 安藤は工藤を見た。何も言わなかった。

 「旧三菱機械工場の件です」

 安藤の目が、ほんの少し動いた。

 「……入れ」

---

 リビングは薄暗かった。カーテンが半分閉まっている。テーブルの上に缶コーヒーが一本、中身はもう空のようだった。

テレビはついていないが、リモコンが手の届くところに置いてある。ひとりで長い夜を過ごした部屋の空気がした。

 安藤は椅子に座った。工藤も座った。

 「何を知りたい」安藤は言った。先手を打つように。

 「十年前、あの工場で何があったか」

 「知らない」

 「嘘ですね」

 安藤は工藤を見た。工藤は安藤を見た。

 「警察じゃないのか、お前」

 「私立探偵です。横浜から来た」

 「なんで横浜の探偵が可児に」

 「縁があって」

 安藤は鼻で笑った。笑い方が乾いていた。「縁、ね」

 工藤は続けた。「遺体の身元、もうわかりましたか」

 「……俺に聞くな。退職した人間だ」

 「でも知ってるはずだ」

 沈黙。

 安藤はテーブルの上の空き缶を、指先でゆっくりと回した。一回転。また一回転。

 「なぜそう思う」

 「あなたが退職した時期と、十年前が近い。所轄の警部補が三十六歳で退職するのは早い。何かあった」

 「早期退職は珍しくない」

 「動機がいる」

 また沈黙。

 安藤は缶を回すのをやめた。手のひらで押さえた。

 「……お前、しつこいな」

 「仕事なので」

 「誰に頼まれた」

 「今は言えない」

 安藤は工藤を見た。長い時間、見た。探るような目だった。

疑っているのか、それとも、誰かに話したくて仕方なかったのか??工藤には判断できなかった。

 安藤は立ち上がり、キッチンへ行った。缶コーヒーを二本持って戻ってきた。

一本を工藤の前に置き、自分は椅子に深く座り直した。

 「飲め」

 「ありがとうございます」

 安藤は缶を開け、一口飲んだ。目を伏せた。

 そして、話し始めた。

---

 「十年前、俺はまだ巡査部長だった」

 安藤の声は低く、平坦だった。感情を削ぎ落とした話し方だった。

 「あの工場は当時、操業を停止してから五年経っていた。廃墟になりかけていたが、建物はまだ残っていた。

俺が担当していたのは、近隣の住民から寄せられた不審車両の通報だ。

夜中に大型トラックが出入りしているという話だった」

 「調べたんですか」

 「調べた。単独で、上には報告せずに」

 「なぜ上に報告しなかった」

 安藤は少し間を置いた。「上に話すと、揉み消されると思ったから」

 工藤は何も言わなかった。続きを待った。

 「夜中に工場跡を見に行った。三回目の夜に、現場を見た。トラック二台。男が十人前後。荷物の受け渡し。

何の荷物かは遠すぎてわからなかったが??明らかに、まともなものではなかった」

 「それを誰かに報告しましたか」

 「しなかった」

 工藤は缶コーヒーを置いた。「なぜ」

 安藤は答えなかった。

 「脅されたんですか」

 「……見られた」安藤はゆっくり言った。「四回目の夜に。俺が見張っていたことを、向こうも気づいていた。

翌日、俺の家の郵便受けに写真が入っていた」

「写真」

「家族の写真だ。妻と、当時六歳だった娘の」

 工藤は黙った。

 「それだけだった。手紙も何もない。ただ写真だけ。それで十分だった」安藤は缶コーヒーを両手で持ち、テーブルを見た。

「俺は何もしなかった。報告もしなかった。現場に行くのもやめた。そのまま、時間が過ぎた」

 「それから」

 「三年後に妻と離婚した。娘は妻が引き取った。仕事は続けたが……続けられなくなった。

去年、退職した」

 部屋が静かだった。遠くで、どこかの家の犬が吠えた。

 工藤は聞いた。「現場にいた人間の中で、顔を見た人はいますか」

 「一人だけ」

 「誰ですか」

 安藤は工藤を見た。迷っている目だった。十年間、誰にも言わなかったことを、今ここで言うかどうか迷っている目だった。

 「……言ったら、どうなる」

 「わかりません」工藤は正直に言った。

「でも、遺体が出た。十年前のことが、もう動き始めている。あなたが黙っていても、誰かが掘り起こす」

 「俺が掘り起こされるかもしれない」

 「そうかもしれない」

 安藤は目を閉じた。

 長い沈黙があった。

 工藤は待った。急かさなかった。

 安藤が目を開けた。

 「遠峰という男だった」安藤は言った。

「遠峰一郎。当時四十代。貿易関係の仕事をしていると聞いていた。

可児市内に事務所を持っていた」

 「今も」

 「今は……わからない。あれから接触していないから」

 「遺体は遠峰という人物だと思いますか」

 安藤はゆっくりと首を振った。「遠峰は生きていると思う。あの男は、そういう男だ。死なない」

 「では遺体は」

 「遠峰に消された誰かだ。おそらく??当時の取引に関わった人間の中で、口を割りそうになった誰か」

 工藤は手帳に書き込んだ。遠峰一郎。貿易。可児市内の事務所。

 「安藤さん」工藤は手帳を閉じた。

「今の話を、警察にする気はありますか」

 安藤は笑った。今度は乾いた笑いではなかった。

 何かが、少し崩れたような笑いだった。

 「……考える」安藤は言った。「時間をくれ」

 「わかりました」

 工藤は立ち上がった。名刺を一枚、テーブルに置いた。

 「何かあればここに。いつでも」

 安藤は名刺を見た。拾わなかった。でも??捨てもしなかった。

---

 工藤が玄関を出たとき、後ろでドアが閉まった。

 鍵の音はしなかった。

 工藤はそれに気づいたが、振り返らなかった。歩き出した。

 頭の中に、遠峰一郎という名前が残った。

 貿易。十年前。口を割りそうになった人間を消す男。

 そして??今も、何かが続いている。

 工藤はスマートフォンを出し、江戸川に電話をかけた。

 二コールで繋がった。

 「遠峰一郎という人物を調べてくれ。貿易関係、十年前に可児市内に事務所があった」

 江戸川の声が弾んだ。『わかりました!どこで聞いたんですか』

 「安藤修から」

 『え、あの元警部補の? 工藤さん、もう会ったんですか』

 「今から事務所に行く。北村さんにもその名前を伝えてくれ」

 『あ、それが??北村さんから連絡来てて、今日の午後、三人で話したいって』

 「三人?」

 『工藤さんと俺と、あと??今朝、見知らぬ女性三人が事務所に来て、工藤さんに会いたいって言ってるんですよ。温泉旅館に泊まってる人たちで、なんか??』

 工藤は足を止めた。「星野由紀子、西野千紗都、古田麻尋」

 沈黙。

 『……工藤さん、なんで知ってるんですか』

 「後で話す」

 『また後でで切るやつですか』

 工藤はすでに電話を切っていた。

---

 安藤修は、ドアが閉まった後、しばらくそのまま立っていた。

 それからリビングに戻り、テーブルの上の名刺を見た。

 *工藤俊一 工藤探偵事務所 横浜市*

 安藤は名刺を手に取った。

 十年間。ひとりで抱えてきた十年間。

 電話を、しようか。

 安藤は名刺を持ったまま、椅子に座った。すぐには動かなかった。

 ただ、カーテンの隙間から差し込む朝の光が、少しだけ明るくなったような気がした。

---

*つづく*


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