②二〇二五年(彼女の転勤)
それから九年後、彼女の転勤は彼とは大きく違う形で訪れた。
それは二〇二五年一月十八日だった。
いつものように、十一時に合わせて百貨店に入る。売り場までの道も、立つ位置も、もう考えなくても体が覚えていた。その日も同じように、彼女のいるカウンターに向かった。
いないだろうとは思っていた。シフトでいない日もある。その場合は他の美容部員が対応する。それも、もうルーティンの一部になっていた。
その日も同じだった。椅子に座り、鏡の前で少しだけ話をして、商品を触って、時間が過ぎていく。特別なことは何もなかった。そのまま帰るつもりだった。
会計を済ませて、売り場を離れようとしたとき、後ろから声をかけられた。
「少しよろしいですか」
振り向くと、別の美容部員が立っていた。
その場で、伝えられた。
転勤だった。彼女はもう、この売り場にはいないと。その言葉を聞いた瞬間、足元の感覚が消えた。目の前にある売り場も、人の声も、全部そのままなのに、そこだけが切り離されたように遠くなる。
次に来た感覚は、九年前だった。
場所も時間も違うはずなのに、同じ場所に立っているような感覚になる。あのときと同じだった。手紙を読んで、三月までだと知ったときと、同じところに戻される。
違うのは、今回はその場に立っているということだった。
その場で、私は泣いてしまった。抑えることができなかった。九年前を思い出してしまい、彼のことまで口にしていた。九年前のことが、そのま混ざって出ていた。
目の前にいた美容部員は、一瞬だけ動きが止まった。何かを選ぶように口を開きかけて、そのまま閉じる。
転勤という言葉だけが、同じ形で重なっていた。説明されなくても分かっていた。同じだった。彼のときと同じだった、転勤で終わる形だった。
彼女は、本来なら事前に伝えようとしていたのだと、あとで聞いた。十二月の時点で連絡を取ろうとしていたこと、けれど連絡先が分からず、それができなかったこと。
もしあのとき伝えられていたら、おそらく彼女は、彼同様にこう言っていたはずだった。この職場は転勤があるから、会えるのは十二月までだと、そして八年間のお礼を、きちんと伝えたかったのだと。
そう思った。
彼のときとは違った。本人から事前に伝えられないまま終わる、その形だけが残る。
受け入れることは、やはりできなかった。
八年という時間は、三年とは違っていた。そこに通うこと自体が、生活の一部になっていた。その時間があることを前提に、日常が組み立てられていた。
それが、そのまま抜け落ちる。何かがなくなるというより、最初からなかった場所に立たされるような感覚だった。
そのあと、しばらくしてから、別の形の反応が出ていた。
彼女から買った化粧品を、全部捨てそうになった。手元にあるものを見ているだけで、そこに繋がってしまう。資生堂の売り場自体も、視界に入れることができなくなりかけていた。
けれど、そこで止まった。
九年前と同じように広がるのは危険だと、どこかで分かっていた。あのときは、一つの建物から始まって、街並みも、城も、景色そのものが見られなくなった。同じ形にはしたくなかった。
前に一度、同じことが起きている。どこから崩れていくのかも、その先がどうなるのかも、分かっていた。
だから、範囲が止まった。彼女がいた百貨店、その場所だけに留まった。
他の百貨店の資生堂では、同じ反応は起きなかった。同じブランドでも、同じ売り場でも、場所が違えば繋がらなかった。そこでは、何も起きていないからだった。
しかし、新しく一つ増えていた。
結びついていたのは、名前でも商品でもなく、その場所の光や匂い、そこで過ごした時間そのものだった美容部員を指名しなくなった。名前を呼ぶこと自体を、避けるようになっていた。関係ができる前で止めるような形に変わっていた。
広がらなかった代わりに、入り口で止まるようになっていた。あのときのように、すべてが繋がってしまう前に、そこで切れていたのだと思う。
それでも、完全に切れているわけではなかった。売り場の前に立つと、少しだけ足が止まる。中に入れば普通に買い物はできるのに、あの場所だけは、どこか違っていた。
十一時に合わせて通っていたあの時間、その流れだけがそのまま残っていて、そこに戻ることだけができなかった。




