第9話 卒業式典、一斉提示
「フェリシア様が、わたくしを階段から突き落としました」
――ミミ嬢の涙芸は、本日も、完璧だった。
声の震え方、涙のひと粒の大きさ、頬を伝う線の角度。式典の照明を真後ろから受けているせいで、ミミ嬢の涙は、まるで、意図して照明技師が当てたかのように、整っていた。
舞台の上でその涙を見ていた参列者たちの呼吸が、一度、そっと止まった。
呼吸が止まったまま、誰も、動かなかった。
――始まりましたわね。
わたくしは、隣の席で、静かに、紅茶の湯気を、鼻先に吸い込んだ。
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卒業式典は、学園の大講堂で開かれる。
高い天井のアーチから、長い祝賀の垂れ布が、緋色と金色の二色で、壇上に向かって下がっている。壇上の中央には卒業証書授与のための台。上手には王族の来賓席、下手には教授会の席。参列者の席は、壇下に扇形に広がっていた。
朝から、式は粛々と進行していた。国歌斉唱、校長の挨拶、卒業生代表の答辞。
わたくしは、壇下ではなく、上手の王族の来賓席の隣、特別席、という、なんとも曖昧な位置に座っていた。殿下のお申し出どおり、殿下の「隣の席」であった。
王太子殿下は、壇上に向かって左寄りの席に、穏やかに腰を下ろしておられた。わたくしの席の、斜め前の席だった。
参列者の大半は、わたくしのこの妙な席を、じっと、見ないふりをしながら、見ていた。
王族の隣の特別席に、公爵令嬢が、一人で座っている。それは、学園の卒業式典の座席表としては、相当、異例の配置だった。
それでも、誰も、何も、言わなかった。
言わないまま、式は、進行していた。
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校長の挨拶が終わった、その直後。
それまで粛々と進んでいた式の流れに、唯一、割り込みをかけたのが、ミミ嬢の震える声だった。
「――申し訳、ございません、皆さま、どうしても、お伝えしたいことが、ございます」
ミミ嬢は、卒業生の列の中央あたりから、ゆっくりと、壇上へと進み出た。教授陣の誰も、止めなかった。止めなかったのは、この流れを止めるには及ばない、と教授陣が、事前に、判断しておられたからである。
わたくしもそのように、事前に、お願いをしていた。
ミミ嬢は壇上の中央に立った。
そして壇下を見下ろして、静かに切り出した。
「フェリシア様が、わたくしを、階段から突き落とされました」
涙が、ひと粒、落ちた。
「わたくしの後援者でいらしたヴィオラ様が不名誉な沙汰を受けられましたのも、もとはといえば、フェリシア様が長らくわたくしを狙って、仕組んでこられたことの、結果でございます」
声の震え方が、計算されていた。
場の空気が、揺れ始めた。
人の情動は、たぶん、鎖のように繋がる。ひとりが涙を流すと、その隣の人が息を吸い、息を吸ったその隣の人が視線を落とす。誰かが落とした視線を、また別の誰かが、ゆっくり上げる。
ミミ嬢は、そこまで読んでいた。
ミミ嬢のあとに、オリバー・ハーヴァル伯爵令息が、卒業生の列から、ゆっくりと壇上へ進み出た。
「皆さまに、申し上げたい」
オリバー様は、事前に暗記してこられたであろう口調で、朗々と仰った。
「学園学則、第四十七条。『公衆の前で名誉を毀損された者は、同じ場で反証の機会を与えられる』。この条文に基づいて、本日この場で、わたくし、オリバー・ハーヴァルは、公爵令嬢フェリシア・ヴェルティーゼ嬢に対し、断罪の手続きを正式に申し立てます」
壇下のどこかで、椅子が、ひとつ、きしんだ。
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――壇上でミミ嬢が最後の涙を流した、その瞬間。
参列者の列が、動いた。
誰かが先に動いたわけではなかった。
前のほうの列の男爵令嬢が、胸ポケットに手を伸ばす。その動作を、隣の伯爵令嬢が、視界の端で捉える。その動作を、後ろの席の令息が、真似る。前列の、侯爵家の老当主がゆっくりと胸ポケットに手を伸ばす。中央の列の、剣術科の男子生徒が、堂々と、胸ポケットを開ける。
動作が、連鎖した。
一人ずつの動きの速度は、それぞれだった。けれど、動きの方向は、すべて、同じだった。
胸ポケットから、折り畳まれた、白い紙。
誰のポケットにも、同じ紙が、入っていた。
モントレイク侯爵家の侍女たちが、昨夜のうちに、参列者の全ての席の、それぞれのポケットの位置に、事前に挟んでおいた紙。
『ミミ嬢関連事例集』の、要約版の写し。
壇上のオリバー様が、最初に、参列者の動きに気付かれた。
気付かれた瞬間、オリバー様の顔から、事前に暗記してこられた口調の色が、剥がれた。
「……これは」
――それは、あなた様のほうこそご存じないはずですわ、オリバー様。
わたくしは、静かに席を立った。
立ち上がる速度は、ちょうど、さきほどの参列者たちの動作の連鎖と、同じ方向を向いていた。
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「――学園学則、第四十七条」
わたくしは、壇上の中央からわずかに下手の位置に、歩み出た。
「『公衆の前で名誉を毀損された者は、同じ場で反証の機会を与えられる』。この条文に基づき、わたくしフェリシア・ヴェルティーゼは、本日この場で、ただ今、ミミ・カーライル子爵令嬢、ならびにオリバー・ハーヴァル伯爵令息より、公衆の前で名誉を毀損されました。よって、反証の機会を、本条文に基づき、行使いたします」
わたくしの声は、自分でも意外なほど、穏やかだった。
参列者の胸ポケットの紙は、まだ、開かれてはいなかった。開く必要は、まだ、なかった。
最初に、一枚。
「王宮付、筆跡鑑定官より発行された公式書状。ミミ嬢の枕元に残された、わたくしからの『脅迫状』と称される紙片が、わたくしの筆跡ではない、という鑑定結果の写しでございます」
教授会の記録官が、書状の実物を、壇上の書見台に、静かに立てた。
次に、二枚。
「学園の複数の証人による、中庭の件の、時刻と場所に関する詳細証言の記録。証人の名はこちらで匿名処理を行なった上で、事例集に収録されております。本日、参列者各位のお手元に、事前に配布をいたしております」
参列者の胸ポケットの紙が、一斉に、開かれた。
紙を開く音というのは、大講堂の高い天井の下では、小さな音が綺麗に重なって、大きな気流の音になる。風の向きが変わるような音だった。
オリバー様の顔が、一段、白くなった。
「次に」
わたくしは、三枚目を、書見台に置いた。
「教会監査部門、アーサー修道院長発行。ヴィオラ男爵夫人の、教会寄付金私的流用、ならびに、男爵家の、以後、教会関与権剥奪の正式書状」
参列者の席の、いちばん後ろの列、貴族家門の代表者席のあたりで、誰かが口元を、手で押さえた。
その誰かの押さえた音が、式典の空気の均衡を、もう一段、ずらした。
「そして、最後に」
わたくしは、革装の手帳から、小さな銀の円筒を取り出した。
ダニエル職人、渾身の改良版の、記録魔導具。
「本日、ここまでの壇上の、全員の発言。本装置に、音声の記録として入っております。必要があれば、再生いたしますが、いかがでしょうか」
壇上のオリバー様の足元が、一度、揺れた。
ミミ嬢は、立ったまま、固まっていた。涙は、もう、落ちていなかった。落とす段取りが、本人の中で、崩れていたからだった。
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「――ミミ・カーライル子爵令嬢」
壇上の上手から、王太子殿下がゆっくりと、一歩、前に出られた。
「先ほどのご証言、ならびに、オリバー・ハーヴァル伯爵令息のお申し立て。ご撤回の機会を、一度だけ、差し上げます。ご撤回にならなければ、本件、この場で正式記録に入ります」
王太子殿下のお声は、先日の円卓会議の時と、同じ温度だった。
ミミ嬢の唇が、小さく震えた。震えた唇が、意味のある言葉を形にするまでに、少し時間がかかった。
「……撤回、させて、いただきます」
「理由を、お伺いしても」
「……階段の件は、……わたくしが、階段の手すりに、自分で、頭を打ちつけたものでございます。ヴィオラ様のご不始末は、わたくしが、関与を、していた可能性が、ございます」
ミミ嬢の声は、最後まで辿り着かなかった。
辿り着かなかった声の続きを、壇上のほうで、教授会議長のイヴォンヌ・ミラー教授が、引き取られた。
「本日の式典における、ミミ・カーライル子爵令嬢の告発、ならびに、オリバー・ハーヴァル伯爵令息の断罪申し立て。本条文、反証権の行使により、取り下げ。以後、本件、および関連事案、ヴィオラ男爵夫人の件と併せ、学園と王家の正式記録に、本日の本時刻をもって、登録」
教授会の記録官が、分厚い記録冊子に、一本、長い線を引いた。
線は、長く、引かれた。
線を引く音が、大講堂の壁の高いところまで、届いていた。
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オリバー様は壇上で、ずいぶんのあいだ、動けなかった。
動けないでいらっしゃる間、オリバー様は、わたくしを見ていらっしゃらなかった。
わたくしを見ていらっしゃらない、というのが、むしろ、オリバー様の、最後の、少しだけ、尊厳のある選択だった。
ハーヴァル伯爵家の家長の代理として参列されていたオリバー様のご兄上が、席から立ち上がって、壇上に向かって深く一礼をされた。
「伯爵家として、謹んで、お詫びを申し上げます。本日の件、伯爵家、全面的に責任を負います。オリバーの処分、ならびに、フェリシア嬢とのご婚約については、本日付で、正式に、解消の手続きを、申し入れさせていただきます」
壇下のカーライル子爵の席からも、深い溜息が一つ、落ちた。溜息の主は立ち上がらなかった。立ち上がる段取りを、本人の中で、まだ、組み立てている途中のように、見えた。
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――と、ここまでが、本日の、爽快の話。
ここから先は、わたくしの手帳の分類表に、まだ、項目の立っていない話、である。
壇上の中央から、一歩、カイル・ヴァルフォート殿下が前に出られた。
殿下のお手には、昨夜、徹夜でお書きになった真新しい原稿用紙の束が、握られていた。
けれど殿下は、その原稿を、開かれなかった。
「皆さまにご挨拶の前に、ひとつ、申し上げたいことがございます」
殿下のお声は、昨日の朝と同じ温度だった。
「ヴェルティーゼ公爵令嬢、フェリシア嬢」
「はい」
「本日のお働きに、あらためて、敬意を」
「光栄ですわ」
「そのお言葉、最近、多くなっていますね」
「他に使える語彙が、貴族社会では、意外と少のうございますの」
壇下の参列者のいちばん手前の列で、レティシアが、たぶん、軽く声を出して笑っていたように、わたくしには聞こえた。
殿下は、一呼吸、置かれた。
「フェリシア嬢」
「はい」
「わたくしの、妃教育を、差配していただけませんか」
壇上の、すべての空気が、一度、止まった。
止まった空気の中で、わたくしは、殿下のお言葉の意味を、分類しようとした。
分類できなかった。
正確には、分類箱のどこに入れても、まっすぐ立たなかった。
どの箱にもまっすぐ立たなかった言葉を、わたくしは、初めて、分類せずに、そのまま受け取った。
「……謹んで、お受けいたします」
殿下は、深く、頭を下げられた。
その頭の下げ方の角度は、初めて殿下をお迎えした、あの応接間の時と、同じ角度だった。
貴族社会のどこの作法にも属していない、殿下ご自身の、角度。
壇下のいちばん手前の列で、レティシアが、今度こそ、小さく拍手をした。
その拍手が、周囲に、ひとつずつ、伝染した。
ある一人の拍手が別の一人の拍手を呼び、気が付けば、大講堂の高い天井のアーチまで、拍手の波が届いていた。
王太子殿下が、ご自分の席から、軽く、頷かれた。
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――これは、場を設計し続けた令嬢の人生の設計図が書き換わる、始まりの一幕だった。




