第8話 演説原稿、徹夜の共作
「書き直します」と殿下がペンを取られたとき、夜が、明けかけていた。
机の上に、赤字の入った原稿用紙が散らばっている。卓の端の紅茶は、何度か冷めては入れ直されていた。殿下の目の下には、うっすらと影があった。わたくしの指先には、万年筆のペン先の細い窪みに押された痕が、はっきり残っていた。
殿下は、全文、お書き直しになる、とお決めになった。
夜明けの前に。
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――その夕刻に、遡る。
学園の校舎裏で、初夏の風が、外壁の蔦を揺らしていた。
わたくしとレティシアの二人しかいない細い路地で、レティシアはひと息で大きな溜息をついてから、口を開いた。
「フェリシア。情報、来たわ。オリバー様、式典で、ミミ嬢の『最後の告白』を演出するつもりらしい」
「伺いましょう」
「内容は、例の、階段の件。ミミ嬢が壇上で、涙ながらに、『フェリシア様に階段から突き落とされかけた』と告白する。オリバー様が隣に立って、学則第四十七条を引き合いに、公衆の前で君に断罪を予告する」
「……さすがに、本気ですのね」
「本気よ。情報源は、剣術科の彼。控え室でオリバー様が誰かと算段しているのを、たまたま通りかかって、全部聞いたんですって。口の軽くない子だから、信用できる」
「剣術科の方は、本当に、こちらの力強い味方ですわね」
「いちばん味方にしたくなさそうな属性の子が、いちばん味方になってくれてるのよ。人生って、そういうものね」
レティシアは笑って、それから、声の温度を落とした。
「で、マニュアル写し、全員分、印刷は」
「あと少しで届くと、ギルドから連絡が参りましたの」
「うん。参列者の座席配置図は、わたしのほうで押さえてる。一人一人の席に、事前に、写しを挟みに行くのは、わたしの家の侍女たちの仕事にしたから」
「レティ、本当に、助かりますわ」
「あなた、『助かります』って、子供の頃から言い方が変わってないのよ」
「そうかしら」
「そうよ」
レティシアは、風で額にかかった髪を、軽く指で払ってから、もう一度、声を落とした。
「――フェリシア。今夜、殿下がいらっしゃるのでしょう」
「ええ。演説原稿の件で、ご相談を、と」
「徹夜になるわよ、たぶん」
「存じております」
「……」
「レティ?」
レティシアは、そこで珍しく、少しだけ言葉を探した。
「今夜、あなた、殿下を、ちゃんと見てあげてね」
「それは、どういう意味で」
「そのうち、わかるわ」
それだけ言うと、レティシアは先に、校舎裏の細い路地を、軽やかに抜けていった。
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夜、公爵邸の書斎。
殿下は、約束通り、時刻きっかりにお見えになった。脇に、分厚い書類の束と、予備のインクと、予備の万年筆まで抱えておられた。
「長丁場になるかもしれません。失礼のないように、最低限のものだけ、お持ちしました」
「万年筆の予備を、最低限と仰せになる方は、初めて拝見いたしますわ」
「過去に、会議の途中で、ペン先を破損した経験が」
「学ばれた後の装備ですのね」
「はい」
殿下は、いつもの少し困ったような眉の下げ方で、そう仰った。
書斎の机の上に、殿下の演説原稿の第一稿が広げられた。
わたくしは、原稿に目を通した。
格調は、高かった。文言の選び方は丁寧で、王族の公式演説として、無難である。無難なのだが、しかし、この原稿の弱点は、まさに、無難であるところだった。
「率直に申し上げて、よろしいでしょうか」
「お願いします」
「この原稿は、平時の演説としては、見事ですわ。けれど、明日、壇上で、どなたかが例の条文を引き合いに、断罪を仕掛けてくる場合、この原稿の流れでは、その断罪の流れに、殿下のお言葉がうっかりお力をお貸しすることになります」
「……どのあたりで」
「第三段落。『学園の秩序と、学生同士の信頼』を強調されている箇所。この言い回しは、断罪側の『秩序を乱した者がいる』という前提に、綺麗に背中を押すことになります」
「なるほど」
殿下は、赤い万年筆で、該当の段落に、二重線を引かれた。
「では、次」
「第五段落の、『学生の自発性』を評価されている部分。これはむしろ、残したほうがよろしゅうございます。『学生が自発的に記録を編纂する気風』を、王家が認めている、という補強として、明日の場で機能いたします」
「残す、と」
「はい」
わたくしたちは、少しずつ、原稿の上に、書き込みを重ねていった。
赤い線。青い線。消し込み。差し替え。余白に書かれた代替案。代替案の余白に書かれた、さらなる代替案。
時間が、いつの間にか、深夜の、ずいぶん奥のほうに、進んでいた。
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机の時計の針が、深夜のいちばん静かな位置を通り過ぎた頃、殿下は、それまで動かしていた手を、ふと止められた。
原稿用紙の、赤と青の書き込みを、しばらく眺めていらっしゃった。
「……フェリシア嬢」
「はい」
「書き直します」
殿下は静かに、そう仰った。
「段落の差し替えでは、流れが整わないように思います。全文、書き直します」
「……よろしいのですか」
「はい。どうせ、徹夜する、と決めてまいりましたので」
「徹夜する、と決めてお持ちになった装備の、本命は、この場面でございましたのね」
「そういうことになります」
殿下は、新しい原稿用紙を、机の上に置かれた。
そしてペンを取られた。
夜が、明けかけていた。
その瞬間の、殿下の、ペンの構えの姿勢を、わたくしは、たぶん、一生忘れない。
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白紙の原稿用紙に、殿下の字が、一行、一行、重ねられていった。わたくしは隣の席で、段落ごとに、確認役を務めた。文意の確認、用語の確認、そして、明日の場の流れへの耐久性の確認。
全文の書き直しが終わる頃には、空がほんのり青白くなり始めていた。
「……終わりました」
殿下は万年筆を置かれた。机の端に、殿下の指が、一度、軽く震えた、ような気がした。ご疲れの出し方は、殿下の場合、いつも、指先から来るのかもしれなかった。
「お茶、もう一度、いかが」
「いただきます」
わたくしは立ち上がろうとして、立ち上がりかけて、椅子の上に、座り直した。
体が、急に重くなった。
午後のレティシアとの打ち合わせから、ここまで、一度も、休んでいなかった。椅子に座っている間だけ、自分が立てると勘違いしていたらしい。
「……失礼」
わたくしはこめかみを、軽く指の腹で押した。
「大丈夫です」
殿下の声が、真横から、少しだけ低くなった。
「お借りして、かまいません」
わたくしは、意味が取れなかった。意味が取れないほど、疲れていた。
殿下は、ご自分の左の肩の、少し前のほうを、軽く指で示された。
「この、あたりです」
「……」
「長丁場の会議でも、合理的な休息は、作業の質を保ちます」
「合理、でございますか」
「合理です」
――……ああ、いつもの、合理だ。
そう思った瞬間、わたくしの頬の横の皮膚が、自分の意思とは別のところで、殿下の左肩の、少し前の、上衣の布地に、触れていた。
触れたあとのことは、覚えていない。
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目を覚ましたのは、遠くで、侍女が廊下を歩く足音が聞こえたときだった。
書斎の窓から、淡い、朝の色が差し込んでいた。
殿下は、わたくしの隣で、姿勢を変えずに座っておられた。ペンも、原稿用紙も、さきほどの位置に、きちんと残っていた。
「……殿下」
「はい」
「申し訳ございません」
「いえ」
「ずいぶんと、合理を通り越してしまいました」
「……通り越していません」
殿下は、それから、少しだけ間を置かれた。
間を置かれた後、殿下は、原稿用紙の束を、丁寧に揃えられた。
「フェリシア嬢」
「はい」
「明日の式典。……わたしの隣の席で、聞いてくださいませんか」
「隣の、席」
「はい」
わたくしは、殿下のお言葉の意味を、頭の中で一度、分類しようとした。
王族来賓席。隣席。公的儀礼における列席者の配置。殿下が明日、原稿の手直しに協力した者への、礼のお申し出。
分類は、できた。
できたのに、分類箱の中で、紙が、もう一度、変な角度で刺さった。
「……光栄ですわ」
「……そのお言葉、最近、多くなっていますね」
「他に使える語彙が、貴族社会では意外と少のうございますの」
殿下は、今日は、笑われなかった。
笑われないまま、書類を脇に抱えて、深く一礼をされてから、書斎を出ていかれた。
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殿下がお帰りになった後、わたくしは書斎に、もうしばらく残っていた。
机の端に、殿下が新しく書かれた原稿用紙の束が、きちんと揃えて置いてあった。夜通しの、赤と青の入った、ぼろぼろの第一稿は、殿下が丁寧に折り畳んで、別のほうに置いていかれていた。
「捨ててくださいまし」とわたくしは申し上げなかった。
殿下も「捨ててくれ」とは、仰らなかった。
朝の光が、折り畳まれた第一稿の、角のほうに、斜めに差していた。
わたくしは、手帳の、『第五章 卒業式典・公開断罪条項の運用』の頁を開いた。
『参列者への事前配布、モントレイク侯爵家経由、完了』
『記録魔導具の配置、ダニエル氏、完了』
『教会監査結果の、王家宛公式写し、到着確認』
『王太子殿下、傍聴者としてご出席、確認』
『カイル殿下、壇上演説、予定』
そして最後に、一行、追記した。
『カイル殿下の隣席。意味、未確定』
書き終えて、頁の上に、そっと、手を置いた。
窓の外で、夏のはじめの朝の光が、中庭の新緑を、透かし始めていた。
式典は、今日、開かれる。




