第7話 教会監査法廷、後援者消滅
「王子殿下も、お優しいのですね」
ミミ嬢が、涙の膜の残ったままの目で、そう微笑んだ瞬間。
カイル・ヴァルフォート殿下のお声が、氷になった。
「あなたのような生態には、優しくはありません」
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――その日の朝に、遡る。
教会の、奥まった講堂。
普段は祈りのために使われる高い天井の石の部屋が、今朝は別の用途のために、硬く整えられていた。壇上には、アーサー修道院長を中心に、教会の理事の方々が左右に。壇下には、被告席と、証人席と、記録席。
わたくしは父の代理として、最前列の証人席の、いちばん端に座っていた。
風が高窓の隙間から、時折、静かに入る。
入廷が告げられた。
ヴィオラ男爵夫人。
わたくしは、初めて、実物を拝見した。ご高齢の、育ちの良いご婦人である。背筋はまっすぐ伸びて、顔つきは穏やかで、育ちの良さが、まるで衣装のように、全身に馴染んでいる方だった。
こういう方が、人を騙す。
前世の広報の仕事で、何度か、こういう手合いを見た。穏やかで、品のある、善良そうな顔の奥に、極めて事務的な、こすい計算が、常時、走っているたぐいの方である。
「ヴィオラ男爵夫人。教会宛の寄付金のうち、当夫人の承認印により、本来の送金先と異なる口座に流出した金額、ならびに、その使途の不明点について、証言を求めます」
アーサー修道院長のお声は、高窓から入る風と同じ温度で、まっすぐ壇下に降りた。
夫人は、育ちの良い微笑のまま、小さく頷かれた。
「……わたくしの承認印を、悪しき者が勝手に、持ち出したのだと思います」
「持ち出し元は、どなたでしょう」
「存じません」
「承認印のお預かりを許されていた方は、お名前を、こちらに」
夫人は、一瞬だけ、沈黙した。
けれど、その沈黙はご高齢の方の、記憶の揺らぎの沈黙ではなかった。計算の沈黙だった。
「……亡くなった侍女の一人が、そのような不届きを」
「お亡くなりの方を、証人に立てることは、叶いませんが」
「……」
「夫人のご承認印、この数年分、全てに、御自筆のご承認の筆跡が明瞭にお残りでいらっしゃいます。亡くなったご侍女のご筆跡とは、一目で別人のものです」
修道院長が、机に、分厚い記録の束を、静かに積まれた。
夫人の顔から、育ちの良い微笑が、初めて、ほんの少しだけ剥がれた。
記録の束の上に、修道院長は、ゆっくりと手を置かれた。
「夫人。お名前をご自身で言っていただけませんか」
「……何のお名前を」
「流出先の、個人の名」
夫人は、答えなかった。
答えないかたちで、既に、答えは、空気の中にあった。
証人席の端で、わたくしは、右手の中指の腹を、親指で、一度だけ軽く押した。前世から続く、緊張のときの癖である。
癖を出すくらいには、わたくしも、緊張していた。
修道院長は、壇上からまっすぐ夫人を見て、仰った。
「ヴィオラ男爵夫人。教会の財産の、私的な流用。証拠、揃っております。ここまで明確に揃った事例は、近年、ほとんど出ておりません」
「……」
「後援者として名を貸されていたミミ・カーライル嬢、ご本人の件と、この件は、切り離して扱います。ただし、夫人ご本人の名誉と、男爵家の地位は、切り離しようがありません」
夫人の、育ちの良い皮膚の下で、何かが崩れる音を、わたくしは聞いた、ように思った。
「――ヴィオラ男爵家。以後、教会への関与の権を、剥奪します。本件は、王家にも報告される見込みです」
修道院長はそこまで仰って、書記官に目配せをされた。
書記官は記録の冊子に、一本、線を引いた。
静かな、短い、決定的な線だった。
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午後、学園の中庭。
事例集の件が王家外交部で正式に動き始めて以来、中庭の人の流れは、以前とは違う種類の緊張を帯びていた。誰も駆け寄らない。誰も噂を口に出さない。だから逆に、誰の動きも、よく見えた。
わたくしは、講義棟の窓から中庭を見下ろせる場所に、立っていた。
レティシアから、先刻、伝言があった。「東屋のあたりで、ミミ嬢が、動く」と。
理由は聞かなくてもわかった。午前の教会監査法廷の結果は、今ごろ、貴族街の中枢には届いている。ミミ嬢の耳にも、届いたはずだった。
後援者を失った人は、最後に、できることを、する。
――それが『駆け寄り』ではなくなっていることだけは、学んで欲しい。
そう思いながら、わたくしは、窓辺から動かなかった。
ちょうど、東屋のほうへ、濃紺の上衣の後ろ姿が歩いていくのが見えた。
カイル殿下。
いつもの「学園の研究生」の姿であった。殿下の手には書類の束。たぶん共著の資料の下書きか、あるいは別のご用事。ミミ嬢とは、本来、無関係の動きのはずだった。
けれど、ミミ嬢にとって、動く殿下の姿は、最後の藁だった。
わたくしは窓辺を離れ、中庭に降りた。
降りるときの足音は、できるだけ、立てなかった。物陰に身を置くのと、同席するのと、その間のような距離を、狙った。
東屋の手前の石の柱の陰で、わたくしは足を止めた。
殿下の背中は、ちょうど東屋の格子の前にあった。
ミミ嬢が、正面から、歩いてきていた。
「カイル殿下」
ミミ嬢のお声は、意外にも、涙声ではなかった。
今日の彼女の武器は、涙ではなかった。笑顔だった。
「お話を、少しだけ、よろしいでしょうか」
「お話の内容によります」
殿下は、振り向かれなかった。
「……わたくし、ご存じのとおり、ヴィオラ様のお世話になっておりました。けれど、ヴィオラ様のご不始末は、わたくしの存じ上げないところで起こったことです」
「そうですか」
「わたくし、これから新しく、どなたかのご庇護をいただかなければ、やっていけません」
「そうですか」
「……」
「他には」
殿下の「他には」は、完全に、事務的な口調だった。
ミミ嬢は、一瞬だけ、息を整えられた。息を整えてから、笑顔を、作り直された。
「殿下も、お優しいのですね」
殿下は、振り向かれた。
振り向かれた瞬間に、声が、氷になった。
「あなたのような生態には、優しくはありません」
「……え」
「記録は、充分に残しております。涙、笑顔、会話の組み立て、相手の表情の読み方、どれも、学園発の事例集の中に、固有名は伏せた上で、掲載されています。固有名を今日、入れるか入れないかの判断は、もう、教授会と王家の、別の場で行なわれています」
殿下のお声は、感情の温度ではなく、規格の温度だった。
「申し上げ難いのですが。優しさを演出すれば、相手の情に訴えられる、という前提は、あなたの扱いにおいて既に破綻しております」
ミミ嬢の顔から、笑顔が綺麗に剥がれ落ちた。
剥がれ落ちた顔は、わたくしがこれまで見てきたどの表情でもなかった。素の表情ではなく、演じる役を束、落としてしまった人の、無色の顔だった。
「……失礼、いたしました」
ミミ嬢は小さく頭を下げて、東屋を離れた。
殿下は、その背中を、見送られなかった。書類の束を抱え直して、反対側の棟へと歩いていかれた。
石の柱の陰で、わたくしは息を小さく整えた。
殿下は、お振り向きにならなかった。
わたくしに気づいて、いらっしゃらないはずは、ないのに。
――なるほど。
王族の、場の作法である。証人を作らないための、気遣い。合理的な配慮。
わたくしは、そのように分類しようとして、一瞬、失敗した。
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夕刻、公爵邸の書斎。
父の机の前に、わたくしと、レティシアが並んで座っていた。
「教会監査法廷、確定したね」
「はい」
「ミミ・カーライル嬢の後援が、正式に消えた」
「消えました」
「では、次の設計を、詰めよう」
父は、机の上に、学園の卒業式典の式次第を広げられた。
卒業式典は、学園の公式行事である。王族を含む来賓、教授陣、卒業生、在校生、貴族家門の代表者、全員が、式場に集う。
そして、式場には、一つ、古い条文が機能する余地がある。
「学園学則、第四十七条」
父は、式次第の余白に、鉛筆で、条文の番号だけを書かれた。
「『公衆の前で名誉を毀損された者は、同じ場で反証の機会を与えられる』」
「はい」
「オリバー・ハーヴァル伯爵令息は、この条文の存在を、理解しているかね」
「存じません」
「では、ミミ嬢は」
「存じません」
「では、ご両家の、家長は」
「存じません」
父は、小さく頷かれた。
「そういう条文である。よく知られていないほうが、機能する条文である」
レティシアが横から、少し呆れたように、口を挟んだ。
「フェリシア、あなた、まさかこの条文を、卒業式典で使うつもり?」
「使う、というよりは、向こうが使わせに来るはずですわ」
「……ああ、そうか。オリバー様側が、壇上で最後の賭けに出るのよね。その賭けに、この条文が、反撃の枠組みとして待っていると」
「レティ、察しが早うございますこと」
「付き合いが長いのよ」
父は、式次第の別の余白に、細かい書き込みをはじめられた。書き込みの内容は、参列者の配置、資料の配布時刻、証人の待機場所、記録魔導具の置き場、そして、想定される相手の手順と、その各段階での反証の順序だった。
わたくしの手帳の、『第四章 公的な場への案件移行』の頁が、そのまま、父の書き込みと、対になっていた。
レティシアは書斎の窓辺の椅子に座って、膝の上に手帳を広げていた。
「参列者への事前配布、わたしに任せて。わたしの家、印刷ギルドの、良いところをひとつ、掴んでいるのよ」
「助かりますわ」
「任せるって言ったら、任せなさいな」
父が一度だけ、小さく笑われた。
窓の外は、もう、春の夕方ではなく、夏のはじめの夕方だった。
式典までは、遠くない。
わたくしは、手帳の、新しい頁の見出しを、静かに書いた。
『第五章 卒業式典・公開断罪条項の運用』
頁の白さは、もう怖くはなかった。




