第6話 紅茶が三種
「お好みのものをどうぞ」
カイル殿下は、公爵邸の応接間の卓の上に、銀の盆を静かに置かれた。
盆の上には、ポットが三つ並んでいた。色も形も違うポット。それぞれ、立ち上る湯気の、香りが違う。
わたくしは、目の前のポットを見て、一瞬、言葉が喉に止まった。
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今週に入ってから、わたくしは連日、公爵邸の書斎と教会のあいだを往復していた。
教会監査部門の動きに、父が公爵家の名を貸してくださって以来、アーサー修道院長からの連絡が、ほぼ日ごとに届いていた。寄付台帳の原本照合、関係者の証言の整理、裏付け書類の相互確認。ヴィオラ男爵夫人の動きが外に漏れぬうちに、組み上げられるところまで組み上げる、という段取りである。
寝不足が、ここ数日、続いていた。
侍女長には、とうに気づかれていたらしい。朝の挨拶のときの目の奥の柔らかさが、少しだけ、変わっていた。
午後、書斎で書類をめくっていると、玄関から侍女の声がした。
「お嬢様、カイル殿下がお見えでいらっしゃいます。先日の、ご共著の資料の草稿をお持ちだそうで」
わたくしは万年筆を置いて、応接間に降りた。
応接間は西向きで、午後のこの時間は陽射しがやや強い。絨毯の緋色が、普段より少し平べったく見える時間帯だった。
「殿下。お出迎えに参りませんで、申し訳ございません」
「いえ。急にお伺いしたのは、こちらです」
殿下は、普段通りの濃紺の上衣で、脇に書類の束を抱えておられた。
そして、いつの間にか、銀の盆を片手に下げておられた。盆は、公爵邸の侍女が運ぶときの角度と、違った。殿下御自身でお持ちになっていた、ということだ。
「書類の前に、ひとつ。長居になるかもしれませんので、お茶を」
殿下はそう仰って、卓の上に盆を下ろされた。
「お好みのものをどうぞ」
わたくしは、ポットを一つひとつ見た。
――……
喉のあたりが、一度、きちんと、詰まった。
いちばん右のポットから立っていたのは、幼い頃、祖母のお屋敷でよく出された、あの、花の香りのするもの。
その隣は、春先になるとだけ公爵邸に仕入れられた、少し水色がかった葉の銘柄。わたくしが幼いころ、「お茶じゃないみたいな色」と言って、母を困らせた記憶がある。
そしていちばん左は――たしか、七つのとき、祖父の書斎で、内緒で一口いただいた、あの、深い焙煎の香り。もう口にしていなかった。飲んだことすら、忘れていた。
「……殿下」
「はい」
「これは」
殿下は少し困ったように眉を下げて、それから、まっすぐにわたくしを見て仰った。
「公爵令嬢がお好きな紅茶を、うかがって参りました」
「……どちらで」
「こちらのお屋敷の、料理長に」
わたくしは、その場で答えを失った。
公爵家の料理長は老齢の男で、わたくしが幼い頃から、公爵邸の台所を守っている人である。長いお務めのあいだで、口の軽くなったことは一度もない、と評判の人だった。殿下にわたくしの幼少期の好みをお伝えすることは、彼の職業倫理に照らして、かなり、特殊な出来事である。
「料理長が、殿下に、そのように」
「ええ。先日、書類の筆写官の選定でご相談に伺った折に、ついでに、お伺いしました」
「……ついでに」
「ついでに、です」
殿下は、ご自分の言葉に、少しも動揺をなさらなかった。まっすぐな眉が、まっすぐなまま、まっすぐに続いていた。
わたくしは、頭の中の本棚の、「ついで」と書いたラベルの棚のあたりで、一冊、変な角度で本が刺さっているような気分になった。
「……お気遣いを、頂戴いたしました」
「合理的なご配慮です」
「合理、でございますか」
「合理です」
わたくしは息を整えて、いちばん右のポットに手を伸ばした。花の香りの、祖母のお屋敷の紅茶。
指先がカップの縁に触れる前に、ほんの一瞬、手が止まった。止まったことに、わたくし自身が、少し驚いた。
――止めたのは、わたくしではない。
止めたのは、体のどこかで、名前のついていないなにかだった。
顔を上げると、殿下はこちらをご覧になっていた。
目が合って、殿下は少しだけ眉の角度を変えられた。
「……失礼しました。長旅の途中の船で、急に凪いだときの、あの感じに、少しだけ、似ていますね」
殿下が、珍しく、丁寧に言葉をお選びになった。
「船の、凪、でございますか」
「船の上では、凪ぐと、それまで漕いでいた者が、急に、自分の背中のあたりに、漕いでいた分の疲れを、まとめて置いていかれるそうです。海の上なのに、陸の重さが、一瞬だけ、背中に来る」
――ああ。
わたくしは、殿下のお話の意味を、静かに理解した。
いまのわたくしは、その陸の重さを、背中に受けていた。寝不足と、張り詰めていた日々と、仮面の内側の筋肉の、ずっと抜けていなかった緊張と、それが、いま、一度、ぜんぶ、背中に戻ってきたところだった。
わたくしはカップの縁から、いったん、指先を離した。
「殿下」
「はい」
「……案件処理の途中でないこの時間に、お相手いただけましたこと、先に、ありがとうございます、と申し上げたく」
「……はい」
殿下は、短く頷かれた。
応接間の窓の外で、庭の木の影が、静かに揺れていた。
わたくしはもう一度、いちばん右のポットに手を伸ばした。カップに注がれた紅茶の水面に、かすかな花の香りが、立ち上った。
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翌朝、教会の奥まった書斎で、アーサー修道院長が薄い手袋をして、古い寄付台帳を一冊ずつ繰っておられた。
アーサー修道院長は、小柄で、穏やかな老齢の方である。怒るところを見た者はいない、と教会の者は言うけれど、わたくしから見ると、それは怒らないのではなく、怒りを極めて静かな場所に置いてある人、という種類の方だった。
「フェリシア嬢」
「はい」
「ここ数年分、ヴィオラ男爵夫人の承認印のある寄付案件を、このとおり、再度、突き合わせました」
台帳がいくつか、綺麗に並べられていた。付箋があちこちに、色別に貼ってある。
「承認印の真贋ではなく、押された時期と、実際の資金の流出先の時期の、ずれを見ていただきたく」
「ずれ、でございますか」
「承認された寄付の、実際の送金が、記録された送金先ではなく、別の口座に入っている。その差額の使途が、追いきれない」
修道院長は、薄く微笑まれた。その微笑は、優しいけれど、氷の表面の艶と似ていた。
「教会の財を、私的に流用した、と、申し上げるに足る状態です」
「証拠は」
「このまま、もう少し突き合わせを続ければ、揃います」
「期限は」
「できれば、今月のうちに、教会監査法廷を開きたい。遅れれば、夫人に逃げ道を作らせる余地が生まれますので」
わたくしは頷いた。
「父の名を、必要なところでお使いくださってかまいません」
「既に、お借りしております」
修道院長は、丁寧に一礼された。
「ひとつ、お伺いしても」
「どうぞ」
「殿下は、ご存じですか」
「どちらの殿下のことでしょう」
「王太子殿下と、カイル殿下と、お二方です」
「ご存じです。昨日、カイル殿下が直接、書類を持ってお見えになりました」
修道院長は、少しだけ、目を細められた。
「……それは、また、足の速いことで」
「合理的なご配慮だと、殿下は仰っておいででした」
「合理」
「はい、合理です」
「そうですか」
修道院長は、それ以上、何も仰らなかった。仰らないまま、台帳のほうに、お戻りになった。
ただ一度だけ、修道院長の口元が、笑いの形に僅かに動いたように、わたくしには見えた。
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夜。自室の卓の前に、わたくしは一人で座っていた。
革装の手帳を開いて、案件分類表の頁を、繰っていた。
『第一章 前提』
『第二章 加害者陣営・接触型案件』
『第三章 偽造文書・記録運用』
『第四章 公的な場への案件移行』
どの章にも、一行一行、律儀に項目が並んでいる。わたくしの前世からの癖で、項目はすべて、案件と人物の二本立てで分類されていた。一つの人物が動くと、一つの案件として整理される。整理されれば、処理できる。処理できれば、感情は、背骨に戻る。
それが、わたくしの、生きてきた方法だった。
けれど、いま、ふと、手が止まった。
この手帳のどの章にも、カイル・ヴァルフォート殿下の項目が、ない。
正確には、項目を立てようとして、何度か、立てかけて、毎回、止まっていた。
殿下は、円卓会議で、事例集を公的に採用する動きの、中心におられる。王家外交部の資料の共同執筆者でもある。情報流通の立場としても、この国の政治構造の中でも、きわめて重要な人物である。
案件として分類する理由は、揃っている。
揃っているのに、手が、進まない。
止まっているのは、分類しようとすると、一つの事実が、邪魔になるからだった。
紅茶が、三種。
祖母のお屋敷の、花の香り。
幼いころ、母を困らせた、水色の葉。
祖父の書斎で、内緒で一口いただいた、深い焙煎。
どれも、わたくし自身が、忘れていた銘柄だった。
忘れていたものを、殿下は、料理長を通じて、取り戻してこられた。
「……この方は」
呟きは、自室の机の上の、小さなランプの明かりに、静かに溶けた。
「この方は、わたくしの『案件』には、できない」
呟いてから、わたくしは、手帳をそっと閉じた。
閉じるとき、頁の端に、前世紀の女性学者の書簡集の写しの、しおりの紐が、はみ出していた。
しおりは、今日の昼に、ふと挿しておいた場所に、まだ、そのままあった。
夜の窓の外で、風が、少しだけ、鳴った。




