第5話 円卓会議、王族まで届く
円卓の向こうで、王太子殿下が『この資料、外交部の研修に使わせてくれ』と微笑まれた。
微笑まれた、という言葉を、わたくしは前世を含めた人生で、こういう重さで使ったことがなかった。
場の空気が変わった。
きっちりと磨かれた円卓を囲んで座る教授陣の肩のあたりで、誰も息を継がない一拍があった。王太子殿下のお言葉の最後の一文字が、静けさの中で、ゆっくり落ちていった。
王太子殿下――レオンハルト・ヴァルフォート殿下。カイル殿下の御兄上。
今、円卓の向こうで、『ミミ嬢関連事例集』を両手で、きちんと、お持ちでいらっしゃった。
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そもそも、その場にわたくしが呼ばれていたこと自体が、妙な話だった。
先週、公爵邸に届いた円卓会議の招待状には、「王族より御一名、傍聴者として」と書かれていた。
「御一名」であり、「傍聴者」であるはずだった。
けれど、当日の円卓会議室に足を踏み入れたとき、上座には、王太子殿下と、そのすぐ隣のカイル殿下のお二方が、既に着席されていた。
「傍聴者」と言うには、少し、能動的な座位であった。
「お待たせをいたしました」
わたくしは教授会の書記官に案内されるまま、円卓の一席に座った。
席は、珍しい椅子だった。
普通の円卓会議用のものではない。背もたれの高さと座面の深さが、わたくしの身長と歩幅に、奇妙にぴたりと合っていた。
円卓会議用の椅子の規格としては、聞いたことがなかった。
視線を上げると、真向かいからわずかに外れた席で、カイル殿下が、ごく控えめに頭を下げられた。
視線の意味は、たぶん「お気遣いなく」である。
わたくしはその視線を、「王族の場の作法」と分類した。前回、学食で殿下が割り込みをお止めくださった場面と、同じ分類箱に。
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会議の本題は、あっさりと始まった。
「女子生徒の情報管理に関する教育資料、ならびに、その運用について、議論を行ないます」
議長を務めるイヴォンヌ教授が、よく通る声で宣言した。各教授の前に、『ミミ嬢関連事例集』の写しが、一部ずつ、静かに置かれていく。
王太子殿下のお手元に置かれた写しは、他のものより装丁が丁寧に見えた。気のせいかもしれない。
「この事例集は、学生が自発的に編纂したものにございます。目撃情報の採集の精度、反証可能性の担保、見出しの立て方、これらが学術論文の下書きに近い構造を持っております。教材としての有用性を、本日、ご議論いただきたく」
教授陣が、順に、頁をめくりはじめた。
わたくしは自分の前に置かれた写しに、手を触れなかった。読むまでもない。中身は、わたくしを含む学園中の人間たちが、それぞれの位置から寄せ集めた記録である。そこにわたくしの手の痕跡はない。それでも、わたくしの背骨の真横を通っている書類だった。
一人の教授が、頁の途中でふと顔を上げた。
「……これは、証人の属性を、出身家別に、ここまで丁寧に並べているのですね」
「ええ」
「それも、利害相反の可能性がある家、関係のない家、反対の派閥の家、と、属性ごとに」
「はい。編纂責任者の下級生方が、自発的にそのように並べたそうにございます」
「……自発的に?」
教授は、ひそやかに、隣の教授と目配せをした。
王太子殿下が、頁をめくる手を一度止められた。そして、小さく笑われてから、先ほどのお言葉を、円卓の空気に落とされた。
「この資料、外交部の研修に使わせてくれ」
微笑みに、お世辞の温度はなかった。
円卓の一拍の静寂が、そこで、あった。
「……王太子殿下」
イヴォンヌ教授が、珍しく、声の抑揚を一つ崩された。
「正式な採用のお話として、承ってもよろしゅうございますか」
「正式で構わない。細目は後ほど内閣府と詰めよう」
王太子殿下は穏やかに頷かれた。それから、隣のカイル殿下のほうに、ほんのわずかだけ、視線を流された。
カイル殿下は、一切、表情を動かされなかった。
――なるほど。
わたくしは頭の中の本棚で、政治と書いたラベルの棚のあたりで、一冊、位置を動かした。
これは、政治的利用であった。王族が、学園発の資料を、自分たちの制度に組み込むことで、資料の性格を確定させる。発信源は学生。採用は王族。中立性は保たれる。そしてこの資料の中で、誰の人間性がどのように扱われているかは、王家の公式記録に組み込まれた形で、永く残る。
――きれいな線の引き方だ。
わたくしは、その線の美しさに、一瞬、素直に見惚れた。
見惚れたあとで、引っかかりが一つ、残った。
――なぜ、王太子殿下がここまで、お動きになるのだろう。
問いを、わたくしは政治的合理性という太い柱に、素直に寄りかからせた。寄りかからせたが、消えてはいなかった。前回と、同じ癖である。
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会議の終わり際、議長のイヴォンヌ教授が、少し場違いに、小さな声を机の端に落とした。
「……ところで、少し、話が逸れますけれど」
「どうぞ、教授」
王太子殿下がおおらかに頷かれる。
「先日、教会の経理監査部門の知人から、妙な報告を耳にいたしまして。寄付金の管理記録が、この数ヶ月、少し、流れが怪しい、と」
「ほう」
「名前までは、わたくしは存じ上げないのです。ただ、管理者の一人として、元王家侍女長の、ご高齢のご婦人が、おいでになるそうで」
円卓の教授のうちの二人が、顔を上げた。
「ヴィオラ男爵夫人、かしら」
「名前までは、わたくしは存じませんけれど」
イヴォンヌ教授は、丁寧にその名前を避けた。
けれど、円卓の上に、名前は、もう、置かれていた。
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会議が閉じて、教授陣が退出していく列の、少し後ろで、わたくしはカイル殿下と肩を並べる形になった。
「殿下」
「はい」
「椅子、ありがとうございました」
「……お気づきでしたか」
「規格外の椅子でしたもの」
殿下は少し困ったように眉を下げて、それから、まっすぐに前を見ながら答えられた。
「会議の席は長くなることがございます。体力は判断力の源ですから」
「合理的なお気遣いですわ」
「合理です」
「……」
回廊の窓の外で、中庭の桜の枝が風に揺れていた。花はもう終わり、若葉の緑が、日ごとに濃くなっていく季節だった。
殿下は、少しだけ歩調を落とされた。
「ひとつ、お話をしてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「次の資料。……ご一緒に、お作りしませんか」
わたくしは半歩遅れて、殿下の横顔を見た。
「次の資料、と仰せになりますと」
「今日の事例集は、学生発の資料です。けれど、学生発の資料は、学生の目線の限界を持ちます。王家の外交部が扱うとなると、もう少し、公的な場での危機管理手順に寄せた、整えた形の資料が必要になります」
「つまり、事例集の改訂版、ということでございますか」
「整理し直し、です。執筆者はあなた。監修者はわたし、もしくは外交部の実務官」
殿下のお声は、あいかわらず、お世辞の温度がなかった。
「光栄、でございますわ」
「そのお言葉、最近、多くなっていますね」
「他に使える語彙が、貴族社会では意外と少のうございますの」
殿下は、珍しく、声を出してお笑いになった。
笑い方が、教授会の円卓での沈黙と、全く別の人物のもののようだった。
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公爵邸に戻ると、父はすでに書斎におられた。
円卓会議の様子は、もう、耳に入っているご様子だった。
「王太子殿下が、外交部での採用を、その場で明言されたとか」
「はい」
「それと、ヴィオラ男爵夫人、とも」
「名前は、円卓では、はっきり出ておりませんの。教授会側は、丁寧に迂回をなさっておられました」
「迂回した、という情報自体が、情報になっている」
父は細い眼鏡を外して、机に置いた。
「フェリシア」
「はい」
「お前はもう、自分で場を設計する段階を越えた」
「……と、申しますと」
「場が、お前のために、自ら、動き始めている」
わたくしは、父の言葉を、胸の内に静かに置いた。
机の端に、イヴォンヌ教授から頂戴した、前世紀の女性学者の書簡集の写しが、今日も載っていた。父はそちらを見てから、少しだけ穏やかに微笑まれた。
「その本、いい選書だ」
「教授のお見立てですわ」
「ご自分の選書だよ、お前の」
「……」
父は机に肘をついて、しばらく暖炉の火を見ておられた。
「――ヴィオラ男爵夫人。ミミ・カーライル嬢の後援者。教会寄付の流用」
父の声は、柱時計の振れに合わせるように、低く、ゆっくりと落ちた。
「これは、事例集とは別の、もう一本の縦糸になる」
窓の外で、春の終わりの風が、少しだけ、鳴った。




