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勘違い令嬢が悪役令嬢に駆け寄ってくる際の最適解  作者: 秋月 もみじ


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第4話 ミミ嬢事例集の流通


「フェリシア様。昨日の中庭の件、記録させていただきました」


朝の寮の談話室。見知らぬ下級生の令嬢が、丁寧な礼とともにそう告げてきた。


「……記録、と仰せになりますと?」


「はい。新しい版の『ミミ嬢関連事例集』に、ちょうど昨日の記述欄がございまして。フェリシア様が西棟をお通りになられたのが午後二時ごろ、お戻りが三時ごろ、途中で東屋付近に物音はなく、食堂棟にはお入りになっていない、という内容で、間違いはございませんでしょうか」


令嬢はきちんとした姿勢で、手元の薄い冊子のようなものを開いた。表紙には手書きで『ミミ嬢関連事例集』。


わたくしは、しばらく無言だった。


無言のあいだに、本棚が一冊、勝手に並んでいくような音が、どこかで鳴っていた。


「……正しく、ございますわ」


「ありがとうございます。では、確認欄に一言、頂戴してもよろしゅうございますか」


「書きますわ」


令嬢は嬉しそうに冊子を差し出した。確認欄に簡単な署名を入れて返すと、彼女は深く礼をして、談話室を去っていった。


茶器の前で、レティシアが肘をついたまま、天井を見上げていた。


「……フェリシア」


「はい」


「あなた、本当に何もしてないのよね?」


「何もしておりませんわ」


「そうよね。こういうのは、あなた、やるときはもっと音もなくやるものね」


「誉め言葉と受け取っておきますわ」


「違うのよ」


「では、今後の参考に」


「それも違うの」


レティシアはカップを両手で包みながら、少し声を落とした。


「筆跡鑑定の件、噂では、もう貴族街の隅まで届いてるわよ。『フェリシア嬢の筆跡を真似た紙が出回った。しかも王宮付きの鑑定官が否定した』って」


「父が手を回してくださいましたの」


「公爵様が動いたのよね。フェリシアが動いたんじゃなくて」


「形式上は、そうなりますわね」


「形式上は、って、あなた」


レティシアは呆れたように笑って、机の上の冊子に目を戻した。レティシアのところにも、同じ装丁の『ミミ嬢関連事例集』が朝のうちに届いていた。


「これね、出どころは講堂裏の本好きサークルらしいの」


「本好き、のサークルでございますの」


「ええ。編纂責任者は、下級生の令嬢が二人と、普通科の男子が一人。どのご家も、公爵家とは縁がない家よ。あなたの側から何もしてないのは、わたしには、わかるの」


「存じ上げない方々ですわ」


「でしょうね。――あなた、自分で気づいてる? 何もしていないのに、あなたの敷いた線の上を、人が勝手に歩いているのよ」


わたくしは少しのあいだ、レティシアの言葉を咀嚼してから、静かに答えた。


「線を敷いたつもりは、ございませんの」


「そこが怖いって言ってるのよ」


「誉め言葉と受け取っておきますわ」


「違うのよ」


-----


学食の昼時は、いつもと同じ音がしていた。食器が触れ合う音、水差しを行き来させる音、誰かの笑い声。いつもと同じだということが、この日は少しだけ不自然だった。


わたくしは窓際の席で、レティシアと、同学年の伯爵令嬢と、共に昼食を取っていた。


窓の向こうで、学園の噴水が水を上げている。いつもの噴水。いつもの水の音。


「――それで、ミミ嬢の件、これからどうなさるおつもりですの」


伯爵令嬢の声は、抑えられていた。気を遣ってくださっているのがわかった。


「特別なことはいたしませんわ。わたくしは、ただ、」


「それ、違うと思うぞ」


背後から、大きな声が割り込んできた。


同学年の普通科の男子生徒。よく自分の話をする彼。わたくしがまだ最後まで言い切っていないうちに、被せるように話し始めた。


「フェリシア嬢、君はもう少しミミ嬢に歩み寄るべきだ。君は公爵令嬢だ。立場が違う。誤解も生まれる。その辺を――」


「――そこまでになさい」


割り込んできた声に、さらに静かな声が、横から二つ目の割り込みを入れた。


声の方を見ると、少し離れた席で、濃紺の上衣の男子生徒が一人で食事をしていた。


銀縁の眼鏡。


カイル・ヴァルフォート殿下。


――本日は、また「学園の研究生」でいらっしゃるのね。


殿下は食事の手をいったん止めて、男子生徒のほうを見ていた。視線だけで押していた。


「彼女のお話を最後までお聞きなさい。途中で切るのは、彼女の問題ではなく、あなたの問題です」


声は大きくなかった。静かで、低くて、薄く切れ味があった。


男子生徒は言葉に詰まって、何か言い返そうとして、言い返す言葉を見つけられずに、結局、頭を掻いてから席に戻った。


学食の空気が一瞬、滑らかになった。


殿下は食事に戻る前に、わたくしのほうをちらりと見た。目が合って、軽く会釈をされた。


わたくしも、一礼を返した。


隣でレティシアが、カップの縁に口をつけたまま、小さく呟いた。


「……フェリシア」


「はい」


「あれ、王族の場の作法?」


「ええ、そうでしょう」


「そうかしらね」


「そうでしょう」


「……そうかしらね」


レティシアはそれ以上、何も言わなかった。


-----


午後、教授棟の一室。


イヴォンヌ教授は、窓辺の書棚の整理をしながら、わたくしを迎え入れた。書棚には古い書類の束と、女子向け教本の試作版と、製本されたばかりの革表紙の冊子が、雑多に積まれている。


「フェリシアさん。お呼びだてしてしまって、ごめんなさいね」


「いえ。こちらこそ、ご足労を」


「これ、見たことがある?」


教授は、書棚の中段から一冊を取り出して、机の上に置いた。


『ミミ嬢関連事例集』。表紙は粗末な革装だが、中身は丁寧に綴じられている。


「……ございますわ。今朝、確認依頼を頂戴いたしました」


「あら、もう来たの。早いわね」


教授は可笑しそうに肩を揺らして、茶を注いでくれた。


「学生が自発的に編纂したのよ。わたくし、思わず取り上げて読んでしまってね。――これね、仕上がりとして、なかなか良いの」


「良い、と仰せになりますと」


「目撃情報の採集の仕方、反証可能性の担保の仕方、それから見出しの立て方。学術論文の下書きの書き方と、構造が驚くほど似ているの。だからね、わたくし、これを女子教育の教材に採用したいと考えているのよ」


わたくしは、茶を口元に運ぶ手を、一度止めた。


「……教材、でございますか」


「そう。女子の論理教育は、この国では長らく、感情の制御のほうに寄りすぎていたから。女子がここまで丁寧に事実を並べて、丁寧に相手の主張の穴を突いて、しかも丁寧に怒らない――こういう事例集はね、教材として、とても貴重なのよ」


教授は少し声を落として、それから、きっぱりと言い切った。


「手本を、見せてほしいの」


わたくしは、短いあいだ、言葉を探した。探して、結局、一礼を一つお返しした。


「光栄ですわ」


「ふふ。あなた、光栄という言葉を、随分と多用するわね」


「他に使える語彙が、貴族社会では意外と少のうございますの」


教授は声を上げて笑った。その笑い方は、社交界のどの笑い方とも似ていなかった。


帰り際、教授は書棚の隅から薄い本を取り出して、わたくしに手渡した。


「これ、前世紀の女性学者の書簡集の写し。暇なときに、ぱらぱらとね」


「……よろしいのですか」


「手本を見せてほしいと言ったでしょう。手本を見せる側にも、やっぱり、手本は要るのよ」


わたくしは深く礼をした。書棚の窓から、夕方の気配が入り始めていた。


-----


夕刻、公爵邸に戻ると、玄関のサイドボードの上に、一通の封書が乗っていた。


金色の箔で縁取られた、学園の教授会印の押された封筒。


わたくしは封を開けた。


『公爵令嬢フェリシア・ヴェルティーゼ殿

 来週、教授会主催にて、円卓会議を催す運びとなりました。議題は、学園内の情報管理、および女子生徒の教育資料について。

 貴殿のご出席を、強くお願い申し上げます。

 なお、当日は、王族より御一名、傍聴者としてご同席の予定がございます。

      イヴォンヌ・ミラー教授 他』


わたくしは一度、手紙から目を離した。


それから、もう一度読んだ。


「……王族」


独り言が、玄関の大理石の床に、ひそやかに落ちた。


教授会主催の円卓会議。学園内の情報管理の議題。そして王族の傍聴。


夕刻の光が、玄関の大きな姿見に反射していた。姿見の中のわたくしの表情は、珍しく、案件分類表のどの引き出しにも収まっていなかった。


頭の中の本棚が、また一段、勝手に並び直そうとしている音がした。


わたくしは手帳の、新しい頁を、そっと開いた。


『第四章 公的な場への案件移行について』


頁の白さが、こういう夕刻の時間には、少しだけ怖かった。

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