第3話 筆跡鑑定と正式訪問
筆跡鑑定の依頼書を書きながら、わたくしは昨日の「研究生」について考えていた。
銀縁の眼鏡。控えめな袖の紋章。距離の取り方の洗練。
研究生、と本人は名乗った。正確には「似たようなものです」と言った。いちばん怪しい答えだった。
けれど、あの手帳を「写させてください」と言ったときの声の、お世辞の温度のなさ。――そこにだけは、妙な手応えが残っていた。
「お嬢様、旦那様がお呼びでございます」
廊下から侍女の声。わたくしは万年筆を置いて立ち上がった。
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公爵邸の書斎は、朝の光が机に真っ直ぐ落ちる部屋である。
父オーウェン・ヴェルティーゼ公爵はこの部屋で書類仕事をするときだけ、珍しく沈黙を好む。雑談は応接室で考え事はこの机で、という使い分けの人だった。わたくしが幼い頃から変わらない。
「入りなさい」
扉を半分だけ開けて声をかけると、父は書類から顔を上げた。細い金属縁の眼鏡越しに、そつなく微笑む。
「昨日、図書館で妙なものを拾ったそうだね」
「お耳が早うございますこと」
「侍女たちの耳の早さに敵うものはない」
わたくしは机の前の椅子に腰を下ろして、例の紙片を机に置いた。父は紙を光にかざし、端を少し折り、それからもう一度広げた。
「筆跡は、お前のに似ているな」
「けれど、わたくしのものではございません」
「わかっている」
父はそう言って、紙を机の中央にそっと置いた。
「理由は」
「紙の質が、公爵家のものとは縦糸の走り方が違います。インクの沈みも。それから、わたくしは『少し』という副詞を、手紙ではこれほど平たく使いませんわ」
「最後のが一番決定的だな」
父は小さく笑った。面白がっている顔ではない。把握の速さを、品よく娘に返してくるときの、あの顔である。
「鑑定に回す」
「お願いいたします」
「もうひとつ、言っておこう。お前の仕事に、わたしの名を出して構わないよ」
「それは、公爵家の名をお借りする、という意味でよろしゅうございますか」
「そういう意味だ」
わたくしは一礼した。父は書類に目を戻すふりをしてから、ついでのような声で付け加えた。
「それと、今日の夕刻、客が来る」
「お客様、ですか」
「正式な手順で話を通してきた。ヴェルティーゼ家の門をくぐるのにあの手順を踏む必要のある相手は、そう多くない」
父は、それ以上は言わなかった。
言わないことの意味を、わたくしは小さく噛んだ。
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学園の西棟の廊下は、午後の講義の合間だけ、人の密度が少し薄くなる。わたくしが一人で歩ける僅かな時間だった。
その時間をピンポイントで狙われた。
「フェリシア」
背後から声。オリバー・ハーヴァル伯爵令息。昨日はミミ嬢を伴っていたが、今日は一人だった。
「オリバー様」
「少し、話を」
「存じております。講義の合間は短うございますので、手短に伺いますわ」
「……昨日、中庭で君に会った者がいる。ミミ嬢を冷たく扱ったそうだな」
「そうでしたか」
「そうでしたか、ではない」
「手短に、とお願いいたしましたが」
わたくしは立ち止まらずに歩き続けた。歩調を変えないのが、こういう時のいちばん穏やかな武装である。
オリバー様は半歩後ろを歩きながら、言葉を探している。彼の焦りの出し方を、わたくしは幼い頃から知っていた。婚約者として過ごしてきた時間の、副産物のようなものだ。
「ミミ嬢が動揺していた。君の言葉がひどく冷たかったと」
「わたくしの言葉、と仰せになる以上、具体的にどのような言葉であったか、お聞き及びでございましょう」
「それは――」
「いかがでしょう」
「……具体的には、聞いていない。ただ、彼女の表情が」
「表情、ですか」
「ああ」
「そうでしたか」
わたくしは歩調を変えなかった。歩幅も、声の高さも、視線の角度も、昨日までと同じ。
けれどオリバー様は、自分の言葉が廊下の床に落ちていく音を、たぶん聞いていた。
廊下の角で、わたくしは一度だけ立ち止まって振り向いた。
「わたくし、今朝、父に報告を上げましたの。中庭の件と、その後に図書館で拾ったものと」
「……拾ったもの?」
「ご存じございませんのね」
「何の話だ」
「では、本当にご存じないのでしょう」
わたくしは軽く頭を下げて、そのまま講義棟へと曲がった。
背後で、オリバー様の足音が、一拍遅れて止まった。
――ご存じなかったにしても、ご存じだったにしても、どちらも記録には残る。
歩きながら、手帳の新しい頁にそっと書き足した。
『再接触の例。初期情報の有無を、本人に確認させた上で、本人の表情を、証人の代わりに記憶する』
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夕刻。公爵邸の応接間は、西向きの窓から差し込む光が、絨毯の緋色をいつもより深くしていた。
「お嬢様、お客様がお見えでございます」
侍女長が扉の前で告げた。正式な名乗りで告げた。
「ヴァルフォート王国第二王子、カイル・ヴァルフォート殿下、お一人でお越しでいらっしゃいます」
わたくしは応接間の椅子から、きちんと立ち上がった。
立ち上がる間に、頭の中の本棚が、音もなく一段繰り上がった。
昨日、「カイル・ヴァル」と名乗った、あの研究生。
姓を最後まで言えない事情。簡素すぎる袖の紋章。距離感の洗練。すべてが、ひとつの名前にするりと嵌まっていく。
――なるほど。嵌まるものですのね。
扉が開いて、カイル・ヴァルフォート殿下は、昨日と同じ濃紺の上衣で入ってきた。今日はそこに、ごく控えめな意匠の略綬が添えられている。昨日は取り外していたのだろう。
「ヴェルティーゼ公爵。公爵令嬢。本日は急なお運びを、失礼いたしました」
父が先に立って礼を受け、わたくしもそれに倣った。
「殿下。お見苦しきものでなければ、茶を」
「頂戴いたします」
応接間の空気が、貴族の作法の速度で整っていく。侍女たちが音もなく茶器を並べ、父が向かいの椅子を殿下にすすめ、殿下が座り、父が座り、最後にわたくしが座る。
――申し遅れましたが、と殿下は静かに切り出した。
「昨日、中庭でお目にかかりました折、姓を最後まで名乗れませんでした。隠す意図はなかったのですが、『ヴァル』までで切るのが、学園でのわたしの慣習になっておりまして」
「存じませんで、失礼をいたしました」
「いえ。隠していたのは、こちらです」
殿下は軽く頭を下げた。
その頭の下げ方は、昨日と同じ角度だった。貴族の作法にも王族の作法にも属していない、たぶん彼自身の角度。
父が静かに口を開いた。
「殿下。本日のご用件を、改めて」
「はい」
殿下は一度、ひそやかに息を整えた。
「公爵令嬢が作成されておいでの手帳。記録の型として、極めてよくできております。王家の外交部で危機管理の手引きを整備する構想がございまして、その参考にさせていただきたく」
「外交部、でございますか」
「まだ内々の構想です。正式な委託とは申しません。ただ、記録の型を拝見したく、写しをお借りできれば、と」
「それと」
殿下はわずかに声を落とした。
「ひとつ、お詫びを兼ねたお願いがございます。お嬢様の筆跡の見本を、頂戴できませんでしょうか」
父の視線が、ほんの僅かだけ、わたくしの方に傾いた。
「筆跡の、見本でございますか」
「はい。記録の複製を取る際、原文の筆跡の癖を外に流出させぬよう、専門の筆写官に任せる必要がございます。その筆写官に、『公爵令嬢の筆跡はこういうものである』と、事前にお示ししておく慣例でして」
――なるほど。業務手順である。
わたくしは頭の中で、素早く了解した。
王家の筆写官が、書き写した複製に、複製者本人の癖が染み出ることを避ける。それは確かに、記録複製の現場でよくある工程だった。前世でも、機密資料の複製ではよく似た気遣いをしたものである。
「承知いたしました」
「お手数をおかけします」
「いえ。記録の型をご評価いただけましたこと、光栄ですわ」
殿下は、今日いちばん深く頭を下げた。
昨日と、ほとんど同じ角度で。
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殿下を門までお見送りしてから、わたくしは応接間に戻り、侍女の持ってきた新しい紙束の前に腰を下ろした。
筆跡の見本。
何を書けばよいか、と一瞬迷って、結局、学園の講義で書き慣れた文体のものと、家計書類の走り書きに近いものと、手紙の時の丁寧書きと、いくつかの文体を並べて書いた。
書き終えて、束を整えている途中で、一瞬、手が止まった。
殿下は、何にお使いになるのだろう。
業務手順。筆写官への参考資料。外部流出の防止。
どれも、筋は通っている。通っているのに、頁を閉じる間際、心のすみの整理棚の、いちばん浅い段に、小さな疑問符が転がり出た。
――それだけ、でしょうか。
わたくしは軽く頭を振って、疑問符をそのままそこに置いた。
案件処理の手を止めるには、根拠が薄すぎる。
夕闇が、書斎の窓のそばの木の影を、いつもより長く伸ばしていた。
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翌朝。ヴェルティーゼ家の執務室に、王宮付の鑑定官から書状が届いた。
『当該文書、公爵令嬢フェリシア・ヴェルティーゼ嬢の筆跡にあらず。極めて精巧な模倣。特に「少」の字の右下の払いの角度に、本人筆跡と差異あり』
わたくしは書状を読み終えて、革装の手帳を開いた。
第三章の頁に、鑑定結果の写しを挟む。挟みながら、昨夕、殿下にお渡しした筆跡見本の束のことを、ふと思い出した。
――殿下は、どうして、わたくしの筆跡の見本を所望なさったのでしょう。
業務上の必要がある。理由ははっきりしている。
それなのに、心のどこかで、疑問符はまだ片付かずにいた。
朝の光が、机の上の鑑定結果の紙を、まっすぐに照らしている。




