第2話 マニュアル第三章第二項
ヒロイン(自称)が泣きながら、こちらへ駆け寄ってくる。
正午を少し過ぎた中庭。日差しは柔らかく、薔薇の蕾はまだ固い季節である。東屋の白い格子に蔦が絡みかけていて、その蔦の若い葉のほうを、さっきからわたくしは眺めていた。
東屋の椅子で、友人レティシア・モントレイクと茶を飲んでいる最中だった。
だから、向こうから走ってくる少女の姿は幸いなことに、まっすぐ視界に入っていた。
「フェリシア様っ……!」
泣きながら足をもつれさせながら、それでいて不思議と転ばない程度に調整された歩幅で、ミミ・カーライル子爵令嬢は駆けてくる。襟元のリボンが本人の涙とは無関係な角度で美しく翻っていた。
隣でレティシアが、ティーカップを静かに置いた。
「フェリシア、来たわよ」
「参りましたわね」
わたくしは手元の革装の手帳を、片手でそっと開いた。昨晩、就寝前に書き加えたばかりの項目。
『第三章 接触型案件』
『第二項 泣きながら駆け寄る対象への対処』
一、相手と物理的距離を保つこと。触れさせないこと。触れさせた瞬間、痣のひとつも自作される。
二、居合わせた者を証人として確保すること。利害関係のない第三者が望ましい。
三、記録魔導具を起動すること。映像が無理であれば音声だけでも良い。
……まさか翌日に使う羽目になるとは思っていなかった項目である。
「レティ、申し訳ないのですが、このまま席を立たずにいてくださいまし。あなたの目が必要ですの」
「ええ。動かない」
レティは短く頷いて、ティーカップを両手で包んだ。視線はミミ嬢の足元にまっすぐ据えられている。仕事が早い。
わたくしは椅子から立ち上がり、東屋の入口の柱に身を寄せた。これで、ミミ嬢がわたくしに触れるためには柱を半周回り込む必要が生じる。
その半呼吸の遅延が、欲しい。
「フェリシア様、どうしてっ……どうしてあんなこと……っ」
「どうされました、ミミ嬢」
わたくしは穏やかに相手を呼び止めた。呼び止められた相手は、呼び止められたことに気づかないふりをして、さらに距離を詰めようとする。
「触らないでいただけますか。お話はきちんと伺いますので」
柔らかく、けれど刃の通らない声で。
ミミ嬢は、縋ろうと伸ばした手を宙で止めた。泣き声が一瞬途切れ、それからもう一度、慌てて始まる。
――音階、合っておりませんわよ。
内心のみ、冷ややかに評価した。
「フェリシア様が朝、わたしのお茶に……っ……あんな、ひどいものを……」
ミミ嬢はしゃくり上げる。声は震えている。けれど視線は、わたくしの左右と後方の気配を正確に探っていた。観客を探している、あの視線。
残念ながら、観客はまだ到着していない。
「朝のお茶、とおっしゃいますと、どちらで」
「食堂、で……」
「今朝の食堂、何時頃のお話でしょう」
「あ……朝の、あの、朝食の……」
「朝食のお時間、ミミ嬢はどの席でしたか」
「……え」
「わたくしは今朝、朝食を公爵邸で済ませて参りましたの。登園の記録は正門にございます。食堂には入っておりません」
穏やかに、事実だけを並べた。告発するつもりはない。ただ事実は事実として、この場に並べておく。
ミミ嬢の瞳に、ごく短い沈黙が落ちた。
その沈黙を、左右から静かに埋めてきた声があった。
「――フェリシア様は、今朝、正門で侍女の方とお別れされるのを拝見しましたわ」
穏やかな声の主は、同学年の伯爵令嬢。レティの茶会にも顔を出す方である。
「わたくしも見ました。フェリシア様、そのあと西棟の廊下を歩いておられて、食堂の方角ではございませんでしたわ」
続いたのは下級生の男爵令嬢。よく廊下に居る少女だ。
「俺も見たな。東棟の柱のあたりで、御者と挨拶を交わしておられた」
剣術科の男子生徒。彼は思ったことを思ったまま言う癖がある。今それは、とても有難い性質だった。
証言は自然に集まった。集めようとしたわけではない。事実が事実であるとき、見ていた人間は、どこかに必ずいる。
ミミ嬢の表情が、初めて台本から外れた顔になった。
「あ、あの、わたし、誰か、別の方と、見間違えて……」
「そうでしょうか」
「多分、そう、そうなんです、ごめんなさい、わたし、最近、頭が……」
「体調がお悪いのでしたら、医務室までお送りいたしましょうか」
「いえ、あの、大丈夫ですから、大丈夫、ですから」
ミミ嬢はじりじりと後ずさった。下がりながら、どこかに視線を投げている。期待していた観客――おそらくオリバー様――が現れなかったことの確認であった。
――今日は、配置をお間違えになりましたのね。
わたくしはそっとポケットに手を入れた。指先が、昨晩ダニエルから受け取ったばかりの銀色の円筒に触れる。煙草入れほどの大きさの、改良版の記録魔導具。
起動は、会話の前に済ませてあった。
ミミ嬢は一度ぎこちなく礼をして、来たときとは違い、今度は転ばない程度の歩幅で去っていった。
残されたわたくしたちは、しばらく何も言わなかった。
レティシアが、ようやくティーカップを口元に運んだ。
「……フェリシア、あなた、怖い」
「誉め言葉と受け取っておきますわ」
「違うわよ」
「では今後の参考に」
「それも違うの」
春の風が東屋の蔦を揺らした。絡みきれずに垂れている若い葉が、ひとひら。物語とは関係のない季節の小さな色というものは、こういう日の記憶にだけ、なぜか妙にはっきりと残る。
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レティシアが先に茶器を片付けて、午後の講義へと去っていった。わたくしは東屋に残って、手帳の頁を繰っていた。今しがたの証言を、具体名と時刻と場所別に整理している。
記録は、整理されて初めて記録になる。
そのとき、東屋の奥の砂利が、かすかな足音を立てた。
顔を上げると、少し離れた木立の陰に、男子生徒が一人立っていた。
銀縁の眼鏡。落ち着いた濃紺の上衣。学園の制服に似ているが、袖の紋章はごく簡素で、どの学科にも属していない来訪者めいた出で立ちだった。
「……失礼しました。物陰から眺めるつもりはなかったのです」
丁寧な言い方をする方だった。王族でもここまでは、というほど丁寧ではなく、どちらかというと、研究者が初対面の被験者に向ける種類の丁寧さ。
「いつから、そちらに」
「あなたが手帳を開かれる、少し前から」
つまり、最初から、ということだ。
「では、証人が一名増えましたのね」
「お役に立てば」
彼は軽く頭を下げた。それから、控えめな足取りで東屋に近づいてきた。距離の取り方が洗練されていた。近づきすぎず、遠すぎず、こちらに警戒させない間合い。
「ひとつ、お願いをしてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「その手帳。……内容の写しを、拝見することは、可能でしょうか」
「貸してほしい、ではなく?」
「はい。お貸しいただくのは、さすがに失礼に当たります。写しを取らせてください。こちらで筆写いたしますので、お手数はおかけしません」
わたくしは一瞬、頁を閉じた。
「理由を、お伺いしても」
「記録の型として、よくできているからです」
彼の声には、お世辞の温度がなかった。新刊の学術書を評するような、静かな関心の色だけがある。
「学園の、研究生でいらっしゃいますの」
「……似たようなものです」
彼は少し困ったように眉を下げ、それから、まっすぐわたくしの目を見た。
「カイル、と申します。カイル・ヴァル、と。苗字は家の事情で、あまり大きな声で名乗らぬように言われておりまして」
「まあ。では、カイル様」
「はい」
「後日、研究棟にお伺いしてもよろしゅうございますか。写しはこちらで用意いたしますわ」
「助かります」
彼は今度こそ深く、頭を下げた。その頭の下げ方の角度は、貴族社会のどこの作法にも属していないように見えた。
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翌朝、図書館。
わたくしは昨日の証言をまとめた資料を、奥の閲覧机に広げていた。司書の老婦人が朝のうちから換気をしておいてくれたおかげで、室内の空気は紙と木の匂いがよく混じっていて、居心地が良い。
講義前の静かな時間。まだ学生はまばらだった。
資料を並べ終えて、ふと、机の端に目が落ちた。
「……」
昨日、わたくしが片付け終えたはずの場所に、見覚えのない紙片が一枚、置かれていた。
白い紙。上質紙。折り目は浅く、置かれてそう時間は経っていない。
拾い上げて開くと、短い文章が綴られている。
宛名はミミ・カーライル嬢。差出人の署名は――フェリシア・ヴェルティーゼ。
『今度、階段の上でお会いしましょう。あなたのような方には、少し痛い思いをしていただかないと、分かっていただけないことがあります』
わたくしは、その紙片を窓の光にかざして見た。
紙の縦糸の流れ。インクの粒子の沈み方。筆運びの細部。その紙の、その字の、その癖。
……わたくしの字に、よく似ていた。
けれど、わたくしのものではない。
「――まあ」
静かな図書館で、独り言は、ひそやかに落ちた。
わたくしは紙片を、革装の手帳に丁寧に挟み込んだ。それから新しい頁を開いて、昨晩の項目の続きを書き加えた。
『第三章 接触型案件』
『第三項 偽造文書が発見された場合の対処』
筆跡は、誰にでも真似られる。けれど、真似られた筆跡は、真似ではないものに、必ずどこかで負ける。
窓の向こうで、今朝の鐘が鳴り始めた。




