第10話 余韻、そして「フェリシア」
「フェリシア」
殿下がそう、初めて、わたくしを名前でお呼びになったとき。
秋のはじめの陽射しが、回廊の敷石の上で、少しだけ傾いていた。
殿下のお声には、敬称の分の重さが、一つ、なかった。
なかった分の重さはどこに行ったのだろう、とわたくしは考えようとして、考える前に、考える必要がない、ということに気がついた。
敬称の分の重さは、殿下のお言葉の後の、まなざしのほうに、静かに、移っていた。
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――その日の昼、ヴェルティーゼ公爵邸の奥庭に、遡る。
庭には、秋のはじめの花が、控えめに咲いていた。薔薇は、すでに夏の勢いを手放して、枝先にだけ、慎ましく、最後の花を残している。芝は、長雨のあとで、少しだけ厚みを戻したところだった。
その庭で、今日、婚約披露の、小さな、けれど格式のある会が催された。
王家からは、国王陛下、王妃陛下、王太子殿下、そしてカイル殿下。
公爵家からは、父、母、そしてわたくし。
そして、モントレイク侯爵家のレティシアと、その父君といった、心許した者たちの、少数の列席。
王家公認の、正式な婚約、である。
「わたくし、ヴァルフォート王国第二王子、カイル・ヴァルフォートは、本日、ヴェルティーゼ公爵家ご令嬢、フェリシア嬢との婚約を、父王陛下の御前にて、正式に申し上げたく存じます」
殿下のお声は、朝の、少し乾いた空気を、まっすぐ、抜けていった。
国王陛下が、穏やかに頷かれた。
「認める」
短い、一言だった。
短い分、重たかった。
公爵家の家紋入りの、正式な婚約承認書に、国王陛下がご署名をされる。父が、お返しのご署名を重ねられる。それだけで、この国の、二つの家系の、今後のあいだの、政治の骨組みが、決まった。
陛下は、ご署名のあとで、わたくしのほうを、ふとご覧になった。
「フェリシア嬢」
「はい」
「お前の作った手帳、あれ、王家の外交部の、危機管理規程の、原本にする」
「……原本、でございますか」
「細目は、外交部とカイルで詰めさせる。ただ、原本として、表紙にお前の名を残す」
「それは、過分なお計らいにございます」
「過分か、適正か、後の時代が決めるだろう」
陛下は、それ以上、お話しにならなかった。
お話しにならないまま、王妃陛下のご指示で、庭のほうに、軽い昼食が運ばれ始めていた。
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列席者たちが庭のあちこちに散って、談笑を始めた頃。
レティシアが、わたくしの肘を、軽くつついた。
「フェリシア」
「はい」
「正式に、通達が来たわよ。――ハーヴァル家、オリバー様は、本日付で、伯爵家の継承権を放棄。辺境のほうの、あまり整備されていない領地の、管理代行に」
「まあ」
「『継承権を剥奪』じゃなくて、『放棄』。見え方の配慮は、ハーヴァル家のご兄上が、あの式典のあと、きちんと手を打たれたみたい」
「ご兄上は、たぶん、相当、優秀な方ですのね」
「でしょうね。兄上を、父の次に動かしたのは、結局、フェリシア、あなたよ」
「わたくしは、何もしておりませんのよ」
「『線を敷いたつもりはない』の、あれ、また言うつもり?」
「……では、違う言い方をいたしますわ」
レティシアは、小さく吹き出してから、もう一つ、声を落とした。
「それと、ミミ嬢。――国外追放。手続きは、王家の外交部が正式に進めている最中。行き先までは、まだ決まっていないわ。けれど、まあ、かなり遠い」
「……さようですか」
「ヴィオラ男爵家は、男爵位剥奪。領地は、王家直轄地に編入」
「公爵家としては、領地整理のお手伝いを、申し出ておこうかしら」
「申し出ていいわよ。父、喜ぶと思う」
レティシアは、そこで、普段の軽い口調に戻って、わたくしをまじまじとご覧になった。
「フェリシア。わたし、侯爵家として、正式に、学園発の事例集と、今度の新しい手帳の、印刷と流通の管理を、引き受けることになったの」
「それは、心強うございますわ」
「条件が、一つだけ、あるのよ」
「条件?」
「あなた、もう、『光栄ですわ』って言うの、今日で、最後にしなさい」
「……それは、外交上の、重大な制約でございますわよ」
「知ってる。だから、条件なの」
レティシアは、意地の悪い、優しい顔で、そのまま、ふっと笑った。
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午後の遅い時間、わたくしは、庭の散会の人波から、少しだけ、外れた。
公爵邸の東側の回廊は、午後のこの時間になると、奥庭のほうの光が、石の床の上に、斜めに、長く伸びてくる場所だった。幼い頃、わたくしが、一人で絵本を読むのに、いちばん好んだ場所である。
その回廊の奥のほうに、人の気配があった。
「殿下」
「はい」
「お人払いの、ご加減が、少し、過ぎていらっしゃいますわよ」
「……過ぎましたでしょうか」
「わたくしも、人波から、少しだけ、外れましたわ」
「ご同輩でしたか」
殿下は、いつもの少し困ったような眉の下げ方で、そう仰った。
わたくしたちは、回廊の途中の、石の手すりに、二人して、軽く腰をかけた。
「フェリシア嬢」
「はい」
「ひとつ、申し上げたかったことがあります」
「どうぞ」
殿下は、ゆっくりと呼吸を整えられた。整えられてから、まっすぐ、わたくしのほうを向かれた。
「あの、初めて中庭でお目にかかった日。わたくし、あなたの手帳を『写させてください』と、お願いしました」
「ええ。覚えておりますわ」
「あの時、あなたが書いていらっしゃった筆跡を、どうしても、手元に残したかったのです」
「業務上の、必要、と」
「……違います」
殿下は、初めて、業務上の合理性以外の理由を、口にされた。
「あなたがどういう速度で物を考える方か。どういう角度でペンを持つ方か。ご自身の筆跡に、どれだけの癖を許していらっしゃる方か。それを知りたかった。業務でなく、純粋に、個人的な関心として、でした」
「……」
「紅茶の件も、同じです。料理長にお話を伺ったのは、公式のご相談の『ついで』では、ありませんでした。本筋でした」
「……ご自分で、『ついで』と仰いましたわ」
「嘘を申しました」
「殿下、わたくし、殿下の口から『嘘』という言葉を、初めて、伺いましたわ」
「……申し訳ありません」
殿下は、深く頭を下げられた。
わたくしは、回廊の石の手すりの、ひんやりとした感触を、掌に感じていた。
不思議と、怒っていなかった。
「あの、一連の『ついで』と『合理』は」
「はい」
「殿下が、ご自分の好意の表現方法を、業務の語彙で翻訳していらっしゃった、ということでよろしゅうございますか」
殿下は、静かに頷かれた。
「……それを分類するのに、わたくし、ずいぶん、時間がかかりましたわ」
「申し訳ありません」
「いえ。殿下のほうも、ずいぶん、お待たせしましたわね」
「お待ち、いたしました」
殿下の声が、少しだけ、低くなった。
「敬称のとれた呼び方を、ずっと、待っておりました」
「……敬称」
「はい」
殿下は、手すりからゆっくりと立ち上がられた。立ち上がって、わたくしの右手を、丁寧にお取りになった。
そして一度、深く呼吸をされてから、まっすぐ、わたくしの目を見て、仰った。
「フェリシア」
初めて、敬称の分の重さが、ない呼び方だった。
なかった分の重さは、殿下のまなざしのほうに、静かに、移っていた。
殿下は、わたくしの手の甲に、ゆっくりと、口づけを落とされた。
回廊の石の床に、午後の光が、長く、伸びていた。
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夜。公爵邸の二階の、わたくしの書斎。
披露の会が片付いて、殿下がご自邸にお戻りになってから、わたくしは、書斎の机に、一人で向かっていた。
机の上には、新しい、厚い、革装の手帳が、置かれていた。
王家外交部に正式に献納される、新しい危機管理規程の、原本となる手帳である。
わたくしは、手帳の表紙に、静かにペンを入れた。
『危機管理規程・原本』
『著 フェリシア・ヴェルティーゼ』
それから、ひと息おいて、最初の頁を開いた。
『第一章 王族婚姻における危機管理』
見出しだけ書いて、少しのあいだ、手を止めた。
止めたのは、右の肘の下に、小さな紙片が、挟まっていたからだった。
殿下が帰り際に、「よろしければ」と仰って、置いていかれた、古い手帳の、切れ端の一頁。
頁には、短い、几帳面な字で、一行が書かれていた。
『要:直接観察』
日付は、春のはじめの日付だった。
――……ああ。
わたくしは、その一行を、しばらく、黙って見ていた。
春のはじめの、あの、学園の正門前で、オリバー様からあの『警告』を受けた日。その同じ日の、同じ時刻あたりに、殿下は、遠くからわたくしをご覧になって、この一行を、お書きになっていた。
殿下にとっての、わたくしの物語の、最初の一行は、この『要:直接観察』で、始まっていた。
わたくしは、その紙片を、新しい手帳の、扉の裏側に、丁寧に挟み込んだ。
それから、ペンを取り直して、第一章の、第一項の、本文の一行目を、書き始めた。
『――本規程は、王族ならびに王族の婚姻対象者に関わる全ての事案において、静かで、誠実な観察を、その第一の作法として定めるものである』
書き終えて、頁の上に、そっと手を置いた。
窓の外で、秋のはじめの夜の風が、中庭の木の葉を、少しだけ揺らしていた。
わたくしは、手帳を、静かに閉じた。
閉じた表紙の金文字の下で、敬称の取れたわたくしの名が、静かに、光っていた。




