第3話 「乗れるか、乗れないか」
三日後の朝。
飛竜配送ギルド《ウィングメイル》の空気は、煮詰めたスープみたいになっていた。
濃い。
重い。
しかも、うっかり火を止めると全部焦げつきそうな嫌な重さだ。
誰もが仕事はしている。
しているのだが、なんとなく声が小さい。
伝票を置く音まで遠慮がちだった。
書庫の扉を閉める音にすら、「いま大きな音立てて大丈夫かな」という配慮が混じっている。
つまり職場として最悪である。
気を遣う職場は、だいたい空気が悪い。
空気が悪い職場は、だいたい上が悪い。
ロイドはそういう身も蓋もない経験則を、二十七年の人生でわりと集めていた。
そして経験則は、だいたい当たる。
「ロイドさん」
朝一番で、リリが顔だけ机の横から出してきた。
本当に顔だけだった。
体は見えない。
なんでそんな出方をしているのかと思ったら、大量の伝票束を抱えていた。
「重いです」
「見ればわかる」
「助けてください」
「そこに置け」
「そこまで行けません」
「じゃあ二歩こっちへ来い」
「その二歩が重いんです!」
言いながら、リリはよろよろ前進した。
一歩。
二歩。
三歩目で足元の伝票に乗り上げた。
「あっ」
「止まれ」
「もう止まれませ――」
伝票束が傾く。
リリが傾く。
机の角が迫る。
その寸前で、ロイドが片手でいちばん上の束だけ抜き取った。
重心を失った残りが、ぼふっと床へ落ちる。
紙の雪崩である。
室内の全員が、あ、終わった、という顔をした。
だが紙は散っただけで済んだ。
リリは机に額をぶつけずに済んだ。
「……生きてる」
「紙もお前もな」
「今の動き、ちょっと格好よかったです」
「不本意だ」
「なんでですか」
「もっと前に危険を察知してほしい」
「それは今後の私に期待してください!」
「今の俺には何もないな」
リリは床に膝をつき、散らばった伝票を拾い集め始めた。
「うう……最近みんな空気が重くて、足元まで重い気がします……」
「気のせいじゃない」
「ですよね……」
この三日で、ギルド内の雰囲気は目に見えて変わった。
グレゴールは就任以来、騎竜隊ばかりを露骨に重んじた。
運行管理室にはろくに顔を出さないくせに、何か問題が起きると最初に紙の山を睨む。
整備の要望は通る。
補給の増員も一部通る。
だが運行管理室から出した申請だけ、なぜか止まる。
止まるというより、握り潰されている気配が濃厚だった。
そして困るのは、そういう嫌がらせは紙に残りにくいことだ。
姑息さに関しては、筋肉一辺倒の男でも意外と知恵が回るらしい。
ロイドは机上の伝票をめくった。
王都定例便。
北河巡回便。
西港便。
そして今日の定例便の一覧。
数字は嘘をつかない。
この三日で、すでに小さな狂いが出始めていた。
出発順の変更が増えた。
補給塔での待機時間が長くなった。
荷物の積み替え指示が通るまでの時間が遅くなった。
まだ大崩れではない。
だが、組織の崩壊はだいたい「まだ大丈夫」から始まる。
人が崖から落ちる瞬間は派手でも、
崖の縁に近づく時は、だいたい静かだ。
「ロイド責任者」
会計係がそろそろと寄ってきた。
いつもそろそろしている男だが、今日は輪をかけてそろそろしていた。
「新ギルド長から通達です」
「読まなくても嫌な予感がするな」
「ええ、私も渡したくないです」
「なら自分の机に戻れ」
「戻れません。仕事なので」
悲しいほど正しい。
会計係は紙を差し出した。
『本日の定例便出発前、全職員を中庭に集合させること』
短い。
嫌な文面ほど短い。
ロイドは紙を一瞥して机に置いた。
その隅で、リリが目を見開く。
「また中庭ですか?」
「また中庭だな」
「最近あの場所、ろくなこと起きませんよね」
「鳩でも飛んでれば少しは和むんだが」
「問題そこですか!?」
「重要だ。職場における鳩の存在は馬鹿にできない」
「今まで一回も聞いたことない理論です!」
だが、和みが必要なのは本当だった。
この三日、全員が妙な緊張のまま働いている。
しかも上司はその緊張を楽しんでいる節がある。
そういう手合いは厄介だ。
人を従わせることと、人を萎縮させることの区別がついていない。
大抵、その違いを理解する頃には組織が死んでいる。
ロイドは立ち上がった。
「十刻前に中庭集合だ。発進準備はそれまでに終わらせろ」
「はい……」
リリは返事をしながら、まだ床の伝票と格闘していた。
「それで、これは拾い終えてから気絶してもいいですか?」
「だめだ」
「ですよねえ!」
中庭へ向かう廊下は、妙に長く感じた。
実際の長さは変わっていないはずだが、
人間は嫌な場所へ向かう時、距離感を盛る生き物である。
運行管理室から出た面々は、誰もが口数少なく歩いていた。
整備士は手を拭きながら。
会計係は紙束を抱えながら。
伝令係は、なぜかすでに青い顔で。
一方で騎竜士たちは、いつもより少し胸を張っているように見える。
別に全員がグレゴール派というわけではない。
ただ、新しい上司が「翼こそ価値」と言い切ったせいで、
どうしてもその側に立つ人間は、立場が強く見えてしまうのだ。
組織とは面倒である。
同じ職場にいながら、
誰が正しいかより、
誰が“今は強い側”かで空気が変わる。
ロイドはその空気ごと観察していた。
空気も物流と同じだ。
流れを見れば、どこが詰まるかわかる。
中庭には、すでに全員が集められていた。
朝の光は明るいのに、場だけが暗い。
不思議なものだ。
壇上の前にグレゴールが立っている。
その横には、副長と、文官一名。
文官がいる時点で、ろくでもない確率は上がる。
文官は悪くない。
ただ、文官が壇上脇にいる場面は、だいたい紙が人を傷つける場面である。
ロイドは一瞬だけ、机の引き出しの奥にある封書を思い出した。
一話目から開いていない、あの辞令らしきものだ。
いや、今は関係ない。
たぶんまだ関係ない。
「諸君」
グレゴールが声を上げる。
相変わらずでかい。
大きな声は時に説得力に見える。
中身が薄い時ほど、なおさらだ。
「本日は、我がギルドに巣食う“問題”を明確にしたい」
問題、という言葉が石畳に落ちる。
誰も動かない。
誰もが、誰のことか薄々わかっている顔をしていた。
でも、人間は不思議なもので、
わかっていても実際に名前が出るまでは「違うかもしれない」と思いたがる。
思いたい。
思えない。
そういう微妙な顔が、そこら中に並んでいた。
「前へ出ろ、ロイド・ハーヴェイ」
出た。
呼ばれる前から、たぶんそうだろうと思っていた。
思っていたが、やはり面倒だ。
面倒の予感が当たるのは、嬉しくない。
ロイドが壇上の前に立つと、視線が全部集まった。
整備士。
伝令。
会計。
騎竜士。
その中に、昨日のベテラン騎竜士もいる。
顔が渋い。
リリは渋いを通り越して、もはや変なきのこでも食べたみたいな顔になっていた。
顔色が忙しい。
「ロイド・ハーヴェイ」
グレゴールが、やけにゆっくり名を呼んだ。
「貴様に問う」
来る。
全員が、そう思った空気になった。
「明日の定例便で――ドラゴンに乗れるか、乗れないか」
中庭の空気が、きれいに止まった。
鳥すら鳴かない。
風まで遠慮したみたいだった。
あまりにも単純な問いだ。
そして、あまりにも悪質だった。
能力を問う形をしているが、実際には価値を二択に押し込めている。
乗れるか。
乗れないか。
この世界で、飛竜配送ギルドという場で、その問いはあまりに強い。
そしてロイドには、答えが一つしかない。
「……乗れません」
ざわ、と人の気配が揺れた。
わかっていた答えだ。
だが、本人の口から改めて言われると、別の重さが出る。
グレゴールはそこで勝ち誇ったように顎を上げた。
だがロイドは、そこで終わらせなかった。
一拍置いて、まっすぐ言う。
「そして――乗る必要もない」
どよめきが走った。
本当の意味で空気が割れたのは、その一言のあとだった。
整備士たちが顔を上げる。
伝令係が「うわあ」と声にならない顔をする。
会計係は今にも倒れそうだ。
騎竜士たちの中には、目を見開く者もいた。
昨日のベテラン騎竜士だけが、口の端を少しだけ持ち上げていた。
グレゴールの顔が変わる。
ぴくり、とこめかみが動く。
「必要もない、だと?」
「はい」
ロイドは静かに答えた。
声を張る必要はない。
張らなくても届く時がある。
「飛ぶ者が必要なのは知っています。だが、誰が、どこへ、何を、どう運ぶかを決める者も必要です」
「机の上の遊びだ」
「机上で解けない問題は、空でも解けません」
言い切った瞬間、
中庭の端でリリが「今それ言うんですか!?」という顔をした。
声には出していない。
出していないが、顔が大声だった。
表情豊かすぎる。
いつか隠密任務には絶対向かない。
グレゴールが一歩前に出た。
石畳を踏む音がやけに大きい。
「貴様は、自ら無価値だと言ったに等しい」
「言っていません」
ロイドは首を振る。
「乗れないことと、価値がないことは別です」
「このギルドでは同じだ!」
グレゴールの怒声が跳ねる。
ああ、と思った者は多かったはずだ。
言質を取りにきたのだ、この男は。
最初から答えを決めていて、
その答えに相手を押し込めるために、この場を作った。
会話ではない。
儀式だ。
しかもたちの悪いことに、
こういう儀式は周囲を巻き込む。
誰も止められない。
止めると次の標的になるからだ。
グレゴールが手を差し出す。
横に控えていた文官が、紙を渡した。
辞令書。
その一枚の白さだけが、やけに目についた。
紙は軽い。
だが、人一人の人生くらいは簡単に持ち上げてしまう。
「ロイド・ハーヴェイ」
グレゴールはそれを突き出した。
「本日をもって、運行管理責任者の任を解く。ギルドより追放とする」
誰かが息を呑んだ。
誰かが小さく悪態をついた。
リリが、はっきりと「は?」と言った。
小さく言うことに失敗していた。
とてもリリらしい。
会計係が横で頭を抱える。
たぶん今この瞬間にも、「退職処理の書類が増える」と思っている顔だった。
職業病として健全である。
ロイドは、差し出された辞令書を見た。
紙質は上等。
印章は正式。
文言も抜かりない。
丁寧に人を切る時の紙だった。
妙に腹は立たなかった。
驚きも、さほどない。
ただ少しだけ、ああ、早かったな、と思った。
もう数日は持つかと見ていたが、見積もりより早い。
グレゴールは我慢が利かないらしい。
組織の上に立つには、わりと致命的な欠点である。
ロイドは紙を受け取った。
それだけで、ざわめきが一段深くなる。
抗議しないのか。
噛みつかないのか。
泣きもしないのか。
そういう驚きが、周囲にあった。
だがロイドには、そのどれも意味が薄かった。
争ったところで、グレゴールは気持ちよくなるだけだ。
そして紙は、もう出た。
出た紙は、戻らない。
だから見るべきは、その先だ。
ロイドは辞令書をたたまず持ったまま、ゆっくり振り返った。
中庭の向こう。
運行管理室の窓が見える。
白板がある。
机がある。
伝票の束がある。
そしてあの棚の下には、自分が積み上げた三年分の最適化ノートがある。
運行時間。
風向。
季節ごとの偏差。
補給塔の癖。
騎竜士ごとの操縦傾向。
荷主ごとの無茶の度合いまで書いてある、あの分厚い束。
ロイドは歩き出した。
周囲がざわつく。
グレゴールが眉をひそめる。
「どこへ行く」
「自分の机へ」
「何をするつもりだ」
「片づけです」
そのまま運行管理室へ向かう。
誰も止めない。
止めていいのかわからないからだ。
職場とは、こういう曖昧さで一瞬だけ自由が生まれることがある。
リリが慌ててついてきた。
「ロイドさん!」
「なんだ」
「だめですだめです、落ち着いてる場合じゃないです!」
「落ち着いてないと伝票が曲がる」
「今そこなんですか!?」
「かなり重要だ」
運行管理室に入ると、空気が急に近くなった。
仕事の匂いがする。
インク。
紙。
革袋。
少しだけ残る竜舎の匂い。
ロイドは自分の机の前に立ち、棚の下から分厚いノートの束を引き出した。
三年分。
革紐でまとめたそれは、見た目よりずっと重かった。
重いのは紙のせいだけではない。
自分の時間が詰まっているからだ。
たぶんそういう気分の重さもある。
リリが目を見開く。
「それ、持っていくんですか!?」
ロイドは答えなかった。
ただ、ノートの表紙に指をかけたまま、止まる。
運行管理室の入口には人が集まり始めていた。
整備士。
伝令。
会計。
騎竜士。
みんな半端な距離で立っている。
近づきたいが、近づけない距離。
その中で、昨日のベテラン騎竜士が一歩だけ前へ出た。
「ロイド」
「なんです」
「それ、置いていく気か」
静かに問う声だった。
責めるでもなく、止めるでもなく、
ただ聞いた。
それがいちばん困る。
ロイドは少しだけ目を伏せた。
机の木目が見える。
使い込んで、端が丸くなっている。
ここで何枚の伝票を切ったか。
何度、白板の前で夜を越したか。
数える気にはならない。
グレゴールが遅れて入口に現れた。
追いついてきたのだろう。
声には、まだ怒りの熱が残っていた。
「その紙の束は貴様の未練か」
ロイドはノートを持ち上げる。
重い。
だが持てる。
まだ持てる。
そして、ようやく顔を上げてグレゴールを見た。
「いえ」
そう言って、一拍置いた。
運行管理室の全員が、その次の言葉を待っている。
息まで止めて。
紙の音もしない。
「餞別にするか、持ち出すか、まだ決めていません」
その場の空気が、完全に止まった。
リリが「え」と言った。
かすれた小さな声だった。
会計係は今にも気絶しそうだ。
整備士は拳を握っている。
ベテラン騎竜士は、じっとロイドの手元を見ている。
グレゴールだけが、一瞬だけ言葉を失った。
追放された者が取り乱すと思っていたのだろう。
怒鳴るか、泣くか、せめて悔しがると思っていたのだろう。
だがロイドは、もっと面倒な顔をしていた。
静かで、
冷えていて、
それでいて、まだ何も終わっていない顔だ。
運行管理室の窓の外では、朝の定例便が翼を鳴らしていた。
飛ぶ音がする。
紙の世界の外で、空はいつも通り動いている。
ロイドの手は、ノートを持ったままだ。
置くのか。
持っていくのか。
その答えを、誰もまだ知らない。
そしてロイドは、そのノートにもう一度だけ手をかけた。




