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第2話 俺の地図を笑うな


翌朝。


飛竜配送ギルド《ウィングメイル》は、だいたい二種類の人間に分かれていた。


昨夜の嵐を生き延びて魂が抜けている者と、


昨夜の嵐を生き延びたせいで逆に仕事が増えている者である。


前者は椅子に座ったまま目を開けて眠っていた。


後者は目を閉じたいのに閉じられず走っていた。


つまり、全員ろくでもない顔をしていた。


運行室の朝は早い。


というより、昨夜からそのまま続いている。


机の上には、未処理の伝票、処理済みの伝票、処理済みだと思ったら未処理だった伝票、そして誰が置いたのかわからないパンの欠片が仲良く並んでいた。


「誰ですか白パンを伝票の上で食べたの」


ロイドが低い声で言うと、


部屋の隅で口をもごもごさせていた会計係が、ぴたりと止まった。


「……違います」


「何がだ」


「黒パンです」


「そういう問題じゃない」


「ですよね」


素直でよろしい。


ロイドはパン屑を指で払った。


払われたパン屑は風に乗って、別の伝票の上に移動した。


問題が移動しただけで、解決はしていない。


この世のだいたいの事務作業もそうである。


ロイドは諦めて伝票束を抱えた。


昨夜の嵐の処理が終わったと思うのは素人だ。


本当の地獄は、その翌朝から始まる。


遅延ゼロで着いた荷物には、遅延ゼロで届いたという報告書が必要になる。


補給塔ごとの消耗、竜具の摩耗、騎竜士ごとの飛行記録、荷主への着荷通知、そして「昨夜は何が起きたのか」を知りたがる上層部向けの説明書き。


奇跡は、だいたい書類になる。


しかも枚数が多い。


ロイドは机に伝票を並べた。


王都便、北河便、工房便、司祭庁便。


視線は流れるが、手は止まらない。


印を打ち、時刻を書き込み、補給記録を脇に寄せる。


その横で、リリが大きな帳面を両腕で抱えてよろよろしていた。


「ロイドさん」


「なんだ」


「この帳面、私の人生で見た中で一番分厚いです」


「まだ上がある」


「いやです」


「安心しろ。誰も好きではない」


「救いがない!」


リリは帳面を机に置こうとして、角を自分の腹にぶつけた。


「ぐえっ」


「それ、荷物じゃなくて帳簿だぞ」


「帳簿のほうが硬いです!」


「だろうな。人の心より硬い」


「朝から名言みたいなこと言わないでください!」


ロイドは返事の代わりに、新しい伝票を差し出した。


リリが顔を引きつらせる。


「まだあるんですか」


「昨夜の分が終わっただけだ。今日の便は今日の便で来る」


「物流って毎日あるんですね……」


「毎日あるから物流なんだ」


「急に当たり前のことを重く言わないでください!」


だが、その“毎日”こそが大事だった。


昨夜の神業は、昨夜だけなら伝説で終わる。


本当に強いのは、今日も同じように回ることだ。


奇跡を起こす者より、


平然と日常を回す者のほうが厄介だ。


ロイドは白板の前に立った。


昨夜の線はすでに消され、今朝の線が引き直されている。


王都定例便、北部巡回便、海峡補給便、東方商人便、南部薬材便。


その数、十七。


運行室の端から見れば、ただの線と文字の羅列だ。


だがロイドの頭の中では、もう全部飛んでいた。


何刻にどこを通り、


どの塔で補給し、


どの竜が疲れ、


どの荷主が文句を言い、


どの文句は無視してよくて、


どの文句は無視すると後で面倒になるかまで。


そこまで含めて運行だ。


「ロイド責任者!」


一人の騎竜士が駆け込んできた。


「王都北便の荷主が、積荷を一箱増やしたいって」


「断れ」


「早いですね!?」


「積載計画がもう閉じてる。今から足すと北河塔で補給が一刻遅れる。その一刻で東方商人便の離陸順がズレる。結果、昼の上昇気流を逃す。損失の説明を求めるなら紙に書いてやる」


騎竜士は一瞬黙った。


「……そこまで見えてるんですか」


「見えてないとこの席にはいない」


「たまに怖いです」


「リリと同じことを言うな」


「すみません」


ちょうどそのリリが、別の伝票束を抱えて戻ってきた。


「ロイドさん! 南部薬材便の荷主から『昨日はありがとう』って差し入れです!」


「何だ」


「饅頭です!」


「机に置くな」


「もう置いちゃいました!」


「そうか」


ロイドは机を見る。


伝票の横に、饅頭の包みがあった。


ほんのり湯気が立っている。


この忙しい朝に、やけに平和な湯気だった。


「食べていいですか」


「手が空いたらな」


「その“空いたら”って今日来ます?」


「来ない」


「じゃあ今食べても同じでは?」


「理屈は正しいが態度がだめだ」


リリはしょんぼりした。


三秒後には包みを見ていた。


切り替えが早い。


若さか、食欲か、その両方である。


ロイドは白板に新しい時刻を書き込む。


十七便。


十七本の線。


昨夜みたいな派手さはない。


だが、それでいい。


本当に組織を支えるのは、派手な一夜ではなく、地味な毎日だ。


「ロイドを切れば、うちの遅延率は跳ね上がりますぜ」


ふいに、背後から声がした。


昨日のベテラン騎竜士だ。


革手袋を外しながら、白板を見上げている。


「お前、昨夜だけじゃなくて普段もこれ全部やってるんだろ」


「やってる」


「十七便を同時に?」


「同時に」


「人間か?」


「書類にはそう書いてある」


「それ怪しいな」


「俺も少し思う」


そこへ、運行室の外で鐘が鳴った。


来客の鐘ではない。


式典用の鐘だ。


普段より少し長く、少し偉そうに鳴る。


部屋の空気が変わった。


誰かが窓の外を見る。


誰かが顔をしかめる。


リリが小声で言った。


「就任式、ですよね」


ロイドは頷いた。


先代ギルド長が倒れた。


病床から戻る見込みは薄い。


そして今日、新しいギルド長が正式に就任する。


グレゴール。


武勲で名を上げた騎竜士上がり。


力で押し切る男。


そういう噂は、ロイドの耳にも入っていた。


噂は話半分に聞くべきだが、


半分くらい本当でも十分厄介だ。


「全員、中庭へ!」


伝令が走ってくる。


「新ギルド長就任の訓示だ!」


運行室の面々が、露骨に嫌そうな顔をした。


忙しい時の訓示ほど、人間の神経を逆撫でするものはない。


「今ですか……?」


会計係が泣きそうな声を出す。


「今だ」


ロイドはチョークを置いた。


「十七便の発進順はそのまま。戻ったらすぐ動けるように、伝票はこの並びから崩すな」


「はい!」


「リリ」


「はいっ」


「饅頭を隠せ」


「なぜ私だけ名指し!?」


「お前が一番顔に出てる」


「くっ……否定できません!」


中庭には、全職員が集められていた。


騎竜士、整備士、補給係、会計、伝令、事務。


空を飛ぶ者も、飛ばす者も、飛ばした後で紙を書く者もいる。


だが視線の中心にいるのは、やはり騎竜士たちだった。


翼を持つ者が、このギルドでは花形だ。


中庭の石畳は、昨夜の雨をまだ残して濡れている。


壇上には新しい旗。


そしてその前に立つ男は、旗よりもずっと“立っている”感じが強かった。


大きい。


肩幅が広い。


声を出す前から、声が大きそうな顔をしている。


グレゴールだった。


髭も太い。


眉も太い。


価値観もたぶん太い。


ロイドは見た瞬間そう思った。


たいてい最初の印象は当たる。


グレゴールは壇上から全員を見渡し、胸を張った。


「諸君!」


声がでかい。


朝の空気が一回揺れた。


端のほうで小鳥が飛んだ。


「本日より! 私がウィングメイルを率いる!」


拍手が、ぱらぱらと起きる。


みんな様子見の拍手だった。


新しい上司への拍手には、「とりあえず叩いておこう」という種類がある。


だいたい心がこもっていない。


ロイドも叩いた。


一回だけ。


十分である。


グレゴールは続けた。


「我がギルドの誇りは何か! それは翼だ!」


騎竜士たちが少しだけ背筋を伸ばした。


まあ、ここまでは普通だ。


飛竜配送ギルドで翼が大事なのは事実である。


問題は、その次だった。


「空を征する者こそ、このギルドの中核! ドラゴンに乗れぬ者に、価値はない!」


中庭の空気が、ぴしりと割れた。


誰も動かない。


動けない。


言葉が、あまりにもまっすぐすぎた。


まっすぐすぎる言葉は、時々刃物になる。


リリが「うわ」と小さく言った。


本当に小さかったが、ロイドには聞こえた。


たぶん近くの三人くらいにも聞こえた。


だが、グレゴールは気にした様子もない。


「私は強い翼を愛する! 高く飛ぶ者を重んじる! 力こそが配送を守るのだ!」


壇上の後ろで、旗が風に鳴る。


たしかに絵にはなる。


力強い。


わかりやすい。


そして、危うい。


ロイドは何も言わず、ただ見ていた。


怒りはない。


驚きも薄い。


ああ、そういう種類か、と思っただけだ。


世の中には、


数字を見る前に筋肉を信じる人間がいる。


しかも、その筋肉で成功してきた人間ほど厄介だ。


なぜなら成功体験は、人を頑固にする。


訓示の後、各部署の責任者が順に呼ばれた。


騎竜隊長。


整備長。


補給主任。


そして最後のほうで、


「運行管理責任者、ロイド・ハーヴェイ」


呼ばれて、ロイドは一歩前に出た。


壇上の近くまで行くと、グレゴールが初めてこちらをまともに見た。


目が合う。


一瞬で測られた、とロイドは思った。


身体。


立ち方。


腕の細さ。


空に上がらない人間の体つき。


その全部を見て、相手は判断した。


そしてその判断は、たぶん最悪寄りだった。


「貴様か」


グレゴールが言う。


「はい」


「噂の事務屋というのは」


「事務屋です」


「ドラゴンに乗れぬのだろう?」


中庭が静まり返った。


ロイドの後ろで、誰かが息を呑む音がする。


リリだろう。


会計係かもしれない。


どちらでもいい。


ロイドは答えた。


「はい。乗れません」


グレゴールの口元が、わずかに歪む。


勝ったつもりの顔だった。


まだ何にも勝っていない顔でもある。


「ならば、何ができる」


ロイドは少しだけ考えた。


考えたというより、どの答えが一番短く済むかを選んだ。


「十二の航路と、三百の積荷の重さを覚えています」


中庭に、妙な沈黙が落ちた。


派手ではない。


強そうでもない。


だが意味のわかる者には、かなり嫌な答えだった。


昨日のベテラン騎竜士が、後ろで低く笑った気配がした。


グレゴールは眉をひそめる。


「それが何になる」


「便が飛びます」


「翼で飛ぶのだ」


「ええ。ですが、どこへ、何を、いつ、どの順で飛ばすかは翼では決まりません」


その瞬間だけ、


中庭の端にいた整備士たちが、そっと視線を上げた。


飛ぶ者だけでは配送は回らない。


彼らはそれを知っている。


知っているが、口にはしない。


口にすると面倒だからだ。


職場とはそういう場所である。


グレゴールは鼻で笑った。


「小難しい理屈だ」


「そうかもしれません」


「空は理屈で飛ばぬ」


「理屈がないと、地上で詰まります」


そのやり取りを聞いて、


近くの伝令係が「ひぇ」と小さく鳴いた。


声の形が鳥だった。


ロイドは少しだけ気の毒に思った。


訓示はそこで終わった。


終わったというより、グレゴールが「後で見る」と言い残して壇上を降りた。


その“後で”は、たいていろくな意味を持たない。


運行室へ戻る途中、


誰もが妙に静かだった。


足音だけが石畳に残る。


一番先に口を開いたのは、昨日のベテラン騎竜士だった。


「ロイドを切れば、うちの遅延率は跳ね上がりますぜ」


さっきよりも低い声で、


だが今度は本人に向かってではなく、


すぐ脇を通り過ぎるグレゴールの背中へ投げた。


グレゴールは足を止めた。


振り返る。


「跳ね上がった数字は、翼の力で押し戻せばよい」


言い切った。


迷いがない。


迷いがないのは強さだが、


間違っている時の迷いのなさは災害に近い。


ベテラン騎竜士は何か言い返しかけて、やめた。


職場で上司と正面衝突するのは、だいたい給金に悪い。


正しい判断である。


ロイドも何も言わなかった。


こういう相手に理屈は、最初は届かない。


数字が届く。


もっと正確に言うと、


数字に殴られて初めて、人は紙を見る。


運行室に戻ると、空気がいつもより散らかっていた。


人の心が散らかると、机も散らかる。


不思議な相関関係である。


そして白板の前で、グレゴールが立ち止まった。


十七便の線。


時刻。


荷重。


補給順。


分岐。


余白。


ロイドの頭の中を、無理やり板に落としたもの。


グレゴールはそれをしばらく眺めていた。


眺めた末に言った。


「子供の落書きだな」


リリの肩がぴくっと跳ねた。


整備士の一人が、思いきり顔をしかめた。


会計係は「やっぱりそう来るんだ」と書いてある顔をした。


ロイドだけが無反応だった。


正確には、反応する価値が薄いと判断した。


代わりに机から一枚の伝票を取る。


昨夜の王家急送品の到着記録。


遅延ゼロ。


補給誤差なし。


破損なし。


その紙を、グレゴールへ差し出した。


「何だ」


「結果です」


グレゴールは受け取った。


ざっと目を通す。


表情は変わらない。


変わらないが、目だけが一瞬止まった。


その止まり方を、ロイドは見逃さなかった。


数字を理解しない人間でも、


数字が自分に都合悪いことくらいはわかる。


「昨夜の嵐でも、全便着きました」


ロイドは淡々と言う。


「その“落書き”で回しています」


グレゴールは伝票をロイドの胸に押し返した。


「紙の上の話だ」


「物流はだいたい紙から始まります」


「始まりなどどうでもいい。終わりは翼が決める」


「終わりに辿り着く前に詰まれば、始まった意味がありません」


リリが、明らかに「やめてください胃が痛いです」という顔になっていた。


たぶん本当に痛いのだろう。


若手に優しくない朝である。


グレゴールは白板をもう一度見て、吐き捨てるように言った。


「いずれ整理が必要だな」


そのまま去っていく。


整理。


便利な言葉だ。


人員削減にも使える。


机の片づけにも使える。


そして、気に入らないものを消す時にも使える。


扉が閉まると同時に、運行室の全員が一斉に息を吐いた。


聞いたことのないほど揃ったため息だった。


たぶん今なら合唱団が作れる。


「ロイドさん」


リリがこっそり寄ってくる。


声を潜めているが、潜め方が下手なので普通に聞こえる。


「あの人やばいです」


「大丈夫だ」


「どこがですか!?」


「数字は嘘をつかない」


ロイドは白板に向き直った。


チョークを取り、さっきグレゴールに見られた線を一本引き直す。


少しだけ角度がずれたからだ。


そこは正しておきたい。


気になる。


とても気になる。


「俺がいなくなれば、数字が俺の代わりに喋る」


リリは目を丸くした。


「その喋り方、怖いです」


「今日はよく言われるな」


「今日はじゃなくて普段からです!」


「そうか」


「そこは否定してくださいよ!」


ロイドは否定しなかった。


代わりに、十七便の発進順を口に出し始める。


王都定例便、北部巡回便、海峡補給便――


運行室がまた動き出す。


昨夜の嵐が去っても、別の嵐はもう始まっていた。


目に見えない種類の嵐だ。


価値観が違う上司。


紙を軽んじる判断。


空だけを見て、地上を見ない目。


それは風より長く居座る。


けれどロイドは、白板の前で静かだった。


怒っていない。


怯えてもいない。


ただ、数字が積み上がる先を見ていた。


それはたぶん、三日後くらいには形になる。


形になれば、誰の目にも見える。


見えれば、もう言い逃れできない。


ロイドは伝票束を揃えた。


机の端には、隠し損ねた饅頭がまだある。


リリが視線だけでちらちら見ている。


「食べていいですか」


「一個だけだ」


「やった!」


「その代わり、南部薬材便の控えを五部書け」


「急に条件が重い!」


「饅頭は対価だ」


「この職場、甘味に対して厳しすぎません!?」


リリが包みを開けた瞬間、


廊下の向こうでまた式典の鐘が鳴った。


今度は短い。


一度だけ。


だが妙に耳に残る音だった。


ロイドは手を止めないまま、心のどこかで思う。


ああ。


この鐘はたぶん、始まりの音だ。


いい始まりではない。


だが、間違いなく何かが動き出した音だった。


そして三日後。


グレゴールは、全員の前でロイドに“ある質問”をすることになる。


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