表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/6

第1話 嵐の夜、伝票一枚



その夜、飛竜配送ギルド《ウィングメイル》の運行室は、だいたい終わっていた。


窓を叩く雨が、もはや叩くというより殴る勢いだったからだ。


板張りの壁が、びりびり震えている。


扉の隙間から吹き込む風で、机の上の伝票が何枚も舞い上がった。


「うわっ、待って待って待って、王都便の控えが!」


若い整備士見習いのリリが、半泣きで床に這いつくばる。


飛び散る紙。


鳴りやまない呼び鈴。


廊下を走る足音。


奥では、誰かが怒鳴った。


「西航路、完全に潰れたぞ!」


「南回りもだ! 第二嵐帯が早すぎる!」


「王家急送品があるんだ、止めるなって上が――」


「止めるなって言われて止まらない嵐なら、俺が今ごろ空の神だ!」


もっともである。


しかし、もっともなことを言っても荷物は届かない。


運行室の中央に据えられた大きな白板――まだ“ホワイトボード”なんて洒落た呼び名はない、ただの白い板だ――には、大陸地図と航路線がびっしり書き込まれていた。


その前に立つ男だけが、妙に静かだった。


ロイド・ハーヴェイは、舞い上がる伝票の一枚を空中でつまみ取ると、視線だけで部屋を見回した。


「リリ」


「は、はいっ」


「泣くのは配達が終わってからにしてくれ」


「まだ泣いてません!」


「その声は八割泣いてる」


「じゃあ残り二割に賭けてください!」


妙な返しだったが、ロイドは「よし」とだけ言った。


この程度の軽口が返ってくるなら、まだ壊れていない。


壊れていない人間は使える。


壊れている嵐より、よほど話が早い。


ロイドは伝票を机に並べた。


王家急送品、医療資材、北方産の香辛料、工房向けの魔鉱石、司祭庁あての封蝋箱、貴族家の婚礼衣装、そしてただの大量の保存肉。


全部で七口。


最悪の取り合わせだった。


急ぐものと、重いものと、温度を気にするものと、絶対に濡らせないものが、揃いも揃って「今日中に行け」と主張している。


荷物に口があれば、運行室は今ごろ大乱闘だ。


いや、口がなくても十分うるさい。


「ロイド責任者!」


年嵩の騎竜士が飛び込んでくる。


革の外套は雨でびしょ濡れ、額には焦りが張りついていた。


「東の山脈越えも厳しい! 風が渦を巻いてる!」


「高度は」


「低空は乱流、高空は横風。どっち選んでも嫌な感じだ!」


「嫌な感じ、か」


ロイドは頷いた。


現場の人間が言う“嫌な感じ”は、下手な数値より信用できる。


風は気分屋だ。


そして、気分屋ほど経験則に従う。


ロイドは白板に近づいた。


大陸地図。


山脈。


海峡。


街道。


補給塔。


飛竜の巡回時間。


その全部が、頭の中ではすでに立体になっている。


今夜は三つの嵐が動いていた。


西から入った長雨の低気圧。


南海から押し上げる湿った暴風。


そして北東山脈にぶつかって生まれた局地渦。


最悪だ。


だが最悪には、最悪なりの癖がある。


ロイドは白板の前に立ったまま、目を閉じた。


部屋の喧騒が、すっと遠くなる。


紙の擦れる音。


雨。


竜舎の鎖。


誰かの舌打ち。


それらが全部、地図の上に落ちていく。


「五頭、使えるな」


目を開けて言うと、周囲が一斉にこちらを見た。


ベテラン騎竜士が眉をひそめる。


「五頭? この天気で全部飛ばす気か?」


「全部は飛ばさない」


ロイドはチョークを取り、地図に三本の弧を引いた。


まっすぐではない。


綺麗でもない。


だが、妙に迷いがない線だった。


「西の嵐は、海から入って四刻ごとに呼吸をする。今は吐いてる最中だ。次に吸うまで八十三分。南の暴風は川沿いを嫌う。湿気を抱えすぎて沈むからだ。北東の渦は山肌から四里離れると痩せる」


沈黙。


運行室の全員が、ぽかんとした。


リリだけが、おずおずと手を挙げた。


「ええと……つまり?」


「通れる」


「すごく雑にまとめましたね!?」


「今は時間がない」


それはそうだ。


ロイドは伝票を五つに分けた。


王家急送品と医療資材。


香辛料と封蝋箱。


婚礼衣装単独。


魔鉱石と保存肉。


そして最後に、予備便。


「第一便は王都方面。北河沿いを低空、赤岩塔で一度待機、その後に山脈南縁を切る。第二便は南東回り。海峡は捨てろ、川筋を使え。第三便は婚礼衣装だけ積め。軽い、速い、濡らすな。第四便は重いものをまとめる。遅いが安定する。第五便は空けておく」


「空ける?」


「何かが必ずズレるから、そのズレを飲み込む」


ベテラン騎竜士が、鼻を鳴らした。


「お前さんの頭の中、どうなってるんだ」


「散らかってます」


「そうは見えねえな」


「机の引き出しはかなり汚いです」


リリが小声で「それは知ってます」と言った。


余計な情報である。


ロイドはそれを無視した。


そして、すぐ横の伝票束から一枚抜き取って、裏に数字を書き連ねる。


積載重量。


補給の余裕。


旋回時のロス。


待機時間。


雨量増加の見込み。


計算というより、確認に近かった。


頭の中ではとっくに答えは出ている。


紙に落とすのは、他人を納得させるためだ。


この世界では、空を飛ぶ者の言葉は重い。


地上にいる者の言葉は、どうしても軽く見られる。


だったら、紙に乗せる。


紙は、意外と人間より頑丈だ。


「ロイドさん」


リリが白板を見上げたまま、言った。


「本気でこのルートで飛ばすんですか?」


「本気だ」


「でも、風なんて読めるんですか?」


ロイドはチョークを置いた。


ほんの少しだけ、口元が緩む。


「風は数式じゃない。経験と勘だ」


リリが、やっぱり無理では、という顔をする。


ロイドは続けた。


「でも、経験と勘は数式より正確だ」


その一言で、運行室の空気が変わった。


理屈が全部わかったわけではない。


だが、この男はわかった上で言っている。


それだけは、全員に伝わった。


ロイドは振り返る。


「第一便、グラン。第二便、フェズ。第三便、ネリオ。第四便、バート。第五便は予備で俺が回す」


「お前が?」


一人が吹き出した。


「ああ、悪い、乗れねえんだったな」


場が一瞬だけ凍る。


言った本人も、しまったという顔になった。


ロイドは慣れていた。


二十七年も生きていれば、慣れたくなくても慣れる。


ドラゴンに乗れない。


騎竜術の適性がない。


脚も腕も、反射も体幹も、一般人より少し下だ。


昔は何度も訓練台から落ちた。


あまりにも落ちるので、教官から「地面に愛されているな」と慰められたことがある。


嬉しくない。


一度も嬉しくなかった。


だが、その代わりに得たものもある。


飛べないから、全体が見えた。


一頭分の空ではなく、大陸全部の空が。


ロイドは騎竜士に伝票を渡した。


「俺が地上にいるから、あんたが安心して空にいられる」


ベテラン騎竜士は、少しだけ目を見開いた。


それから、にやりと笑う。


「……違いねえ」


「違うと言われると困る」


「そこは自信持てよ」


「持ってる。だから急げ」


すると運行室が、ようやく動いた。


人間は不思議なもので、怒鳴られるより、筋の通った段取りを渡されるほうが速く動く。


第一便、発進準備!


補給確認!


尾翼金具よし!


雨覆い増し締め!


王家急送品、固定再確認!


怒号が、今度は機能する音に変わる。


ロイドは机を叩いた。


「リリ、赤岩塔へ伝令! 第一便が待機に入る前提で、灯火を二つ増やせ。あと第二便の荷締め、香辛料と封蝋箱を上下逆にするな。前回やっただろ」


「やってません! あれは箱のほうが勝手に――」


「箱は自力で移動しない」


「たまにしますよ、そういう気配を出す箱!」


「気配は出しても移動はしない」


「くっ……正論!」


リリは走っていった。


足元の伝票を踏みかけ、くるりと回って持ち直し、今度は扉の枠に肩をぶつけた。


「痛っ!」


「壊れるなよ」


「まだ二割泣いてるだけです!」


「十分危ないな」


ロイドは白板の前に戻る。


第一便の発進時刻を書き込む。


その隣に、第二、第三、第四。


さらに予備便の欄を空白のまま残した。


空白は嫌いではない。


計画に余白がないと、人は余裕をなくす。


余裕をなくした人間は、だいたいろくな判断をしない。


たとえば今、運行室の隅で頭を抱えている会計係のように。


「ひぃ……王家便が遅れたら違約金が……」


「遅らせない」


「でも嵐が!」


「嵐は言い訳になる。混乱は言い訳にならない」


ロイドは短く言った。


それが彼の口癖だった。


遅延は許容する。


混乱は許容しない。


現実に遅れることはある。


空は人間に従わない。


だが、遅れた結果どこが詰まり、何が不足し、どの便を切ってどの便を生かすか――それが決まっていれば、組織は死なない。


逆に、誰も全体を見ていなければ、一刻の遅れが一夜で崩壊になる。


ロイドはそういう崩壊を、何度も見てきた。


見たくもないのに。


外から低いうなりが聞こえた。


第一便の飛竜が、出る前の鳴き声を上げている。


怖いのだ。


飛竜だって怖い。


風が牙を剥く夜に、好き好んで空へ行く生き物ではない。


竜舎から駆け込んできた係員が叫ぶ。


「第一便、いけます!」


「出せ」


「本当に!?」


「今しかない」


半信半疑のまま、第一便が出た。


大扉が開く。


吹き込んだ雨に、室内の灯りが揺れる。


巨大な翼が、闇を切り裂いた。


飛竜が一頭、運行室の窓の向こうを横切り、雨の幕の中へ消えていく。


数秒遅れて、低い歓声が漏れた。


出しただけだ。


まだ着いていない。


それでも、人は最初の一歩で少しだけ救われる。


ロイドは次の伝票を取る。


「第二便、五分前倒し」


「は!?」


「南の風が湿りすぎてる。川筋に落ちるのが早い。今なら間に合う」


「今、そういうのわかるんですか!?」


「匂いで」


「匂いで!?」


リリが振り返って素っ頓狂な声を上げた。


ロイドは頷く。


「雨の匂いが変わった」


「怖い、この人!」


「安心しろ。俺も時々怖い」


第二便、発進。


第三便、婚礼衣装便は、積載が軽い分だけ神経を使う。


軽い荷は風に遊ばれやすい。


それに婚礼衣装という荷物は、妙な圧を持っている。


王家急送品が遅れるより、婚礼衣装が泥をかぶったほうがなぜか修羅場になることがある。


人間社会とは難しい。


「第三便、出ます!」


「上げすぎるな、雲の腹に入る」


「了解!」


「あとネリオ」


「なんだ!」


「絶対に濡らすな。花嫁の家族は嵐より怖い」


一瞬の間。


そして運行室に、妙に実感のこもった笑いが走った。


「そりゃそうだ!」


「去年見たぞ、母親の顔!」


「竜が泣くやつだ!」


緊張の糸は、張り詰めすぎると切れる。


だから少し笑うくらいがいい。


ロイドは四便目まで送り出すと、ようやくひと息ついた。


ひと息だけだ。


予備便はまだ生きている。


白板を見つめたまま、彼は小さく指先で机を叩く。


第一便は赤岩塔に着いた頃か。


第二便は川筋を抜ける。


第三便は東回りの横風に入る。


第四便は重いから、むしろ安定する。


問題は――第一便の待機が長引いた場合だ。


その時は予備便を王都北門へ直送し、医療資材だけ切り離す。


いや、待て。


医療資材だけなら第二便に半分移せる。


封蝋箱を後ろにずらし、香辛料を――


「ロイドさん!」


伝令係が飛び込んできた。


「赤岩塔より灯火信号! 第一便、予定通り!」


運行室に、どっと空気が戻る。


誰かが机に突っ伏した。


誰かが天井を仰いだ。


会計係はなぜか泣いた。


まだ早い。


泣くのは本当に終わってからでいい。


だが、ロイドも少しだけ息を吐いた。


線は繋がった。


あとは、その線が切れないように結び直すだけだ。


夜は長かった。


一便ごとに伝令が飛ぶ。


赤岩塔通過。


第二便、川筋良好。


第三便、東回り成功。


第四便、重量便安定。


途中で一度、第三便が横風に押されて補給塔へ降りる小さな狂いはあった。


だが、そのために予備便がある。


ロイドは第五便に婚礼衣装の護送役を移し、第三便の騎竜士を軽くして再発進させた。


「そんな使い方するんですか!?」


リリが叫ぶ。


「余らせた便は使うためにある」


「保険じゃなくて刃物みたいに振るうんですね!?」


「保険は使って初めて意味がある」


「考え方が怖い!」


「さっきからそればっかりだな」


「だって本当に怖いんですもん!」


夜半を過ぎる頃には、運行室の全員がロイドの白板を見て動くようになっていた。


指示を待つのではない。


次に必要な伝票を先回りして集める。


竜舎に予備鞍を運ぶ。


補給塔への伝令文をあらかじめ書く。


人が流れ始める。


混乱が、秩序に押し返されていく。


その様子を見て、最初に鼻を鳴らしたベテラン騎竜士がぼそりと言った。


「お前、空に上がってくれりゃもっと楽なんだがな」


ロイドは視線を上げもしなかった。


伝票に刻限を書き込みながら、答える。


「俺が地上にいるから、あんたが安心して空にいられる」


さっきと同じ言葉だった。


だが、今度は運行室の何人かがはっきり頷いた。


理屈ではなく、実感として。


明け方前。


雨脚が少し弱まった。


空の色が、墨の黒から鈍い藍へ変わっていく。


窓辺に立ったリリが、信号塔の灯りを見つめている。


「……帰ってきた」


第一便だ。


少し遅れて第二便。


第三便。


第四便。


生きて帰ってくる翼の影が、次々に夜を裂く。


荷物が降ろされる。


控えの印が押される。


王家急送品、着。


医療資材、着。


婚礼衣装、無傷。


封蝋箱、破損なし。


魔鉱石、数量一致。


保存肉、ちょっと冷えすぎ。


ちょっと冷えすぎは問題ない。


むしろ保存肉としては優秀である。


会計係が伝票を見て呆然とした。


「遅延……ゼロ……?」


ロイドは頷いた。


「ゼロだ」


「この嵐で……?」


「この嵐だからだ」


「意味がわからない……」


「わからなくていい。次から覚えろ」


リリが、ぐしゃぐしゃになった髪のまま、目を輝かせてロイドを見た。


「ロイドさん、すごいです!」


「知ってる」


「自分で言うんですね!?」


「今は言っていい場面だ」


「なんか悔しい!」


運行室に、疲れ果てた笑いが広がる。


誰かが椅子に座ったまま寝た。


誰かが飛竜の帰還報告を書きながら、文字を三回ほど失敗した。


ロイドは白板の前に立ち尽くしていた。


全部の線が、終点に辿り着いている。


それを見る瞬間だけは、少しだけ満たされる。


飛べはしない。


だが、飛ばした。


それで十分だと、自分に言い聞かせてきた。


窓の外。


帰還した飛竜が翼をたたむ。


濡れた鱗に、明け方の薄い光が乗る。


綺麗だ、とロイドは思う。


触れられないものほど、綺麗に見える。


その時だった。


運行室の扉が、乱暴に開いた。


使いの者が、息を切らして立っている。


顔色が悪い。


走ってきたせいだけではない。


何か、もっと嫌なものを持ってきた顔だった。


「ロイド責任者!」


「どうした」


「先代ギルド長様が……」


一瞬、部屋の音が消えた。


笑いも、紙の音も、鱗の擦れる音も。


全部、遠くなる。


先代ギルド長。


ロイドをこの席に置き、騎竜に乗れない彼間を切らなかった、たった一人の上司だ。


喉の奥が冷えた。


だが、ロイドは使いの者の顔から視線を外さない。


「……続きは後で聞く」


「しかし――」


「今は便を飛ばす」


明け方の便がある。


夜が明けても物流は終わらない。


むしろ始まる。


使いの者は、唇を噛み、頷いた。


ロイドは白板へ向き直る。


そこにはまだ、消していない線が残っていた。


嵐を抜けた線。


紙の上にだけ存在する、夜の勝ち筋。


その下、机の引き出しが半分だけ開いていた。


奥に、封を切っていない辞令らしき封書が見える。


ロイドは、それに気づかないふりをした。


気づけば、何かが始まってしまう気がしたからだ。


窓の外では、空が少しずつ白んでいく。


運行室の匂いも変わり始めていた。


雨と汗と竜舎とインクの匂いに、朝の冷たい空気が混ざる。


夜は終わる。


そしてたぶん、このギルドの空気も、今日で終わる。


ロイドは最後の伝票を揃え、静かに呟いた。


「……明日から、このギルドの空気は変わる」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ