第7話 犬さんには時間停止が効きませんの!?
「犬も歩けば棒に当たる。ならば私が歩けば珍味に当たる、ですわ♡」
「師匠。今日は魔物の討伐ですよね?」
「ええ、もちろんですわ♡」
魔族大陸へ上陸して二日目。
私たちは港町ハルガードの北に広がる森へ向かっていた。
目的は、街道を荒らし回る巨大な犬型モンスターの討伐である。
「偵察隊を壊滅させた魔物だ。油断は禁物だぞ」
アリシアさんは剣の柄に手を添え、周囲を警戒していた。
「美食さん。珍味禁止令も忘れてませんよね?」
「ええ。生食はいたしませんわ♡」
「生食だけじゃなくて、怪しい珍味全部です!」
「……厳しいですわねぇ」
先日の食中毒事件以来、リーンさんは私の食事に目を光らせている。
あの時は本当に死にかけたのだから、心配するのも無理はない。
けれど今回は、危険な魔物の討伐が第一。食事のことは後で考えましょう。
「それにしても、犬型の魔物か」
アリシアさんが考え込む。
「偵察兵によれば、罠にも魔法にもなかなかかからないそうだ」
「まあ。お利口な犬さんなんですのね♡」
「褒めている場合でしょうか……」
リーンさんが呆れる。私は気にせず手帳を開いた。
未知の生き物を理解するには、まず観察。前世から変わらない、私の基本姿勢である。
やがて前方に、壊れた荷馬車が現れた。
車輪は外れ、荷台には巨大な爪痕。辺りには積み荷が散乱している。
「……例の魔物に襲われたのだろうな」
アリシアさんが足跡を調べる。
「普通の狼とは比べものにならない大きさだ」
「まあ! どんな犬さんか楽しみですわ♡」
「観察より先に命を守ってくださいね!?」
その時。
「グルルルル……」
森の奥から低い唸り声が響いた。
木々の間に二つの赤い光が浮かび、巨大な黒い獣が姿を現す。
人間の背丈を超える巨体。鋭い牙、太い四肢、漆黒の毛並み。口元からは黒い煙が漏れていた。
「ヘルハウンド……!」
アリシアさんが剣を抜く。
「二人とも下がって!」
「まあ。立派な犬さんですこと♡」
どれほど凶暴でも、私には頼もしい能力がある。
まずは動きを止め、じっくり観察してから対処すればいい。
「《時間停止》!」
カチンッ。
風が止まり、舞い上がった木の葉が空中に浮かぶ。
アリシアさんもリーンさんも、瞬き一つしない。
「さて、お身体を拝見……」
「グルルルル……」
「…………」
私は首を傾げた。
ヘルハウンドさんが、こちらへ歩いてくる。
「……あら?」
一歩右へ動くと、犬さんの顔も右へ。
左へ動けば、赤い目がこちらを追ってくる。
試しに振り返る。木の葉も、仲間も、確かに静止している。
なのに犬さんだけが動いている。
私は思わず頬をつねった。痛い。夢ではない。
そういえば地球でも「時間停止中に犬だけ動いている」という奇妙な噂がありましたわね。
あんな馬鹿馬鹿しいお話、まさか異世界の法則だったんですの!?
「犬さんに時間停止が効きませんのぉぉぉ!?」
「ガアアアッ!!」
「ひぃっ!?」
魔犬が跳びかかってきた。
私の身体能力は、ごく普通の二十九歳女性。こんな巨獣の突進をかわすなど不可能だ。
「《絶対切断》!!」
咄嗟に右手を振る。
魔犬は瞬時に身体を捻って跳び退いた。
シュパッ!
「ギャンッ!」
尻尾の先端がわずかに切れ、地面へ落ちた。
魔犬は傷ついた尻尾を見つめ、それから私を睨みつける。
先ほどまでの獰猛な表情に、明らかな警戒が混じっていた。
「……あら?」
魔犬は距離を取り、低く唸った。
こちらの一撃が危険だと理解したらしい。
「これは、厄介ですわね……」
私は時間停止を解除した。
「師匠!? もう攻撃されたのですか!?」
アリシアさんが、切れた尻尾を見て驚いた。
「それより大変なことがありますの。この犬さん、時間を止めても動くんですわ!」
「……なんですって!?」
「どうして犬だけなんですか!?」
「……犬さんだから、でしょうか?」
「そんな説明で納得できませんよ!!」
私だって納得したいですわぁ!
◆
ヘルハウンドさんが大口を開け、黒い炎を吐き出した。
「危ない! 《飛翔斬》!」
アリシアさんの光の斬撃が炎を裂く。左右に分かれた火柱が地面を焦がした。
「炎まで吐きますの!?」
「師匠は下がっていてください!」
アリシアさんが斬り込む。しかし魔犬は剣をかわし、木々の間を駆け抜けた。
その動きは凄まじく速い。
私が一歩近づくと、魔犬は数歩後退する。右手を向ければ、即座に横へ跳んだ。
「……まさか」
《絶対切断》の射程は約二十メートル。
時間停止中の初撃を受け、魔犬は私を危険な相手と覚えた。そして今、間合いを探りながら安全な距離を見極めている。
「この犬さん……私の射程距離まで学習していますの!?」
試しに攻撃するが、刃は届かない。魔犬は二十数メートル先に立ち、牙を剥く。
その知性は、そこらの魔物とは比較にならなかった。
私は木の陰から別方向へ移動してみた。
すると、犬さんも私を中心とした円を描くように位置を変える。
近づこうとはしない。けれど、見失うほどには離れない。
まるで、私の腕が届く範囲を定規で測っているようだった。
「アリシアさん、この犬さん、私のことをよく見ていますわ!」
「それだけ師匠を恐れているということです。ですが……!」
アリシアさんが地面を蹴り、魔犬へ斬りかかった。
その隙に私が近づこうとすると、魔犬は剣を避けると同時に遠ざかる。
「……私を近づけないことまで計算していますのね」
こちらの攻撃が届かなければ、いくら何でも切れませんわ。
再び黒炎が放たれる。
「《時間停止》!」
火炎は空中で静止した。
これなら炎を避けられる。けれど――。
「グルルルル……」
魔犬だけは動いていた。
しかも、静止したアリシアさんの横をすり抜け、私に向かってくる。
「……あら?」
「グルル……」
リーンさんもアリシアさんも動かない。誰も助けてくれない。
魔犬がそれを理解しているかのように、ゆっくり牙を剥いた。
「……あらあらあら!?」
私は慌てて叫んだ。
「時間停止解除! アリシアさぁぁん!!」
「師匠っ!!」
アリシアさんが割って入り、魔犬の牙を剣で受け止めた。
ガキィン!!
「ぐっ……! 師匠、逃げて!」
「は、はいですわぁぁ!!」
私は全力で走った。もっとも、速くはない。
リーンさんに手を引かれ、ようやく岩陰に逃げ込む。
「……こ、怖かったですわ……!」
心臓が激しく鳴っていた。
これまで《時間停止》は、どんな危機からも私を守ってくれた。
なのに今は、発動すれば仲間だけが止まり、私一人が魔犬に狙われる。
「……時間停止が、使えませんのね……」
アリシアさんは懸命に戦っているが、攻撃は当たらない。
リーンさんは魔犬の爪で傷ついた彼女の腕を治療し、また私のもとへ戻ってきた。
「アリシアさん、まだ戦えますか!?」
「当然だ! だが、あの速さでは剣を振るうだけでも消耗する……!」
リーンさんも額に汗を浮かべていた。攻撃のたびに駆け寄って治療しているため、魔力も体力も削られている。
このままでは、いつかどちらかが倒れてしまう。
「美食さん、何か作戦はありませんか!?」
魔犬は私から距離を取り、離れた位置から炎を吐く。
追えば逃げ、逃げれば追ってくる。何とも賢い犬さんだ。
私は必死に考えた。
犬さん。犬さんと言えば……。
「……あっ!」
◆
「うふふ……こんなこともあろうかと♡」
私は背負い袋から、一本の大きな骨を取り出した。
港町で買った、魔牛さんの大腿骨。野営でお出汁を取ろうと、大切に持ち歩いていたものだ。
「……師匠、それは?」
「犬さんといえば骨ですわ! こちらに注意を向けさせ、その隙を突きましょう♡」
「なるほど! さすが師匠!」
アリシアさんが目を輝かせた。
私は骨を高々と掲げる。
「犬さーん! ほらほら、美味しそうな骨ですわよぉ♡」
「グルルル……」
「よーく見ていてくださいませ。……持ってこい♡」
ぽーん。
骨がきれいな放物線を描く。
魔犬の目の前を通り過ぎ、地面へ落ちた。
かこんっ。
「…………」
「…………」
「…………」
魔犬は、完全に無視した。
骨の方を見ようとすらしない。
「……あら?」
風が吹く。
地面の骨が、ころりと転がる。
「……師匠。見向きもしませんね」
「……そうですわね」
リーンさんがため息をついた。
「まあ、魔王軍も恐れる魔物ですし……」
「犬さんなのに骨を無視するんですのぉぉぉ!?」
「普通の犬と同じにしないでください!!」
せっかく持ってきたのに、まったく役に立ちませんわ!
そこへ魔犬が再び炎を吐いた。アリシアさんが防ぐが、肩で息をしている。
「師匠、このままでは……!」
私の足では追いつけない。時間停止も通用しない。
けれど、射程の二十メートルにさえ入れば倒せる。
……別に、自分の足で近づく必要はありませんわよね?
私はアリシアさんを見た。
魔犬と渡り合えるほどの腕力。鍛え抜かれた身体。
「……閃きましたわ!」
「師匠! どんな作戦ですか!?」
「骨じゃなくて私を投げてくださいまし!!」
「…………は?」
アリシアさんが固まった。
「私を! 犬さんに向かって! 思いっきりですわ!!」
「し、師匠!? 何をおっしゃっているんですか!?」
「私では追いつけませんが、アリシアさんのお力で飛ばしていただければ、瞬時に射程内へ入れますわ♡」
「美食さん! 自分の身体能力が普通の女性だって忘れてません!?」
「もちろんですわ。だから投げていただくんですの!」
「投げた後はどうするんですか!?」
「…………」
私は少し考えた。
「……その時に考えますわ♡」
「絶対駄目ですぅぅぅ!!」
けれど、ほかに勝機はない。
私は少しだけ怖くなった。もちろん、投げられるのがだ。
高いところから落ちるのは痛い。前世で階段を踏み外しただけでも泣きそうになった私が、今度は空を飛ぼうとしている。
それでも、二人をこれ以上危険にさらしたくない。
私はアリシアさんの手を握った。
「お願いします。あなたを信じていますわ」
「……師匠」
彼女は一瞬ためらい、それから頷いた。
「分かりました。私も師匠を信じます!」
「ありがとうございます♡ できれば優しくお願いいたしますわ」
「思いっきりと言ったのは師匠でしょう!?」
◆
アリシアさんが私を両腕で抱え上げた。
魔犬は三十メートルほど先からこちらを睨んでいる。
私に近づけば切られると学んだ賢い犬さんでも、まさか人間が人間を投げてくるとは考えまい。
「……行きます、師匠!」
「お願いいたしますわ!!」
「はああああっ!!」
アリシアさんが身体をひねり、渾身の力で私を放り投げた。
ゴォッ!!
「ひぃぃぃぃぃぃっ!?」
速い。
想像より遥かに速い。
風が顔面を叩き、木々が一瞬で後ろへ流れていく。
「グルッ!?」
魔犬が目を見開いた。
当然だ。三十メートル先にいた女が、突然砲弾のように飛んできたのだから。
魔犬は咄嗟に跳び退く。
けれど、もう遅いですわ。
二十五メートル。
二十メートル。
「……射程内ですわ!!」
私は空中で右手を突き出した。
「《絶対切断》!!」
シュパッ!!
一閃。
魔犬の巨体が崩れ落ちた。
「……やりましたわぁぁぁ!!」
ついに倒した!
あれほど恐ろしかった犬さんを、三人で!
「……あ」
私はそこで、重大な問題に気づいた。
私は今、凄まじい速度で空を飛んでいる。
「……着地は?」
ドシャアアッ!!
「ぎゃああああああっ!!」
地面に落ちた私は、そのままごろごろごろごろ転がった。
小石が跳ね、土煙が舞う。
背中で一回転、肩で二回転。どこが上でどこが下なのかも分からない。
ああ! 転がるのは雪だるまだけで十分ですわぁぁ!!
「いだだだだだっ!?」
ようやく止まった時には全身泥だらけ。手足は擦り傷だらけで、身体中が痛い。
「……し、死にますわ……」
「美食さぁぁん!!」
リーンさんが駆け寄り、すぐに魔法をかけた。
「《ヒール》!」
緑の光に包まれ、痛みが引いていく。
「ああ……生き返りますわぁ♡」
「だから言ったじゃないですか! 普通の人間が投げられたらこうなるんですよ!!」
「でも、ちゃんと倒せましたわ……」
「成功したからって正しい作戦だったことにはなりません!」
アリシアさんも駆けつけてきた。
「師匠! ご無事ですか!?」
「ええ。リーンさんのおかげですわ♡」
「……よかった。投げた瞬間、私もどうかしていたと思いました……」
「今さらですか!?」
リーンさんの叫びが森に響く。
◆
倒れたヘルハウンドさんを前に、私たちはしばらく立ち尽くした。
「……勝ったんですね」
「……ああ。三人で勝ったんだ」
アリシアさんが大きく息を吐く。
私はその場にへたり込んだ。
「……こ、怖かったですわぁ……」
目から涙がこぼれた。
時間停止が効かないと分かった瞬間、本当に終わりだと思った。
能力を使うほど仲間が止まってしまうなんて、想像もしなかった。
「師匠……」
アリシアさんが肩を抱き、リーンさんも手を握ってくださった。
「美食さん一人では無理でも、私たちがいますからね」
「……ええ。本当に、お二人がいてくださってよかったですわ♡」
初めての本当の苦戦。
そして、仲間とつかんだ勝利。
この喜びは、今までの戦いとは違っていた。
私には強大な能力がある。けれど、私自身が強いわけではなかった。
その当たり前のことを、ようやく思い知らされた。
もし二人がいなければ、尻尾を切った直後に食べられていたかもしれない。
そう考えると、握った手に自然と力がこもった。
「……ところで」
私は魔犬さんを見つめた。
「この犬さん、雄ですわよね?♡」
「…………」
「これほど苦労して倒したんですもの。きっと珍味も格別ですわぁ♡」
「美食さん。珍味禁止令、まだ解除してませんよね?」
「……今回だけ! 今回だけ特別にお願いできませんこと!?♡」
「子供みたいにおねだりしないでください!」
「ですが、命がけで頑張りましたものぉ!」
アリシアさんが苦笑する。
「リーン。今回は褒美を与えてもいいのではないか? 師匠も、命を無駄にしたくないのだろう」
「アリシアさんまで……!」
リーンさんは深くため息をついた。
「……安全を確認すること。怪しい部位は諦めること。必ず十分に加熱すること! 約束できますか?」
「もちろんですわぁ♡」
◆
夕方、私たちは討伐した魔犬を港町へ持ち帰った。
街道の安全が戻ったと知り、警備隊も町の人々も大喜びだった。
私は魔獣料理に詳しい料理人さんにも相談し、安全性を確認できた部分だけを、十分に加熱していただくことにした。
「……いただきます♡」
ぱくっ。
「んんん~~っ♡」
しっかりした歯応えに、濃厚な旨味。噛みしめるほどに深い味が広がっていく。
「ああ……生きていてよかったですわぁ……♡」
また涙がこぼれてしまった。
「……美食さん。さっきとは違う意味で泣いてません?」
「だって、こんなに美味しいんですものぉ♡」
アリシアさんも笑う。
「……師匠は、やはり師匠ですね」
私は手帳を開いた。
『ヘルハウンド。俊敏かつ知能が高い』
『時間停止が効かない。理由は不明』
『絶対切断の射程を学習。極めて危険』
『十分に加熱した珍味は、苦労に見合う味わい♡』
『アリシアさん――投擲能力、極めて優秀♡』
「……あの、師匠」
「はい?」
「もう二度と師匠を投げたくはないのですが……」
「まあ! 残念ですわねぇ」
「残念がらないでください!!」
リーンさんの声に、私たちは三人で笑った。
魔族大陸には、これからも恐ろしい魔物が待っているだろう。
けれど、私はもう一人ではない。
「さあ! 魔王様のおちんぽ目指して、これからも頑張りますわよぉ♡」
「はい、師匠!」
「せめて魔王討伐って言ってくださぁぁぁい!!」
――第7話 完――




