服は貸せない
翌朝。
神谷優人は、スマホの通知音で目を覚ました。
目覚ましではない。
通知だ。
嫌な予感がした。
この数日で学んだことがある。
朝の嫌な予感は、だいたい202号室から来る。
優人は布団の中でスマホを手に取った。
画面には、知らない番号からのメッセージが表示されている。
いや、もう知らない番号ではない。
昨日の夜、勝手に黒崎から聞き出して送ってきた番号。
地雷ちゃんである。
『起きた?』
優人はしばらく画面を見つめた。
既読をつけたくない。
だが、もう見てしまった。
人間はなぜスマホを見るのか。
優人は心の中で大きくため息を吐いた。
『起きてません』
そう返すと、すぐに返信が来た。
『嘘つけ』
『用件は何ですか』
『服』
短い。
嫌なほど分かりやすい。
昨日の夜から続いている問題。
明日着ていく服がない。
つまり今日の問題だ。
『貸しません』
『まだ何も言ってない』
『言う前から分かります』
『ケチ』
優人はスマホを布団に投げた。
朝から疲れる。
まだ起き上がってすらいないのに、もう会社で一時間働いたくらいの疲労感がある。
優人はしばらく天井を見つめた。
今日、地雷ちゃんは制服を店へ取りに行く予定だ。
つまり、そのための外出着が必要なのだろう。
だが、服を貸せという発想はおかしい。
そもそも優人の服を着てどうするのか。
サイズも違う。
雰囲気も違う。
スーツでも着るつもりなのか。
想像して、優人は少しだけ笑いそうになった。
いや、笑っている場合ではない。
優人は起き上がり、顔を洗い、いつも通りスーツに着替えた。
ドアの外が怖い。
開けた瞬間、何かが起こる気配しかしない。
それでも会社には行かなければならない。
人類は働くためにドアを開ける生き物である。
優人は覚悟を決めて玄関を開けた。
「おはよ」
いた。
202号室の前に、地雷ちゃんが立っていた。
昨日よりは起きている。
髪は少し跳ねている。
そして服装は、いつもの黒っぽい服だった。
「服、あるじゃないですか」
「これは昨日着た」
「洗えばいいでしょう」
「洗濯してない」
「してください」
「洗濯機、気まずい」
「洗濯機に感情はありません」
「いや、ある。あいつ絶対私のこと嫌い」
「壊れてるんですか」
「途中で止まる」
「それは大家さんに言ってください」
「でも叩くと動く」
「昭和の家電ですか」
地雷ちゃんは不満そうに袖を引っ張った。
「とにかく、今日はこれで出たくない」
「制服を取りに行くだけですよね」
「店の人に会うじゃん」
「昨日も会ってます」
「昨日と同じ服って思われる」
「初出勤で制服を忘れた時点で、たぶんもう印象には残ってます」
「やめろよ、心が折れるだろ」
「現実です」
「現実ハラスメント」
「便利に使いすぎです」
地雷ちゃんは壁にもたれた。
少し眠そうだが、昨日の初出勤後よりは元気がある。
「神谷の服でいいから」
「よくありません」
「シャツとか」
「大きいです」
「彼シャツってやつ?」
「違います。やめてください」
優人は即座に否定した。
朝から妙な単語を出さないでほしい。
「じゃあネクタイ」
「何に使うんですか」
「首に巻く」
「当たり前のことを言わないでください」
「大人っぽくなる」
「仕事帰りの酔っ払いみたいになるだけです」
「ひど」
その時、一階から足音がした。
きっちりした足音。
黒崎真琴だ。
今日もスーツ姿で、表情はきりっとしている。
だが、優人は昨日のメッセージのことを思い出していた。
地雷ちゃんに勝手に自分の番号を教えた人物である。
「おはようございます」
「おはようございます」
黒崎は二人を見る。
そしてすぐに察したように目を細めた。
「服の件ですか」
「はい」
優人が答える。
「黒崎さん、なんで俺の番号を教えたんですか」
「緊急時だと思ったので」
「服を貸せは緊急時ですか」
「違いましたね」
「認めるんですね」
「はい」
黒崎はあっさり認めた。
強い。
認め方も強い。
「黒崎さん」
地雷ちゃんが一歩前に出る。
「服貸して」
「嫌です」
「早い」
「サイズも趣味も違います」
「じゃあ選んで」
「なぜ私が」
「黒崎さん、ちゃんとしてるから」
「それは否定しませんが」
「否定しないんだ」
黒崎は地雷ちゃんの服装を上から下まで見た。
そして少しだけ考える。
「昨日と同じ服で行くのが嫌なんですね」
「嫌」
「制服を取りに行くだけですよね」
「うん」
「なら、上に何か羽織ればいいのでは」
「羽織るものがない」
「本当に?」
「部屋のどこかにはある」
「探してください」
「部屋が迷宮」
「昨日も言っていました」
「迷宮は一日で攻略できない」
黒崎は静かにため息を吐いた。
「地雷ちゃん」
「なに」
「まず部屋を片付けましょう」
「今?」
「今後のために」
「黒崎さん、今後が好きだよね」
「今後がないと生活は崩れます」
「刺さる」
優人は時計を見る。
そろそろ会社に行かなければならない。
地雷ちゃんの服問題に付き合っている場合ではない。
だが、このまま放っておくと、また変な方向へ行きそうだった。
最悪、翔の服を借りるかもしれない。
それだけは避けたい。
想像しただけで、地雷ちゃんが派手なシャツでカラオケ店に現れる光景が浮かんだ。
事故である。
「とりあえず」
優人は言った。
「近くの安い店で一枚買ったらどうですか」
「金ない」
「ですよね」
「神谷」
「貸しません」
「まだ金額言ってない」
「金額の問題ではありません」
「五百円」
「貸しません」
「三百円」
「下げればいいわけじゃありません」
「百円」
「服は買えません」
「じゃあ奢って」
「悪化しましたね」
地雷ちゃんは真剣な顔で考え込む。
真剣に考える方向がだいたい間違っている。
「熱男なら貸してくれるかな」
「駄目です」
「なんで」
「翔さんの服を着て店に行くつもりですか」
「派手かな」
「かなり」
「目立つ?」
「初出勤翌日に制服を取りに来た人が派手なシャツで来るのは、だいぶ印象に残ります」
「それは嫌」
「でしょうね」
黒崎が言う。
「私が一枚、上着を貸します」
優人と地雷ちゃんが同時に黒崎を見た。
「え、いいの?」
「古いカーディガンです。返してください」
「黒崎さん、神」
「神ではありません」
「銀行の女神」
「貸しません」
「ごめんなさい」
地雷ちゃんはすぐ謝った。
黒崎はやはり強い。
「ただし」
黒崎は続ける。
「今日、制服を取りに行ったら、ついでに洗剤を買ってください」
「洗剤?」
「洗濯してください」
「出た、現実」
「服を増やす前に洗濯です」
「正論で殴られてる」
「殴っていません」
「押してる?」
「押しています」
黒崎は一階の102号室へ戻り、少しして薄手のカーディガンを持ってきた。
落ち着いた色で、黒崎らしい。
地雷ちゃんが着ると、少しだけ雰囲気が変わった。
いつもの尖った感じが少し抑えられ、普通の若い女性に見える。
黙っていれば。
「どう?」
地雷ちゃんがくるりと回る。
「普通です」
優人が言った。
「普通って褒め言葉?」
「今は褒め言葉です」
「じゃあ褒められた」
「そのカーディガン、汚さないでください」
黒崎が釘を刺す。
「分かってる」
「食べこぼしは禁止です」
「私を何だと思ってるの」
「食べこぼしそうな人です」
「否定できない」
「してください」
地雷ちゃんはカーディガンの袖を見つめた。
少しだけ嬉しそうだった。
「黒崎さん、ありがと」
「返してくださいね」
「うん」
素直な礼。
これをたまに言うからずるい。
黒崎も少しだけ表情が柔らかくなった気がした。
優人は見なかったことにした。
本人は優しいと言われるのを嫌がる。
「では、私は行きます」
黒崎が言う。
「私も出勤です」
「俺もです」
優人も鞄を持ち直した。
地雷ちゃんはカーディガンの袖を揺らしながら二人を見る。
「二人とも働き者だな」
「あなたも昨日働きました」
「一日だけ」
「明後日も行くんですよね」
「行く」
「なら大丈夫です」
「大丈夫かな」
「少なくとも、制服を取りに行かないと明後日困ります」
「現実」
「はい」
黒崎は駅の方へ歩いていった。
優人も続く。
地雷ちゃんが後ろから声を飛ばしてきた。
「神谷ー!」
「何ですか」
「服、貸してくれなかったけど」
「はい」
「考えてくれてありがと」
優人は振り返らないまま答えた。
「どういたしまして」
「あと、あとで連絡する」
「しなくていいです」
「制服取れた報告」
「それならしてください」
「どっちだよ」
「必要な報告だけです」
「了解、監視員」
「その呼び方やめてください」
地雷ちゃんは笑っていた。
優人はその声を背中で聞きながら、駅へ向かった。
仕事中。
優人のスマホが震えた。
昼休みだった。
見ると、地雷ちゃんからのメッセージ。
『制服取れた』
その下に、制服らしき袋の写真が送られてきている。
ちゃんと取りに行ったらしい。
優人は少しだけ安心した。
『お疲れ様です』
そう返す。
すぐに返事が来た。
『褒めて』
『制服を取りに行けて偉いです』
『もっと』
『洗濯もしてください』
『現実ハラスメント』
優人はスマホを閉じた。
少し笑ってしまった。
自分でも分かる。
巻き込まれている。
かなり。
夜。
優人がおんぼろ荘へ帰ると、二階の廊下に地雷ちゃんがいた。
今日は座っていない。
立っていた。
黒崎のカーディガンを着たまま。
手にはコンビニの袋。
「おかえり」
「ただいま。カーディガン返しましたか」
「まだ」
「返してください」
「今から」
「なら良かったです」
「洗剤買った」
地雷ちゃんはコンビニの袋を掲げた。
中には小さな洗剤が入っている。
優人は少し驚いた。
「本当に買ったんですね」
「黒崎さんに言われたし」
「偉いです」
「お」
「制服を取りに行って、洗剤も買ったのは偉いです」
「もっと」
「調子に乗るのでここまでです」
「ケチ」
地雷ちゃんは不満そうに言いながらも、嬉しそうだった。
その時、102号室のドアが開いた。
黒崎が出てくる。
「おかえりなさい」
「ただいま、黒崎さん」
地雷ちゃんはカーディガンを脱ぎ、両手で差し出した。
「ありがと。助かった」
「洗いましたか」
「え、今返す前に?」
「冗談です」
「黒崎さんが冗談言った!」
地雷ちゃんが大げさに驚いた。
優人も少し驚いた。
黒崎は表情を変えない。
「返してもらえれば大丈夫です」
「汚してない」
「確認します」
「信用ないな」
「ありません」
「言い切った」
黒崎はカーディガンを受け取り、軽く確認する。
問題はなさそうだった。
「洗剤、買ったんですね」
「買った」
「では洗濯してください」
「今?」
「できれば今日」
「疲れた」
「制服を洗わないと明後日困ります」
「現実」
「現実です」
地雷ちゃんは肩を落とした。
その時、一階から翔の声が響く。
「おーい! 何してるんだ!」
「声が大きいです」
優人、黒崎、地雷ちゃんがほぼ同時に言った。
翔が階段の下から顔を出す。
「三人に言われた!」
「当然です」
「当然だな」
「当然ですね」
「仲いいな!」
「違います」
またほぼ同時だった。
翔は楽しそうに笑った。
「地雷ちゃん、制服取れたのか!」
「取れた」
「よし! 制服発見祝いだな!」
「やりません」
「なんでだ!」
「昨日も祝いませんでした」
「祝いが足りない!」
「足りなくていいです」
地雷ちゃんが洗剤の袋を持ち上げる。
「これから洗濯」
「おお! 偉いじゃないか!」
「だろ」
「洗濯祝いだ!」
「祝う範囲が広すぎます」
優人は突っ込んだ。
翔は本気で祝いそうだから怖い。
「じゃあ、洗濯終わったら」
「やりません」
「早い!」
黒崎が静かに言う。
「洗濯機、途中で止まると言っていましたよね」
「あ」
地雷ちゃんが固まった。
「そういえば」
「大家さんに連絡しましたか」
「してない」
「してください」
「今?」
「今」
「黒崎さん、今日も現実が強い」
優人は嫌な予感がした。
洗濯機が止まる。
制服を洗う必要がある。
大家に連絡していない。
つまり、また何かが起こる。
地雷ちゃんはスマホを取り出し、大家へ連絡しようとした。
しかし、指が止まる。
「大家さんの番号知らない」
「契約書は?」
「迷宮」
「ですよね」
黒崎が額に手を当てた。
翔が元気よく手を上げる。
「俺、知ってるぞ!」
「なぜですか」
優人が聞く。
「前に鍵なくした時に電話した!」
「あなたも大概ですね」
「ははは!」
「笑うところじゃありません」
翔が大家に電話をかける。
声が大きいので、通話内容が廊下に全部聞こえる。
「大家さーん! こんばんは! 熱田です!」
「声を小さく」
「洗濯機が止まるらしいです! 地雷ちゃんの!」
「だから声を」
「はい! はい! お願いします!」
電話はすぐ終わった。
「大家さん、見に来るって!」
「今から?」
地雷ちゃんが驚く。
「今から!」
「大家さん、仕事早いですね」
「大家なので」
翔がなぜか大家の口調を真似した。
優人は少し笑いそうになった。
数分後、本当に大家が来た。
大家大家。
このおんぼろ荘の大家である。
相変わらず落ち着いている。
「こんばんは」
「こんばんは」
全員が挨拶する。
大家は地雷ちゃんを見る。
「洗濯機ですか」
「はい」
「途中で止まりますか」
「止まります」
「いつから?」
「けっこう前」
「連絡してください」
「ごめんなさい」
「あと家賃」
「今それ言う?」
「大家なので」
出た。
優人はまた笑いそうになる。
地雷ちゃんは洗剤の袋を抱えたまま、気まずそうに目を逸らした。
「でも働き始めたので」
優人が言うと、大家は少しだけ目を細めた。
「そうですか」
「昨日、初出勤でした」
黒崎が補足する。
「今日は制服も取りに行きました」
翔が胸を張る。
「そして洗濯する!」
「まだしてないけどね」
地雷ちゃんが小さく言う。
大家は少しだけ笑った。
「それは良いことですね」
「褒められた」
「ただし、家賃は払ってください」
「はい」
「一ヶ月分からでいいので」
「はい……」
地雷ちゃんは素直に頷いた。
大家は202号室の中へ入って洗濯機を確認する。
優人たちは廊下で待った。
数分後、大家が出てくる。
「排水のところにゴミが詰まっていました」
「え」
「掃除しました。動くと思います」
「大家さん、すご」
「大家なので」
「何でもそれでいけるな」
地雷ちゃんは感心していた。
黒崎は静かに言う。
「これで洗濯できますね」
「できるね」
「今日してください」
「今?」
「今」
「やっぱり?」
「はい」
地雷ちゃんはため息を吐いた。
しかし、不思議と逃げなかった。
202号室に入り、制服を洗濯機に入れる音がした。
水が流れる音。
洗濯機が回り始める音。
おんぼろ荘の廊下に、妙に生活感のある音が響いた。
大家は軽く頷いた。
「では、私はこれで」
「ありがとうございました」
地雷ちゃんが素直に言う。
「家賃もお願いします」
「はい……」
大家は静かに帰っていった。
翔も「洗濯祝いはまた今度だな!」と言って一階へ戻った。
黒崎も部屋に戻る。
廊下には優人と地雷ちゃんだけが残った。
洗濯機の音が聞こえる。
地雷ちゃんは202号室の前で、少しだけ照れくさそうに立っていた。
「神谷」
「何ですか」
「洗濯って、意外とちゃんとした気分になるな」
「普通の生活ですから」
「普通ってすごいな」
「そうですね」
優人は少しだけ笑った。
地雷ちゃんはそれを見て、むっとする。
「何笑ってんの」
「いえ」
「バカにしてる?」
「してません」
「じゃあ褒めて」
「洗濯できて偉いです」
「子供扱い」
「実際、洗濯機で止まってましたから」
「うるさいな」
地雷ちゃんはそう言って笑った。
その笑顔は、少しだけ昨日より軽かった。
服を貸せと言っていた朝から考えると、だいぶ進歩している。
制服を取りに行った。
洗剤を買った。
洗濯機の不調を大家に見てもらった。
洗濯を始めた。
どれも普通のことだ。
でも地雷ちゃんにとっては、普通に近づくための小さな勝利だった。
「神谷」
「はい」
「明後日、ちゃんと行くから」
「はい」
「起こして」
「嫌です」
「そこは変わらないのかよ」
「自分で起きてください」
「ケチ」
洗濯機の音が、ごとん、と少し大きく鳴った。
地雷ちゃんがびくっとする。
「爆発しない?」
「しません」
「見張ってて」
「嫌です」
「ケチ」
「洗濯機まで見張りません」
優人は201号室のドアを開けた。
「洗濯が終わったら、干してくださいね」
「干す?」
地雷ちゃんが真顔で言った。
優人は動きを止めた。
「まさか」
「洗ったら終わりじゃないの?」
「終わりじゃありません」
「洗濯、長くない?」
「そこまでが洗濯です」
「人類、面倒くさ!」
優人は深くため息を吐いた。
一歩前進。
たしかに一歩前進だ。
ただし、その一歩の先には、まだ干すという現実が待っていた。




