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家賃滞納地雷ちゃん  作者: leemero


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8/8

制服を忘れた女

 制服を店に忘れた。


 その一言を聞いた瞬間、神谷優人はしばらく動けなかった。


 夜のおんぼろ荘。


 初出勤を終えた地雷ちゃんが、ようやく一歩前進したと思った直後である。


 遅刻せずに行った。


 最後まで働いた。


 ちゃんと帰ってきた。


 今日は勝ちだ。


 そう思った矢先に、制服を店に忘れた。


 人生は油断した瞬間に足元を掬ってくる。


 いや、この場合は人生ではない。


 地雷ちゃんである。


「制服を?」


 黒崎真琴が静かに言った。


「店に?」


 熱田翔が続けた。


「忘れた!」


 二階の202号室から、地雷ちゃんの声が元気よく返ってきた。


 元気よく言うことではない。


 優人は階段の途中で額を押さえた。


「どうやったら制服を店に忘れるんですか」


 優人が聞くと、202号室のドアが少しだけ開いた。


 隙間から地雷ちゃんの顔が出てくる。


 疲れた顔。


 だが、悪びれた様子は薄い。


「着替えて」


「はい」


「帰ってきた」


「はい」


「忘れた」


「説明が短すぎます」


「分かりやすいだろ」


「分かりやすいだけで納得はできません」


 黒崎は深く息を吐いた。


「明後日も出勤なんですよね」


「うん」


「なら取りに行ってください」


「今?」


「できれば今日」


「無理。足が死んでる」


「死んでいません」


「じゃあ瀕死」


「歩いて帰ってきたでしょう」


「帰り道で死んだ」


「今喋っています」


「魂で喋ってる」


「面倒ですね」


 黒崎の言葉は鋭いが正しい。


 地雷ちゃんはドアの隙間から、助けを求めるように優人を見る。


「神谷」


「嫌です」


「まだ何も言ってない」


「言う前から分かります」


「取りに行って」


「嫌です」


「冷たい」


「本人が取りに行くものです」


「足が死んでる」


「魂で歩いてください」


「ひど」


 翔が腕を組んで頷いた。


「よし、俺が行こう!」


「駄目です」


 黒崎と優人が同時に言った。


 翔は目を丸くした。


「なんでだ!」


「あなたが行っても、店側が困ります」


 黒崎が言う。


「あと、たぶん声が大きいです」


 優人が言う。


「それ関係あるか?」


「あります」


「かなりあります」


「二人ともひどい!」


 翔はそう言いながらも笑っている。


 地雷ちゃんはドアの隙間から、じっと翔を見る。


「熱男、行ってくれるの?」


「もちろんだ!」


「神」


「俺は熱田翔だ!」


「でも店に説明できる?」


「地雷ちゃんの制服を取りに来ました!」


「怪しすぎます」


 優人は即座に言った。


 黒崎も頷く。


「かなり怪しいです」


「じゃあどう言えばいいんだ?」


「本人が行くのが一番です」


「正論!」


「正論です」


 地雷ちゃんはドアの隙間で唇を尖らせた。


「明日の朝じゃ駄目?」


「店に電話してください」


 黒崎が言った。


「電話?」


「制服を忘れたので、預かってもらっているか確認するんです」


「電話、怖い」


「面接よりは怖くありません」


「怖い種類が違う」


「逃げないでください」


「黒崎さん、今日も刺すなぁ」


「刺していません。押しています」


「押し方が鋭い」


 優人は時計を見た。


 もう夜だ。


 本来なら部屋に戻って風呂に入り、寝る時間である。


 しかし、202号室の制服問題が発生している。


 いや、正確には地雷ちゃんの制服問題だ。


 どうして自分が巻き込まれているのか。


 理由は分からない。


 だが、おんぼろ荘ではこういうことが自然に起こる。


「とりあえず」


 優人は言った。


「店に電話してください」


「番号知らない」


「求人票とか、採用の連絡とかに載ってませんか」


「あー」


 地雷ちゃんが一度ドアを閉めた。


 部屋の中で物音がする。


 ガサガサ。


 ドン。


 バサッ。


 何かが落ちる音。


 しばらくして、ドアがまた開いた。


「見つからない」


「探すの早すぎません?」


「部屋が広い」


「嘘をつかないでください」


「物が多い」


「片付けてください」


「現実ハラスメント」


「便利に使いすぎです」


 黒崎が鞄からスマホを取り出した。


「店名は?」


「駅前のカラオケ。たぶん、カラオケスター」


「たぶん?」


「名前に星がついてた」


「それで働いたんですか」


「働いた」


「よく採用されましたね」


「私もそう思う」


「そこは自信を持ってください」


 黒崎は検索し、駅前のカラオケ店の電話番号を見つけた。


 そして地雷ちゃんに画面を見せる。


「ここですか」


「あ、それ」


「電話してください」


「黒崎さんが」


「本人がしてください」


「神谷が」


「本人がしてください」


「熱男が」


「本人がしてください」


 黒崎は三回同じことを言った。


 強い。


 地雷ちゃんは観念したようにスマホを受け取った。


「何て言えばいいの」


「今日初出勤した者ですが、制服を忘れてしまったかもしれません。確認していただけますか、です」


「長い」


「覚えてください」


「神谷、メモ」


「俺ですか」


「書いて」


「自分で」


「お願い」


 地雷ちゃんは珍しく、少し弱った声を出した。


 優人はため息を吐く。


 そして自分のスマホのメモ帳に、黒崎の言った言葉を打ち込んだ。


『今日初出勤した者ですが、制服を忘れてしまったかもしれません。確認していただけますか』


「これを読んでください」


「神谷、優しい」


「違います」


「またそれか」


「違います」


 地雷ちゃんはスマホを見ながら電話をかけた。


 廊下が一気に静かになる。


 翔も珍しく黙った。


 黒崎は腕を組み、優人は何となく息を潜める。


 電話が繋がったらしい。


 地雷ちゃんの表情が固まる。


「あ、もしもし」


 声が妙に高い。


 優人は少しだけ笑いそうになる。


「えっと、今日、初出勤した者ですが」


 おお。


 ちゃんと言えた。


「制服を忘れてしまったかもしれません」


 言えた。


「確認していただけますか」


 完璧だった。


 黒崎が小さく頷く。


 優人も少しだけ安心した。


 地雷ちゃんはスマホを耳に当てたまま、しばらく黙る。


「はい」


 間。


「はい」


 さらに間。


「え、ありました?」


 あったらしい。


 優人は肩の力を抜いた。


「はい、すみません」


 地雷ちゃんがぺこりと頭を下げる。


 相手には見えていない。


 だが、そういう仕草が自然に出るあたり、完全に駄目な人間ではないのかもしれない。


「明日取りに行きます。はい。すみません。ありがとうございます」


 電話が切れた。


 地雷ちゃんはスマホを下ろす。


「ありました」


「良かったですね」


「明日取りに行く」


「必ず行ってください」


「行く」


「本当に?」


「行くって」


 地雷ちゃんは少しだけ疲れたように壁にもたれた。


「電話、疲れた」


「仕事より?」


「種類が違う」


「分からなくはないです」


 優人は思わず言った。


 地雷ちゃんがこちらを見る。


「分かるの?」


「分かりますよ。電話は疲れます」


「神谷も?」


「はい」


「会社員なのに?」


「会社員だからです」


「人類、大変だな」


「今日何回目ですか、それ」


 翔が急に大きく頷いた。


「分かるぞ! 電話は勢いだ!」


「熱男は勢いで全部いけそう」


「任せろ!」


「任せたら大事故です」


 黒崎が冷静に言う。


「ひどい!」


「事実です」


「黒崎さん、俺にも厳しいな!」


「声が大きいので」


「そこか!」


「そこです」


 翔は笑った。


 地雷ちゃんも少し笑った。


 優人も少しだけ口元が緩んだ。


 制服は店にある。


 明日取りに行けばいい。


 ひとまず問題は解決した。


 解決したはずだった。


「じゃあ」


 優人は言う。


「今日はもう休んでください」


「うん」


 地雷ちゃんが素直に頷く。


 珍しい。


 初出勤の疲れはかなり大きいらしい。


 彼女はドアを閉めようとして、ふと止まった。


「神谷」


「何ですか」


「電話の文章、ありがと」


「どういたしまして」


「黒崎さんも」


「はい」


「電話番号、ありがと」


「明日、必ず取りに行ってください」


「はい」


「熱男も」


「おう!」


「声でかくてありがと」


「それ褒めてるか?」


「たぶん」


「ならいい!」


「いいんだ」


 地雷ちゃんは少し笑って、ドアを閉めた。


 202号室の向こうが静かになる。


 優人はようやく自分の部屋に戻ろうとした。


 その時、黒崎がぽつりと言う。


「少しだけ成長していますね」


「地雷ちゃんがですか」


「はい」


「そうですね」


 電話一本で成長と言うのもどうかと思う。


 だが、地雷ちゃんの場合は成長でいいのかもしれない。


 昨日は履歴書。


 今日は初出勤。


 そして制服忘れの電話。


 大人として当たり前のことを、彼女は一つずつ覚えている。


 それは少し危なっかしいが、見ていて悪いものではなかった。


「よし!」


 翔が手を叩いた。


「じゃあ制服発見祝いを」


「やりません」


 優人と黒崎が同時に言った。


「息ぴったり!」


「寝てください」


「休んでください」


「二人とも冷たい!」


 翔は笑いながら一階へ戻っていった。


 黒崎も軽く会釈して、自分の部屋へ向かう。


 優人は201号室の鍵を開けた。


 部屋に入る。


 鞄を置く。


 ネクタイを緩める。


 ようやく一人の時間だ。


 静かだ。


 少しだけ、安心する。


 だが、なぜかその静けさが昨日より少し薄く感じた。


 おんぼろ荘の廊下で、誰かが騒いでいるのが当たり前になりつつある。


 それは危険な兆候だ。


 優人は自分に言い聞かせた。


 巻き込まれすぎてはいけない。


 隣人は隣人。


 地雷ちゃんは地雷ちゃん。


 自分は自分。


 そうやって距離を保たなければならない。


 風呂に入り、簡単な夕飯を済ませ、ベッドに入る。


 目を閉じる。


 すると、壁の向こうから小さな音がした。


 ごそごそ。


 何かを探しているような音。


 優人は目を開けた。


 嫌な予感がした。


 しばらくして。


 壁の向こうから、地雷ちゃんの声が聞こえた。


「明日着ていく服がない……」


 優人は布団の中で静かに目を閉じた。


 聞こえなかった。


 聞こえなかったことにする。


 大人には、そういう力も必要だ。


 だが数秒後。


 スマホが震えた。


 知らない番号からメッセージが届いていた。


『神谷、服貸して』


 優人は上体を起こした。


「いつの間に番号を」


 すぐにもう一通来た。


『黒崎さんに聞いた』


 優人は天井を見上げた。


 そして、短く返信した。


『貸しません』


 すぐに返事が来た。


『ケチ』


 初出勤を終えても。


 電話をできるようになっても。


 制服を忘れても。


 地雷ちゃんは、やっぱり地雷ちゃんだった。

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