初出勤の朝はうるさい
地雷ちゃんの初出勤の日が来た。
神谷優人は、朝六時半に目を覚ました。
いつもより早い。
別に、地雷ちゃんのためではない。
断じて違う。
今日はたまたま早く目が覚めただけだ。
昨日、寝る前に「ちゃんと起きられるだろうか」と少し考えた気もするが、それはただの隣人としての常識的な心配である。
常識的な心配。
便利な言葉だ。
優人は布団の中で天井を見上げた。
隣の202号室は静かだった。
静かすぎた。
地雷ちゃんは今日、カラオケ店の初出勤である。
勤務開始は九時。
本人いわく、目覚ましは五個かけたらしい。
五個かけたなら、普通は起きる。
普通は。
だが、地雷ちゃんに普通を期待していいのか。
そこが問題だった。
「……いや、知らん」
優人は声に出して言った。
起きるかどうかは本人の問題だ。
働くと決めたのも本人。
面接に受かったのも本人。
初出勤に行くのも本人。
自分は関係ない。
そう思いながら、優人はなぜか布団から出た。
洗面所で顔を洗う。
歯を磨く。
髪を整える。
スーツに着替える。
いつもの朝だ。
ただ、いつもより少しだけ耳が隣に向いていた。
202号室から音はしない。
静かだ。
不気味なくらい静かだ。
優人は時計を見る。
七時十分。
まだ時間はある。
だが、地雷ちゃんが準備にどれだけ時間をかけるのか分からない。
昨日の髪の跳ね方を見る限り、十秒で終わるタイプではない。
いや、十秒で終わらせるタイプだから危ないのかもしれない。
優人は玄関まで行き、靴を履いた。
そしてドアノブに手をかける。
そこで止まった。
もし、開けた先に地雷ちゃんが起きていなかったら。
もし、まだ寝ていたら。
自分はどうするのか。
起こすのか。
起こさないのか。
起こしたら負けではないのか。
何と戦っているのか。
優人は自分でも分からなくなった。
「……出勤するだけだ」
そう言い聞かせて、ドアを開けた。
廊下には誰もいなかった。
珍しい。
本当に珍しい。
この数日、202号室の前には高確率で地雷ちゃんがいた。
むしろ、いないことに違和感がある。
慣れとは怖い。
優人は202号室のドアを見る。
静かだ。
あまりにも静かだ。
「……」
何もしない。
そう決めた。
他人の生活に踏み込まない。
それが大人の距離感だ。
優人は階段へ向かう。
その瞬間。
一階から、とんでもない声が響いた。
「地雷ちゃああああああん! 朝だぞおおおおお!」
優人は階段の途中で固まった。
熱田翔だった。
声で分かる。
というか、この声量を出す住人は一人しかいない。
翔が一階から階段を駆け上がってくる。
手には鍋のフタ。
なぜ鍋のフタなのか。
答えを知りたくない。
「神谷くん! おはよう!」
「おはようございます。声を小さくしてください」
「今日は地雷ちゃんの初出勤だ!」
「知ってます」
「起こさないと!」
「なぜ鍋のフタを持っているんですか」
「鳴らすためだ!」
「絶対やめてください」
優人は即座に止めた。
朝七時過ぎのアパートで鍋のフタを鳴らす男。
想像するだけで迷惑だ。
いや、想像するまでもなく迷惑だ。
「でも起きないかもしれないだろ!」
「普通にノックしてください」
「普通だな!」
「普通でいいんです」
「普通はつまらん!」
「朝はつまらなくていいんです」
翔は不満そうだったが、さすがに鍋のフタを鳴らすのはやめた。
少しだけ安心する。
すると今度は、一階のドアが開く音がした。
きっちりした足音。
嫌な予感と安心感が同時に来る。
黒崎真琴だった。
今日も完璧なスーツ姿。
髪も乱れていない。
社会人という生き物の完成形みたいな人である。
「おはようございます」
「おはようございます」
「おはようございます!」
翔だけ声が大きい。
黒崎は眉を寄せた。
「朝から声が大きいです」
「すまん!」
「小さくしてください」
「分かった!」
「小さくなっていません」
「よく言われる!」
「直してください」
黒崎の声は冷静だった。
翔は笑っている。
通じているのかいないのか分からない。
「今日は地雷ちゃんの初出勤ですね」
黒崎が言った。
「黒崎さんも覚えてたんですね」
優人が言うと、黒崎は少しだけ視線を逸らした。
「一応です」
「優しいですね」
「違います」
「はい」
もう否定されることにも慣れてきた。
黒崎は202号室を見る。
「静かですね」
「静かです」
「起きていない可能性がありますね」
「ありますね」
「起こしましょう」
「黒崎さんが言うんですか」
「初日から遅刻すると、本人が困ります」
「それはそうですけど」
黒崎は淡々としている。
だが、やっぱり面倒見はいい。
優人はそう思った。
「よし! 俺がいく!」
翔が前に出る。
「やめてください。声が大きいので」
「俺の長所だ!」
「今は短所です」
「ひどい!」
結局、優人が202号室の前に立った。
なぜ自分なのか。
分からない。
気づけばそうなっていた。
優人は軽くドアをノックする。
「地雷ちゃん」
返事はない。
もう一度ノックする。
「地雷ちゃん。朝ですよ」
やはり返事はない。
翔が鍋のフタを構える。
「待ってください」
「まだか!」
「まだです」
黒崎が腕時計を見る。
「このままだと危ないですね」
「そうですね」
「もう少し強く」
「分かりました」
優人は少し強めにノックした。
「地雷ちゃん。初出勤ですよ」
しばらく沈黙。
そして。
部屋の中から、何かが落ちる音がした。
ドン。
ガタッ。
バサバサッ。
「……生きてますか」
優人が言うと、中からくぐもった声が聞こえた。
「死んだ」
「生きてますね」
「朝、強すぎ」
「起きてください」
「あと五分」
「駄目です」
「三分」
「駄目です」
「一分」
「起きてください」
「鬼」
「現実です」
「現実ハラスメント……」
声が弱い。
かなり眠そうだった。
黒崎がドアの向こうに向かって言う。
「地雷ちゃん、初日から遅刻したら印象が悪くなります」
「黒崎さん……?」
「はい」
「朝から正論やめて……」
「起きてください」
「はい……」
強い。
黒崎の声は、目覚まし五個より効くらしい。
部屋の中で、ばたばたと動く音がし始めた。
翔が嬉しそうに鍋のフタを掲げる。
「起きたな!」
「鳴らしてないのに役に立ちませんでしたね」
「持ってきた意味!」
「ありません」
「ひどい!」
数分後。
202号室のドアが開いた。
地雷ちゃんが出てきた。
髪は跳ねていた。
服は昨日よりさらにまともだった。
ただし、靴下が左右で違った。
優人は黙った。
黒崎も黙った。
翔だけが言った。
「おお! 気合い入ってるな!」
「どこを見てそう思ったんですか」
優人は思わず聞いた。
「顔!」
「眠そうですけど」
「眠そうでも気合いは入る!」
「便利ですね」
地雷ちゃんは目をこすりながら廊下に出た。
「おはよ……」
「おはようございます」
「おはようございます」
「おはよう!」
三人分の挨拶が返る。
地雷ちゃんは少しだけ目を細めた。
「朝から人数多くない?」
「あなたが起きないからです」
「私、人気者?」
「要注意人物です」
「ひど」
黒崎が地雷ちゃんの足元を見る。
「靴下が左右違います」
「え?」
地雷ちゃんは自分の足元を見た。
片方が黒。
片方が白。
見事に違う。
「おしゃれ」
「違います」
「個性」
「違います」
「多様性」
「違います」
黒崎はきっぱり否定した。
「替えてきてください」
「時間ない」
「ならせめて同じ色に見える靴にしてください」
「そんな技ない」
「部屋から同じ靴下を探してください」
「部屋が迷宮なんだよ」
「整頓してください」
「今それ言う?」
「今後のためです」
地雷ちゃんは渋々部屋に戻った。
しばらくして、今度は両方黒い靴下で出てきた。
なぜか片方だけ少し短い。
黒崎は見なかったことにした。
優人もそうした。
翔は気づいていなかった。
ある意味幸せな男だ。
「履歴書は?」
優人が聞く。
「ある」
地雷ちゃんはクリアファイルを見せる。
「スマホは?」
「ある」
「財布は?」
「……」
「財布は?」
「ある、たぶん」
「確認してください」
地雷ちゃんは鞄の中を探る。
数秒後、財布を取り出した。
「ある」
「中身は?」
「聞くな」
「交通費は?」
「ある」
「本当に?」
「昨日、翔にもらった」
「え」
優人は翔を見る。
翔は笑顔で親指を立てた。
「初出勤祝いだ!」
「貸したんですか?」
「いや、あげた!」
「甘やかさないでください」
「三百円だぞ!」
「金額の問題では」
「神谷」
地雷ちゃんが横から言う。
「ちゃんと返す」
「本当ですか」
「給料出たら」
「かなり先ですね」
「覚えてたら」
「覚えててください」
黒崎が地雷ちゃんを見る。
「お金の貸し借りはきちんとしてください」
「はい」
素直だった。
黒崎の前ではやはり少し弱い。
「それで、何時に出れば間に合うんですか」
黒崎が聞く。
「八時二十分くらい」
「今、七時四十五分です」
「余裕じゃん」
「余裕を持って出てください」
「黒崎さん、余裕って言葉嫌い?」
「余裕を潰す人が嫌いです」
「刺さる」
優人は時計を見る。
自分もそろそろ出ないといけない。
だが地雷ちゃんの初出勤の準備が、まるで小学生の遠足前みたいで目が離せない。
いや、小学生の方がしっかりしているかもしれない。
「地雷ちゃん」
「なに」
「今日は勤務初日です。遅刻しない。挨拶する。分からないことは聞く。勝手に帰らない」
「最後の何?」
「一番大事です」
「帰らないよ」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶん禁止」
「帰らない」
「よし」
地雷ちゃんは少しむっとした顔をした。
「神谷、親みたい」
「嫌なこと言わないでください」
「保護者」
「もっと嫌です」
「監視員」
「それならまだ」
「いいんだ」
翔が大きく笑う。
「いいじゃないか! おんぼろ荘みんなで応援だ!」
「みんなではありません」
黒崎が言った。
「私たちは各自出勤です」
「冷静!」
「当然です」
「でも応援はしてるだろ?」
翔が明るく言う。
黒崎は少しだけ黙った。
そして地雷ちゃんを見る。
「遅刻しないでください」
「それ応援?」
「応援です」
「厳しめの応援だな」
優人も鞄を持ち直した。
「初日は疲れると思うので、終わったらすぐ帰って休んでください」
「祝い飯は?」
「まだ言ってるんですか」
「初出勤終わったら祝いじゃん」
「毎回祝ってたら給料より食費が先に来ます」
「それは困る」
「困るならやめてください」
地雷ちゃんは少しだけ笑った。
昨日の不安そうな顔とは違う。
まだ眠そうではある。
でも、行こうとしている顔だった。
「じゃあ」
黒崎が階段へ向かう。
「私は行きます」
「いってらー」
「地雷ちゃんも、ちゃんと行ってください」
「行くって」
翔も一階へ戻ろうとする。
「俺は夜勤じゃないから二度寝する!」
「ただの休日ですか」
「今日は休みだ!」
「それで朝から鍋のフタ持ってきたんですか」
「もちろん!」
「元気ですね」
「元気が取り柄だ!」
翔は笑って階段を下りていった。
黒崎も外へ向かう。
優人も続こうとした。
その時、地雷ちゃんが声をかけてきた。
「神谷」
「何ですか」
「ちゃんと行ったら、褒めろよ」
「行って、働いて、帰ってきたら褒めます」
「ハードル上がってる」
「それが初出勤です」
「厳しいなぁ」
「でも」
「でも?」
「行くだけでも、昨日よりは進んでます」
地雷ちゃんは少しだけ目を逸らした。
そして、クリアファイルをぎゅっと抱えた。
「……うん」
その返事は小さかった。
けれど、いつもの適当な返事ではなかった。
優人はそれ以上何も言わず、階段を下りた。
会社に向かう道の途中、何度かスマホを見そうになった。
連絡先は知らない。
だから見る意味はない。
それでも気になる。
初出勤に間に合ったのか。
途中で帰っていないか。
いらっしゃーいと言っていないか。
それを考えている自分が、少しだけ嫌だった。
完全に巻き込まれている。
仕事中も、ふとした瞬間に思い出した。
会議中。
上司が資料の数字を指摘している時。
優人の頭には、左右違う靴下の地雷ちゃんが浮かんだ。
駄目だ。
仕事に集中しろ。
人類はなぜ働くのか。
地雷ちゃんは今働いているのか。
思考がだいぶ汚染されていた。
夜。
優人は少しだけ早く仕事を終えた。
早く帰ろうと思ったわけではない。
たまたま仕事が片付いただけだ。
そういうことにしておく。
おんぼろ荘へ戻ると、一階の前に翔がいた。
なぜか腕を組んでいる。
「神谷くん!」
「こんばんは。何してるんですか」
「待ってた!」
「俺を?」
「いや、地雷ちゃんを!」
「でしょうね」
翔の横には、黒崎もいた。
仕事帰りらしく、いつものスーツ姿でバッグを持っている。
「黒崎さんまで」
「たまたま帰ってきただけです」
「本当に?」
「本当です」
「そうですか」
優人は深く追及しなかった。
黒崎は追及されるのを嫌がりそうだ。
三人がアパート前にいると、少し離れた道から人影が見えた。
地雷ちゃんだった。
歩いてくる。
クリアファイルを持っている。
朝より髪が乱れている。
顔は疲れている。
だが、ちゃんと帰ってきた。
それだけで、優人は少しだけ安心してしまった。
「おかえり!」
翔が大声で言った。
「声でか……」
地雷ちゃんが疲れた声で返す。
「どうだった!」
「疲れた」
「最後までいましたか?」
黒崎が聞く。
「いた」
「勝手に帰ってませんか?」
「帰ってない」
「挨拶は?」
「した」
「いらっしゃーいは?」
優人が聞く。
「一回だけ言いかけた」
「言いかけたんですか」
「でも飲み込んだ」
「偉いです」
地雷ちゃんはその言葉を聞いて、顔を上げた。
「今、褒めた?」
「はい」
「もう一回」
「よく行って、ちゃんと働いて、ちゃんと帰ってきました」
「もっと」
「初出勤、お疲れ様です」
地雷ちゃんは、にやっと笑った。
疲れているのに嬉しそうだった。
「働いた」
「働きましたね」
「人類、すごいな」
「そうですね」
「毎日これやってる神谷、すごいな」
「普通です」
「黒崎さんもすごいな」
「普通です」
「翔は?」
「俺は元気だ!」
「それは知ってる」
地雷ちゃんは笑った。
そして、その場にしゃがみ込みそうになったので、優人は慌てて止めた。
「部屋に戻ってください」
「足が死んだ」
「死んでません」
「初出勤って戦争?」
「違います」
「でも勝った?」
「勝ちました」
優人が言うと、地雷ちゃんは少しだけ目を丸くした。
「勝った?」
「今日は勝ちです」
「やった」
地雷ちゃんは小さく拳を握った。
その姿は少し子供っぽかった。
でも、悪くなかった。
「よし!」
翔が言った。
「勝ったなら祝勝会だ!」
「駄目です」
優人と黒崎が同時に言った。
翔は大きく笑った。
「息ぴったりだな!」
「疲れているので休ませてください」
黒崎が冷静に言う。
「明日も勤務ですか?」
「明日は休み」
地雷ちゃんが答える。
「なら今日は休んでください」
「でも腹減った」
「食べてから寝てください」
「金ない」
「そこは働いてもすぐ解決しないんですよね」
優人はため息を吐いた。
翔がポケットから何かを取り出す。
「じゃあこれ!」
出てきたのは、コンビニの鮭おにぎりだった。
地雷ちゃんの目が輝く。
「神」
「俺は熱田翔だ!」
「熱男」
「お、いいなそれ!」
地雷ちゃんが初めてそう呼んだ。
翔は気に入ったらしい。
優人は少し嫌な予感がした。
このあだ名は定着する。
間違いなく定着する。
黒崎は軽くため息を吐く。
「食べたらすぐ休んでください」
「はい」
地雷ちゃんは素直に返事をした。
今日は疲れているせいか、いつもより抵抗が弱い。
「神谷」
「何ですか」
「今日、私、偉かった?」
「偉かったです」
「黒崎さん」
「初日に遅刻せず、最後まで働いたのは良いことです」
「熱男」
「最高だ!」
地雷ちゃんは満足そうに頷いた。
そして鮭おにぎりを抱えて、ゆっくり階段を上っていく。
途中で振り返った。
「明日も仕事じゃないけど」
「はい」
「明後日も行く」
「そうしてください」
「起こして」
「嫌です」
「そこは変わらないのかよ」
「自分で起きてください」
地雷ちゃんは笑って、二階へ上がっていった。
その背中は朝より少し重そうだった。
けれど、昨日より少しだけしっかりしているようにも見えた。
優人はそれを見送る。
黒崎が隣で言った。
「一日目は、何とか終わりましたね」
「そうですね」
「明後日が問題です」
「現実的ですね」
「現実なので」
「黒崎さんまで現実ハラスメントですね」
「やめてください」
翔が明るく笑う。
「でもいいじゃないか! 一歩前進だ!」
優人は否定しなかった。
確かに一歩前進だ。
まだ家賃は払えていない。
まだ給料も出ていない。
まだ何も解決していない。
でも、地雷ちゃんは今日、ちゃんと働いて帰ってきた。
それだけで、おんぼろ荘にとっては大事件だった。
優人は二階を見上げる。
202号室のドアが閉まる音がした。
その音が、少しだけ頼もしく聞こえた。
直後。
ドアの向こうから地雷ちゃんの声が響いた。
「制服、店に忘れた!」
優人は額を押さえた。
黒崎も目を閉じた。
翔だけが笑った。
やっぱり、一歩前進しても地雷は地雷だった。




