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家賃滞納地雷ちゃん  作者: leemero


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10/12

勤務二日目は駅前で始まる

 地雷ちゃんの二回目の出勤日は、朝から少しだけ違っていた。


 神谷優人が玄関のドアを開けると、202号室の前に地雷ちゃんはいなかった。


 廊下にもいない。


 階段にもいない。


 珍しい。


 珍しすぎて、優人は一瞬だけ不安になった。


 寝坊したのか。


 また制服を忘れたのか。


 洗濯した制服を干したまま忘れているのか。


 考えたくない可能性が次々と浮かんでくる。


 だが、その心配はすぐに消えた。


 スマホが震えたからだ。


『先に出た』


 地雷ちゃんからのメッセージだった。


 優人は画面を見つめた。


 先に出た。


 あの地雷ちゃんが。


 目覚ましを五個かけても怪しかった地雷ちゃんが。


 制服を店に忘れ、洗濯して干すところで絶望していた地雷ちゃんが。


 先に出た。


「……本当に?」


 思わず声が出た。


 すぐにもう一通届く。


『駅前いる』


 疑っていると思われたのだろうか。


 いや、疑っている。


 かなり疑っている。


 優人は短く返信した。


『遅刻しないようにしてください』


 返事は早かった。


『褒めろよ』


『出勤できたら褒めます』


『ケチ』


 朝からいつも通りだった。


 ただ、場所が廊下ではないだけである。


 優人は鞄を持ち直し、階段を下りた。


 外に出ると、朝の空気は少し冷たい。


 おんぼろ荘の古びた外壁に朝日が当たっていた。


 いつもなら、ここで地雷ちゃんや翔が騒いでいて、黒崎が注意する。


 だが今日は違う。


 外へ出る。


 駅へ向かう。


 アパートの中ではなく、ちゃんと街の中へ話が進んでいる気がした。


 駅前に着くと、人が多かった。


 スーツ姿の会社員。


 制服姿の学生。


 自転車で急ぐ人。


 コンビニの前でコーヒーを飲む人。


 朝の駅前は、誰かの都合など待ってくれない。


 それぞれがそれぞれの目的地へ向かって流れていく。


 その流れの端。


 駅前のコンビニの前に、地雷ちゃんがいた。


 制服の入った袋を抱え、片手に紙パックのカフェオレを持っている。


「おー」


「おはようございます」


「見ろ」


「何をですか」


「私、外にいる」


「見れば分かります」


「しかも遅刻してない」


「偉いですね」


「もっと」


「朝、自分で起きて、先に駅前まで来られたのは偉いです」


「よし」


 地雷ちゃんは満足そうにカフェオレを飲んだ。


 それだけで、まるで一仕事終えたような顔をしている。


 まだ勤務前である。


「勤務は何時からですか」


「九時」


「今、八時十五分です」


「余裕」


「油断しないでください」


「黒崎さんみたいなこと言うな」


「正しいので」


「正しい人間って増えるんだな」


 地雷ちゃんは駅前の人混みを眺めた。


 普段なら廊下でだらけている彼女が、朝の街の中にいる。


 それだけで、少し違って見えた。


「みんな朝からすごいよな」


「また人類の話ですか」


「だってさ」


 地雷ちゃんは、コンビニから出てくる会社員たちを見る。


「こんな朝から、ちゃんと服着て、ちゃんと歩いて、ちゃんとどっか行くんだぞ」


「普通です」


「普通がすごいって言ってんの」


 その言葉に、優人は少しだけ黙った。


 普通。


 仕事に行く。


 時間に間に合わせる。


 忘れ物をしない。


 挨拶する。


 働く。


 給料をもらう。


 家賃を払う。


 文字にすると簡単だ。


 だが、実際は毎日けっこう大変だ。


 地雷ちゃんは、その普通を今さら一つずつ見ている。


 子供みたいだと思う反面、少しだけ分かる気もした。


「神谷」


「はい」


「私、今日ちゃんと働いたらさ」


「はい」


「家賃に近づく?」


「近づきます」


「どのくらい?」


「一日分くらい」


「少な」


「でも一日分です」


「一日分か」


 地雷ちゃんは紙パックを見つめた。


「一日働いたら、一日分近づくんだな」


「そうですね」


「地味だな」


「生活ってだいたい地味です」


「神谷の言葉、たまに夢がない」


「現実なので」


「出た、現実ハラスメント」


 地雷ちゃんは笑った。


 その時、駅の改札の方から黒崎真琴が歩いてきた。


 今日もきっちりしたスーツ姿。


 朝の駅前でも、黒崎は黒崎だった。


 背筋が伸びていて、歩く速度も一定。


 銀行という場所に向かう人間の説得力があった。


「おはようございます」


「おはようございます」


「黒崎さん、おはよ」


 黒崎は地雷ちゃんを見て、少しだけ目を細めた。


「今日は先に出たんですね」


「出た」


「良いことです」


「褒めた?」


「はい」


「やった」


「ただし、カフェオレを飲みながら歩くとこぼします」


「すぐ刺すじゃん」


「事実です」


「まだこぼしてない」


「今後こぼさないように言っています」


「今後の女だ」


「変な呼び方をしないでください」


 黒崎は地雷ちゃんの鞄に目を向ける。


「制服は?」


「ある」


「財布は?」


「ある」


「交通費は?」


「ある」


「勤務先の場所は?」


「分かる」


「本当に?」


「昨日行った」


「なら大丈夫です」


 黒崎の確認は相変わらず正確だった。


 優人は少し笑いそうになる。


「黒崎さん、朝からチェックが細かいですね」


「初期確認は大事です」


「何の初期確認ですか」


「地雷ちゃんの生活再建です」


「そんなプロジェクトになってるんですか」


「なっていません」


 即座に否定した。


 だが、もうなっている気がする。


 少なくとも、優人と黒崎はかなり巻き込まれている。


 そしてたぶん、翔も巻き込まれている。


 本人は喜んで飛び込んでいるだけかもしれないが。


「じゃあ、私行く」


 地雷ちゃんが言った。


 カラオケ店は駅前通りを少し進んだ先にある。


 朝の開店前で、周辺はまだ少し静かだった。


「行ってらっしゃい」


 優人が言う。


「遅刻しないように」


 黒崎が言う。


「分かってる」


 地雷ちゃんは二人に背を向けた。


 数歩進んでから、振り返る。


「今日、最後まで働いたら、ちゃんと褒めろよ」


「はい」


「黒崎さんも」


「結果を聞いてからです」


「厳しい!」


 地雷ちゃんはそう言いながら、少し笑って店の方へ歩いていった。


 その背中は、昨日より少しだけまともに見えた。


 少しだけだ。


 大きく言うと調子に乗るので、少しだけでいい。


 優人は駅へ向かおうとした。


 しかし、黒崎がふと口を開いた。


「神谷さん」


「はい」


「今日のお昼、地雷ちゃんから連絡が来ると思います」


「なぜですか」


「褒めてほしいからです」


「分かりやすいですね」


「分かりやすいです」


 黒崎は淡々と言った。


「返しすぎると甘えます」


「はい」


「返さなすぎると拗ねます」


「面倒ですね」


「面倒です」


 二人は少しだけ黙った。


 そして同時にため息を吐いた。


 駅前の人混みの中で、二人の疲労だけが妙に一致した。


 会社に着くと、優人の日常はすぐ戻ってきた。


 パソコンを開く。


 メールを見る。


 昨日の修正を確認する。


 新しい修正が増えている。


 人類はなぜ働くのか。


 いや、働かないと家賃が払えないからである。


 最近は、その答えがかなり具体的になってきた。


 昼休み。


 優人は会社近くのコンビニで弁当を買った。


 いつもなら席で適当に食べる。


 だが今日は少し外へ出た。


 会社近くの小さな公園。


 昼時のベンチには、同じように弁当を食べる会社員が何人かいた。


 優人は隅のベンチに座り、スマホを見る。


 地雷ちゃんからメッセージが来ていた。


『休憩』


 予想通りだった。


 続けて写真。


 カラオケ店の休憩室らしき場所。


 テーブルの上にパンと紙パックのお茶。


 それから、少しブレた自撮り。


 制服姿の地雷ちゃんが、疲れた顔でピースしていた。


『働いてる』


 優人は思わず小さく笑った。


 隣のベンチの会社員がちらりと見る。


 優人は咳払いして、スマホに返信した。


『お疲れ様です。最後まで頑張ってください』


 すぐに返事。


『褒めが薄い』


『勤務中なので、帰ってからです』


『ケチ』


 ここまではいつも通りだった。


 だが、すぐにもう一通届いた。


『客にありがとうって言われた』


 優人は指を止めた。


 地雷ちゃんが働いて、客に感謝された。


 それはかなり大きいことではないだろうか。


 いや、普通の仕事では普通かもしれない。


 でも地雷ちゃんには、たぶん大きい。


『良かったですね』


 そう打ってから、少し迷う。


 そして付け足した。


『ちゃんと仕事できてる証拠です』


 送信。


 しばらく返信はなかった。


 珍しい。


 数分後、ようやく返事が来た。


『ちょっと嬉しかった』


 優人は画面を見つめた。


 短い文だった。


 でも、妙に本音っぽかった。


『その調子です』


 そう返して、スマホを伏せる。


 弁当を食べながら、優人は少しだけ考えた。


 仕事で感謝されること。


 自分にもあっただろうか。


 最近は謝ることの方が多い。


 修正。


 確認。


 謝罪。


 また修正。


 でも、たしかに誰かの役には立っているはずだ。


 たぶん。


 そう思わないとやっていられない。


 地雷ちゃんの方が、今は少し素直に働けているのかもしれない。


 少しだけ、悔しいような気もした。


 午後の仕事を終え、優人は会社を出た。


 今日は珍しく定時に近い。


 空はまだ少し明るかった。


 駅へ向かう途中、優人はふと足を止めた。


 カラオケ店の前を通る道に出られる。


 わざわざ遠回りではない。


 少しだけ回るだけだ。


 見に行くわけではない。


 帰り道の選択肢の一つである。


 そう自分に言い訳しながら、優人は駅前通りへ出た。


 カラオケ店の前には、高校生らしき客が何人かいた。


 店内からはうっすら音楽が漏れている。


 自動ドアが開いた。


「ありがとうございましたー」


 聞き覚えのある声。


 地雷ちゃんだった。


 制服姿で、客を見送っている。


 昨日より少し声が出ている。


 表情は疲れているが、ちゃんと店員に見える。


 少なくとも、廊下に座っておにぎりを要求していた人間には見えない。


 地雷ちゃんは客が離れるのを確認して、ふと優人に気づいた。


「あ」


「……偶然です」


「まだ何も言ってない」


「帰り道です」


「店、見に来た?」


「帰り道です」


「二回言った」


「大事なので」


 地雷ちゃんはにやっと笑った。


「どう?」


「何がですか」


「働いてる私」


「ちゃんと店員に見えます」


「お」


「昨日より声も出てました」


「おお」


「いらっしゃーいって言ってませんでした」


「そこ褒める?」


「かなり大事です」


 地雷ちゃんは少し照れくさそうに目を逸らした。


「今日さ」


「はい」


「客にありがとうって言われた」


「メッセージで見ました」


「なんか変な感じだった」


「変?」


「うん。私、何かしたんだなって」


 地雷ちゃんは自分の制服の袖を軽くつまんだ。


「おにぎり買ってもらう側じゃなくてさ」


「はい」


「ちょっとだけ、誰かの役に立った側」


 その言葉に、優人は少し黙った。


 地雷ちゃんの顔は、いつものようにふざけていなかった。


 本当に少しだけ嬉しかったのだろう。


「それは良いことですね」


「神谷、たまに先生みたい」


「嫌です」


「じゃあ監視員」


「もっと嫌です」


 店の中からスタッフの声がした。


「地雷ちゃん、五番お願いします」


「はーい」


 地雷ちゃんは返事をして、優人を見る。


「あと一時間くらい」


「最後まで頑張ってください」


「帰ったら褒めろよ」


「はい」


「プリンも」


「それは別です」


「ケチ」


 地雷ちゃんはそう言って店の奥へ戻っていった。


 優人はしばらく店の前に立っていた。


 アパートの廊下ではない場所。


 駅前のカラオケ店。


 そこで働く地雷ちゃん。


 それは少し不思議で、少しだけ安心する光景だった。


 そのまま帰ろうとした時、スマホが震えた。


 黒崎からだった。


『地雷ちゃんは働いていましたか』


 優人は画面を見て、少し笑った。


 黒崎も気にしている。


 平穏管理などと言っていたが、完全に気にしている。


『働いてました。昨日より店員っぽかったです』


 送信。


 すぐに返事が来る。


『良かったです』


 短い。


 黒崎らしい。


 続けてもう一通。


『甘やかしすぎないように』


 これも黒崎らしい。


 優人は『はい』とだけ返した。


 夜。


 おんぼろ荘に帰る前に、優人は駅前のスーパーに寄った。


 夕飯を買うためだ。


 惣菜売り場は混んでいた。


 仕事帰りの人たちが、値引きシールの貼られた弁当を静かに狙っている。


 生活感のある戦場である。


 優人が唐揚げ弁当を手に取ろうとした時、後ろから聞き覚えのある声がした。


「半額って強くない?」


 振り返る。


 地雷ちゃんだった。


 仕事終わりらしく、制服の袋を持っている。


 顔は疲れている。


 だが目は惣菜売り場を真剣に見つめていた。


「何してるんですか」


「スーパー」


「それは見れば分かります」


「半額ハンター」


「急に肩書きを増やさないでください」


「働いたから、何か食べようと思って」


「お金あるんですか」


「ちょっとだけ」


「使いすぎないでください」


「黒崎さんみたい」


「正しいので」


 地雷ちゃんは値引きシールの貼られた焼きそばを手に取った。


「これ、安い」


「いいんじゃないですか」


「でもこっちの唐揚げも食べたい」


「どちらかにしてください」


「働いたのに?」


「働いたからこそ、使いすぎないでください」


「現実ハラスメント」


「家賃があります」


「強いカード出すなよ」


 地雷ちゃんはしばらく悩んだ。


 焼きそば。


 唐揚げ。


 焼きそば。


 唐揚げ。


 まるで人生の選択みたいに真剣だった。


「神谷なら?」


「弁当一つにします」


「夢がない」


「家賃を払うなら」


「うっ」


 地雷ちゃんは胸を押さえた。


「じゃあ焼きそば」


「偉いです」


「褒めた?」


「無駄遣いを我慢できたので」


「もっと」


「ここで我慢できるなら、家賃に一歩近づきます」


「地味だな」


「生活は地味です」


「でも」


 地雷ちゃんは焼きそばを見つめる。


「今日は地味でもいいか」


 その言葉が、少しだけ意外だった。


 地雷ちゃんが地味を受け入れた。


 かなり大きな進歩かもしれない。


 優人は何も言わず、自分の弁当を選んだ。


 レジへ向かう。


 地雷ちゃんも隣に並ぶ。


 会計の時、地雷ちゃんは財布から小銭を出した。


 手元は少し遅いが、ちゃんと自分で払った。


 それだけのことなのに、優人は少し安心した。


 スーパーを出ると、夜風が涼しかった。


 地雷ちゃんは袋をぶら下げながら言う。


「今日、私けっこう普通じゃない?」


「かなり普通です」


「かなり?」


「はい」


「やった」


 地雷ちゃんは小さく笑った。


 アパートへ戻る道。


 いつもなら優人が一人で歩く道を、今日は地雷ちゃんが隣にいる。


 職場の話。


 客にありがとうと言われた話。


 休憩室のパンが意外とうまかった話。


 店長が優しかった話。


 地雷ちゃんは疲れているくせによく喋った。


 優人は相づちを打ちながら歩いた。


 おんぼろ荘に着くと、一階の前に翔がいた。


 なぜか腕を組んで待っている。


「おかえり!」


「声でか……」


 地雷ちゃんが疲れた声で返す。


「今日も働いたか!」


「働いた」


「最高だ!」


「うん」


 102号室のドアが開き、黒崎も顔を出した。


「おかえりなさい」


「ただいま、黒崎さん」


「最後まで働きましたか」


「働いた」


「買い物もしたんですね」


「焼きそば買った」


「無駄遣いは?」


「唐揚げ我慢した」


 黒崎は少しだけ驚いた顔をした。


 ほんの少しだが、優人には分かった。


「それは良い判断です」


「褒めた?」


「はい」


「今日、私すごくない?」


「調子に乗らないでください」


「すぐ落とす」


 翔が笑う。


 優人も少しだけ笑った。


 アパートに戻ってきた。


 結局、最後はおんぼろ荘だ。


 だが今日は、アパートの前だけで話が終わったわけではない。


 駅前。


 会社の昼休み。


 カラオケ店。


 スーパー。


 その全部を通って、地雷ちゃんは少しだけ前に進んで帰ってきた。


 地雷ちゃんは二階へ上がる前に、優人を見た。


「神谷」


「何ですか」


「今日の私、偉かった?」


「偉かったです」


「どこが?」


「自分で起きて、駅前まで来て、仕事をして、客にお礼を言われて、スーパーで無駄遣いを我慢して、自分で焼きそばを買ったところです」


 地雷ちゃんは少しだけ固まった。


 そして、照れたように笑った。


「長いな」


「今日は長めに褒めました」


「そっか」


「はい」


「ありがと」


 素直な礼だった。


 優人は少しだけ目を逸らす。


「どういたしまして」


 地雷ちゃんは焼きそばの袋を持ち上げる。


「じゃあ、普通の人っぽく飯食ってくる」


「洗濯もしてくださいね」


「現実!」


「制服がありますから」


「分かったよ」


 地雷ちゃんは文句を言いながらも、今日は逃げなかった。


 二階へ上がっていく。


 その背中を見送りながら、優人は思う。


 普通は地味だ。


 でも、その地味なことを一つずつできるようになるのは、たぶん悪くない。


 直後。


 二階から地雷ちゃんの声が聞こえた。


「箸もらうの忘れた!」


 優人は目を閉じた。


 黒崎も静かにため息を吐いた。


 翔だけが笑っていた。


 普通への道は、まだかなり遠い。

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