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家賃滞納地雷ちゃん  作者: leemero


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5/8

履歴書は現実である

 翌朝。


 神谷優人は、いつもより少しだけ早く目が覚めた。


 理由は分かっている。


 地雷ちゃんが仕事を探すと言ったからだ。


 別に期待しているわけではない。


 期待などしていない。


 あの地雷ちゃんである。


 家賃を三ヶ月滞納し、財布をなくし、財布が見つかっても中身がなく、他人のおにぎりで生き延びようとする女である。


 そんな人間が、翌朝いきなり改心して、朝から求人情報を調べている。


 そんな都合のいい展開はない。


 ないはずだった。


 優人はスーツに着替え、鞄を持って玄関を開けた。


「おはよ」


 いた。


 202号室の前に。


 地雷ちゃんが。


 しかも、いつものように座っているのではない。


 スマホを片手に、妙に真剣な顔をしていた。


「……何してるんですか」


「仕事探してる」


「本当に?」


「本当に」


「偉いですね」


「早くない?」


「何がですか」


「褒めるの」


「探してるだけでも、昨日よりは進歩なので」


「もっと褒めて」


「調子に乗るので嫌です」


「ケチ」


 いつも通りだった。


 だが、スマホ画面には求人サイトらしきものが表示されている。


 本当に探しているらしい。


 優人は少しだけ感心した。


 少しだけだ。


 大きく感心すると、あとで裏切られた時の精神的ダメージが大きい。


「どんな仕事を探してるんですか」


「楽で」


「はい」


「短時間で」


「はい」


「怒られなくて」


「はい」


「いっぱい金もらえるやつ」


「ないです」


「即答すんな」


「ないものはないです」


「夢がないなぁ」


「求人に夢を見ないでください」


 地雷ちゃんは不満そうに唇を尖らせた。


 朝から労働への認識が甘い。


 砂糖をそのまま舐めているくらい甘い。


「神谷は何の仕事してるの」


「会社員です」


「それは見れば分かる」


「ゲーム関係の会社です」


「へえ」


 地雷ちゃんが少しだけ顔を上げた。


「ゲーム好きなの?」


「嫌いではないです」


「へえ」


「何ですか」


「いや、意外」


「そうですか?」


「スーツ着て死んだ魚みたいな顔してるから、趣味なさそう」


「朝から失礼ですね」


「褒めてる」


「どこがですか」


「魚っぽい」


「褒めてません」


 優人はため息を吐いた。


 まだ朝だ。


 出勤前から体力を削られている。


「それで、候補はあるんですか」


「これ」


 地雷ちゃんはスマホ画面を見せてきた。


 優人は覗き込む。


 求人内容を見る。


 カラオケ店。


 深夜勤務。


 時給は悪くない。


 ただし、接客あり。


「接客できますか?」


「できるだろ」


「本当に?」


「なめんな」


「いらっしゃいませって言えます?」


「いらっしゃーい」


「居酒屋ですね」


「何が違うんだよ」


「だいぶ違います」


 地雷ちゃんは次の求人を見せてくる。


 コンビニ。


 これも接客。


「レジできますか?」


「ピッてするだけだろ」


「それだけじゃありません」


「じゃあ無理」


「諦めが早い」


「難しいこと言うから」


「現実を言っただけです」


「また現実ハラスメント」


「その言葉、定着させないでください」


 地雷ちゃんは画面をスクロールした。


「じゃあこれは?」


「何ですか」


「倉庫」


「軽作業ですね」


「軽いならいける」


「軽作業の軽は、気持ちが軽いという意味ではありません」


「うわ、怖」


「立ち仕事も多いですよ」


「無理」


「早い」


「足疲れるじゃん」


「働くというのは大体疲れます」


「人類、設計ミスってる」


「そこまで大きい話ではありません」


 地雷ちゃんはスマホを膝に置いた。


 そして天井を見上げる。


 廊下に天井を見上げる人間がいる。


 それだけで、すでにおんぼろ荘らしい光景だった。


「働くって大変だな」


「今さらですか」


「神谷、毎日すごいな」


「普通です」


「普通、強すぎ」


 その言い方が少しだけ本音に聞こえて、優人は返事に困った。


 普通。


 会社に行く。


 怒られる。


 謝る。


 帰る。


 給料をもらう。


 家賃を払う。


 それを普通と呼んでいるだけで、本当は全然簡単ではない。


 優人だって、毎朝会社に行きたくない。


 できれば布団の中で永久に暮らしたい。


 でも行く。


 行かないと困るからだ。


「とりあえず」


 優人は言った。


「短期のバイトから探せばいいんじゃないですか」


「短期?」


「一日だけとか、数日だけとか」


「それなら逃げ切れる?」


「逃げ切る前提で探さないでください」


「じゃあ耐え切れる」


「まあ、その言い方なら」


 地雷ちゃんはまたスマホを見る。


 少しだけ真剣だった。


 その姿だけなら、まともに見える。


 黙っていれば、である。


「神谷」


「はい」


「履歴書っている?」


「仕事によりますけど、必要なことも多いですね」


「終わった」


「まだ始まってません」


「履歴書って何書くの」


「名前、住所、学歴、職歴、志望動機とか」


「志望動機?」


「はい」


「金」


「駄目です」


「なんで」


「正直すぎます」


「嘘つけってこと?」


「言い方を変えるんです」


「金が欲しいです」


「変わってません」


「生活のためです」


「少しマシです」


「家賃を払わないと追い出されるので」


「重すぎます」


 地雷ちゃんは頭を抱えた。


「難しいな、履歴書」


「普通に書けばいいんです」


「普通が難しいって昨日言っただろ」


「言いましたね」


「じゃあ助けて」


「嫌です」


「早い」


「俺は仕事です」


「夜」


「嫌です」


「まだ何も言ってない」


「夜に履歴書を見ろと言うつもりでしょう」


「そう」


「嫌です」


「なんで」


「疲れて帰ってくるからです」


「じゃあ疲れてないふりして」


「無理です」


 地雷ちゃんはむっとした顔をした。


「ケチ」


「何でもケチで片付けないでください」


「心がケチ」


「昨日も聞きました」


「じゃあ心が滞納」


「嫌な進化をしましたね」


 その時、一階のドアが開く音がした。


 優人は嫌な予感と、少しだけ安心を同時に覚えた。


 足音がする。


 きっちりした足音。


 階段の下から現れたのは、黒崎真琴だった。


 今日もスーツ姿で、髪もきちんと整っている。


 朝からちゃんとしている。


 その姿を見るだけで、優人は少しだけ背筋が伸びた。


「おはようございます」


「おはようございます」


 優人が頭を下げる。


 地雷ちゃんは手を上げた。


「おはよ、黒崎さん」


「おはようございます」


 黒崎は地雷ちゃんのスマホ画面に目を向けた。


「何をしているんですか」


「仕事探し」


 地雷ちゃんが得意げに言った。


 黒崎は少しだけ目を見開いた。


 本当に少しだけだが、驚いたらしい。


「それは良いことですね」


「でしょ」


「ただ、座り込んで廊下を塞ぐのは良くありません」


「褒めてから刺すじゃん」


「事実です」


「黒崎さんってさ」


「はい」


「銀行員っぽいよね」


 黒崎の眉がわずかに動いた。


「なぜ分かるんですか」


「え、当たった?」


「はい」


「マジ?」


 地雷ちゃんが目を丸くした。


 優人も少し驚いた。


 黒崎は淡々と答える。


「銀行で働いています」


「すげえ。金のプロじゃん」


「その言い方はやめてください」


「じゃあお金の番人」


「もっとやめてください」


「ATMの守護者」


「怒りますよ」


 黒崎の声が少し低くなった。


 地雷ちゃんはすぐに口を閉じた。


 強い。


 黒崎はやはり強い。


「ちょうど良かった」


 地雷ちゃんがスマホを差し出す。


「黒崎さん、履歴書ってどう書くの?」


「なぜ私に」


「ちゃんとしてそうだから」


「それは否定しませんが」


「否定しないんだ」


「ちゃんとしている自覚はあります」


「強いなぁ」


 黒崎はため息を吐いた。


 だが、スマホ画面を覗き込む。


 厳しいが、面倒見は悪くない。


 昨日から見ていて、それは分かっていた。


「まず、履歴書は丁寧に書いてください」


「字、汚い」


「丁寧に」


「漢字、たまに怪しい」


「調べてください」


「志望動機、金」


「言い方を変えてください」


「神谷と同じこと言う」


「神谷さんが正しいです」


「正しい人間が二人に増えた」


「増えて困るものではありません」


 黒崎はスマホを操作しながら、地雷ちゃんにいくつか求人を見せた。


「短期の軽作業や、イベントスタッフなら始めやすいかもしれません」


「イベントスタッフ?」


「会場設営や受付、案内などですね」


「受付?」


「人に案内する仕事です」


「いらっしゃーい」


「違います」


「また違うのか」


「違います」


 黒崎の返事は速かった。


 優人は少しだけ笑いそうになる。


「地雷ちゃん」


 黒崎が言う。


「まずは、自分が何時間なら働けるのか考えた方がいいです」


「一時間」


「短すぎます」


「二時間」


「もう少し」


「三時間」


「最低でもそのくらいは」


「人類、厳しい」


「また大きい話にしないでください」


 黒崎は優人を見る。


「神谷さん」


「はい」


「この人、昨日から本当に仕事を探すと言っていたんですか?」


「言ってました」


「意外ですね」


「俺も意外です」


「二人して失礼だな」


 地雷ちゃんが唇を尖らせる。


 だが、怒っているというより、少し照れているようにも見えた。


「じゃあさ」


 地雷ちゃんが言った。


「私が仕事決まったら、二人とも褒める?」


「決まったらですね」


 優人が答える。


「続いたら、です」


 黒崎が追加する。


「厳しい!」


「決まるだけなら誰でもできます」


「黒崎さん、刺すなぁ」


「続けることが大事です」


「正論で殴るタイプだ」


「殴っていません」


「心が痛い」


「それは現実です」


「現実ハラスメント二号」


「不名誉ですね」


 黒崎は表情を変えないが、少しだけ不満そうだった。


 優人は時計を見る。


 まずい。


 そろそろ本当に出ないと遅れる。


「すみません、俺もう行きます」


「あ、私も」


 黒崎も腕時計を見る。


 地雷ちゃんだけが廊下に残される形になる。


「え、置いてくの?」


「出勤なので」


「会社なので」


「二人とも働き者だな」


「あなたもそうなるんですよ」


「なるかな」


「なってください」


 優人は階段へ向かう。


 黒崎も隣に並んだ。


 地雷ちゃんが後ろから声を飛ばす。


「神谷ー!」


「何ですか」


「夜、履歴書!」


「考えておきます」


「黒崎さーん!」


「何ですか」


「銀行で雇って!」


「無理です」


「早っ!」


「無理です」


「二回言った!」


 黒崎はきっぱり言い切った。


 優人は思わず苦笑する。


 地雷ちゃんは廊下で文句を言っていたが、それでもスマホは手放していなかった。


 仕事探しは続けるらしい。


 アパートの外に出ると、朝の空気が少し冷たかった。


 黒崎は歩きながら言う。


「意外でした」


「地雷ちゃんが仕事を探していることですか」


「はい」


「俺もです」


「でも、放っておくと変な求人に応募しそうですね」


「かなり」


「神谷さん」


「はい」


「あまり関わりすぎない方がいいですよ」


「昨日も言われました」


「何度でも言います」


「正しいですね」


「はい」


 黒崎は迷いなく頷いた。


 それが少し面白かった。


「でも」


 優人は少しだけ二階を見上げた。


「放っておくと、本当にどこかで詰みそうなんですよね」


「それは分かります」


「黒崎さんも分かるんですね」


「分かります。だから厄介なんです」


 厄介。


 まさにそれだった。


 地雷ちゃんは面倒臭い。


 図々しい。


 口も悪い。


 常識も薄い。


 だが、完全に突き放すには危なっかしい。


 黒崎もたぶん、同じものを感じている。


「神谷さん」


「はい」


「夜、履歴書を見るんですか?」


「……たぶん」


「そうですか」


「黒崎さんは?」


「私は見ません」


「きっぱりですね」


「でも」


 黒崎は少しだけ間を置いた。


「間違いが多そうなら、最終確認くらいはします」


「優しいですね」


「違います」


「俺と同じこと言ってます」


「不本意です」


 黒崎はほんの少しだけ目をそらした。


 優人は笑いそうになったが、我慢した。


 その日の夜。


 仕事を終えて、おんぼろ荘に帰ると。


 202号室の前に、地雷ちゃんがいた。


 予想通りだった。


 ただし、今回は床に座っているだけではない。


 膝の上に履歴書を置き、ペンを握っていた。


「神谷」


「はい」


「助けて」


「どこで詰まりました?」


「名前」


「最初じゃないですか」


「本名書きたくない」


「履歴書は本名を書いてください」


「地雷ちゃんじゃ駄目?」


「駄目です」


「地雷ちゃんで働けたら強くない?」


「弱いです。社会的に」


 地雷ちゃんは履歴書を睨んだ。


 その表情は、魔王と向き合う勇者のようだった。


 ただし相手は紙である。


「本名、嫌なんだよな」


 ぽつりと、地雷ちゃんが言った。


 優人は少しだけ黙った。


 本名。


 やはり、そこには何かあるらしい。


 聞くべきか。


 聞かないべきか。


 迷ったが、優人は聞かなかった。


「じゃあ」


 優人は言った。


「俺は見ないので、自分で書いてください」


「え?」


「本名を知られたくないなら、そこは見ません」


「……いいの?」


「はい」


「気にならない?」


「少しは」


「正直だな」


「でも、無理に聞くことじゃないので」


 地雷ちゃんはしばらく黙った。


 そして、小さく言う。


「ありがと」


 まただ。


 ずるい。


 優人は視線をそらした。


「その代わり、志望動機は見ます」


「そこが一番自信ある」


「嫌な予感しかしません」


「書いた」


「見せてください」


 地雷ちゃんは履歴書を少しずらし、名前欄だけ手で隠したまま、志望動機を見せてきた。


 そこには大きな字でこう書かれていた。


『家賃を払いたいから』


 優人は黙った。


「どう?」


「正直ですね」


「駄目?」


「駄目ではないです」


「お」


「ただ、もう少し整えましょう」


「例えば?」


 優人はペンを借りて、別の紙に書いた。


『生活を安定させるため、責任を持って働きたいと考え応募しました。』


 地雷ちゃんはそれを見た。


 そして眉を寄せる。


「誰?」


「あなたです」


「こんな立派なこと思ってない」


「思ってください」


「履歴書って嘘つき大会?」


「言い方を整える場です」


「社会、怖」


「今さらです」


 地雷ちゃんはぶつぶつ言いながら、その文章を書き写し始めた。


 字は少し癖がある。


 綺麗とは言えない。


 だが、意外と丁寧に書こうとしているのは分かった。


「神谷」


「はい」


「仕事決まったら褒めろよ」


「決まったらですね」


「続いたら、じゃなくて?」


「続いたらもっと褒めます」


「じゃあ決める」


「単純ですね」


「褒められたい大人だからな」


 地雷ちゃんはそう言って、少しだけ笑った。


 優人は何も言えなくなる。


 その時、一階から黒崎の声が聞こえた。


「神谷さん」


 振り返ると、階段の途中に黒崎が立っていた。


 帰ってきたところらしい。


 手にはコンビニの袋。


「まだ廊下でやっているんですか」


「履歴書です」


「そうですか」


 黒崎は近づいてきて、履歴書を覗く。


 地雷ちゃんは慌てて名前欄を隠した。


「見るな!」


「見ません」


「ほんと?」


「個人情報なので」


「銀行っぽい」


「その言い方はやめてください」


 黒崎は志望動機の欄だけを見る。


 そして小さく頷いた。


「良いと思います」


「マジ?」


「はい。字はもう少し丁寧に」


「やっぱ刺すじゃん」


「事実です」


 地雷ちゃんは文句を言いながらも、どこか嬉しそうだった。


 優人はそれを見て思う。


 これはこれで、悪くないのかもしれない。


 もちろん面倒臭い。


 かなり面倒臭い。


 だが、昨日よりは前に進んでいる。


 少なくとも、今日は地雷ちゃんが履歴書を書いている。


 それだけで、おんぼろ荘にとっては大事件だった。


「よし」


 地雷ちゃんがペンを置いた。


「完成」


「お疲れ様です」


「褒めて」


「まだ完成しただけです」


「褒めて」


「……よく書きました」


「子供扱いじゃん」


「実際、名前で詰まってましたから」


「うるさいな」


 黒崎がコンビニ袋から小さなプリンを取り出した。


 そして地雷ちゃんに差し出す。


「これ、余ったので」


「え」


「食べますか」


「食べる!」


 地雷ちゃんの顔が一瞬で明るくなった。


「黒崎さん、神!」


「神ではありません」


「ATMの女神!」


「返してください」


「ごめんなさい」


 地雷ちゃんはすぐ謝った。


 強い。


 黒崎はやはり強い。


 優人は思わず笑ってしまった。


「神谷、笑ったな」


「笑ってません」


「笑った」


「疲労です」


「便利だな、それ」


 地雷ちゃんはプリンを受け取り、嬉しそうに笑った。


 履歴書はまだ完璧ではない。


 仕事が決まったわけでもない。


 家賃も払えていない。


 現実は何も解決していない。


 それでも。


 今日の地雷ちゃんは、昨日より少しだけ前に進んでいた。


 優人は自分の部屋の鍵を開けながら思う。


 このアパートは騒がしい。


 面倒臭い。


 平穏とはほど遠い。


 けれど、たまに。


 本当にたまに。


 人が少しだけまともになる瞬間がある。


 それを見てしまうから、きっと放っておけなくなるのだ。


「神谷」


「何ですか」


「明日の面接、ついてきて」


「嫌です」


「ケチ!」


 やはり、放っておけないのと、面倒臭いのは別問題だった。

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