履歴書は現実である
翌朝。
神谷優人は、いつもより少しだけ早く目が覚めた。
理由は分かっている。
地雷ちゃんが仕事を探すと言ったからだ。
別に期待しているわけではない。
期待などしていない。
あの地雷ちゃんである。
家賃を三ヶ月滞納し、財布をなくし、財布が見つかっても中身がなく、他人のおにぎりで生き延びようとする女である。
そんな人間が、翌朝いきなり改心して、朝から求人情報を調べている。
そんな都合のいい展開はない。
ないはずだった。
優人はスーツに着替え、鞄を持って玄関を開けた。
「おはよ」
いた。
202号室の前に。
地雷ちゃんが。
しかも、いつものように座っているのではない。
スマホを片手に、妙に真剣な顔をしていた。
「……何してるんですか」
「仕事探してる」
「本当に?」
「本当に」
「偉いですね」
「早くない?」
「何がですか」
「褒めるの」
「探してるだけでも、昨日よりは進歩なので」
「もっと褒めて」
「調子に乗るので嫌です」
「ケチ」
いつも通りだった。
だが、スマホ画面には求人サイトらしきものが表示されている。
本当に探しているらしい。
優人は少しだけ感心した。
少しだけだ。
大きく感心すると、あとで裏切られた時の精神的ダメージが大きい。
「どんな仕事を探してるんですか」
「楽で」
「はい」
「短時間で」
「はい」
「怒られなくて」
「はい」
「いっぱい金もらえるやつ」
「ないです」
「即答すんな」
「ないものはないです」
「夢がないなぁ」
「求人に夢を見ないでください」
地雷ちゃんは不満そうに唇を尖らせた。
朝から労働への認識が甘い。
砂糖をそのまま舐めているくらい甘い。
「神谷は何の仕事してるの」
「会社員です」
「それは見れば分かる」
「ゲーム関係の会社です」
「へえ」
地雷ちゃんが少しだけ顔を上げた。
「ゲーム好きなの?」
「嫌いではないです」
「へえ」
「何ですか」
「いや、意外」
「そうですか?」
「スーツ着て死んだ魚みたいな顔してるから、趣味なさそう」
「朝から失礼ですね」
「褒めてる」
「どこがですか」
「魚っぽい」
「褒めてません」
優人はため息を吐いた。
まだ朝だ。
出勤前から体力を削られている。
「それで、候補はあるんですか」
「これ」
地雷ちゃんはスマホ画面を見せてきた。
優人は覗き込む。
求人内容を見る。
カラオケ店。
深夜勤務。
時給は悪くない。
ただし、接客あり。
「接客できますか?」
「できるだろ」
「本当に?」
「なめんな」
「いらっしゃいませって言えます?」
「いらっしゃーい」
「居酒屋ですね」
「何が違うんだよ」
「だいぶ違います」
地雷ちゃんは次の求人を見せてくる。
コンビニ。
これも接客。
「レジできますか?」
「ピッてするだけだろ」
「それだけじゃありません」
「じゃあ無理」
「諦めが早い」
「難しいこと言うから」
「現実を言っただけです」
「また現実ハラスメント」
「その言葉、定着させないでください」
地雷ちゃんは画面をスクロールした。
「じゃあこれは?」
「何ですか」
「倉庫」
「軽作業ですね」
「軽いならいける」
「軽作業の軽は、気持ちが軽いという意味ではありません」
「うわ、怖」
「立ち仕事も多いですよ」
「無理」
「早い」
「足疲れるじゃん」
「働くというのは大体疲れます」
「人類、設計ミスってる」
「そこまで大きい話ではありません」
地雷ちゃんはスマホを膝に置いた。
そして天井を見上げる。
廊下に天井を見上げる人間がいる。
それだけで、すでにおんぼろ荘らしい光景だった。
「働くって大変だな」
「今さらですか」
「神谷、毎日すごいな」
「普通です」
「普通、強すぎ」
その言い方が少しだけ本音に聞こえて、優人は返事に困った。
普通。
会社に行く。
怒られる。
謝る。
帰る。
給料をもらう。
家賃を払う。
それを普通と呼んでいるだけで、本当は全然簡単ではない。
優人だって、毎朝会社に行きたくない。
できれば布団の中で永久に暮らしたい。
でも行く。
行かないと困るからだ。
「とりあえず」
優人は言った。
「短期のバイトから探せばいいんじゃないですか」
「短期?」
「一日だけとか、数日だけとか」
「それなら逃げ切れる?」
「逃げ切る前提で探さないでください」
「じゃあ耐え切れる」
「まあ、その言い方なら」
地雷ちゃんはまたスマホを見る。
少しだけ真剣だった。
その姿だけなら、まともに見える。
黙っていれば、である。
「神谷」
「はい」
「履歴書っている?」
「仕事によりますけど、必要なことも多いですね」
「終わった」
「まだ始まってません」
「履歴書って何書くの」
「名前、住所、学歴、職歴、志望動機とか」
「志望動機?」
「はい」
「金」
「駄目です」
「なんで」
「正直すぎます」
「嘘つけってこと?」
「言い方を変えるんです」
「金が欲しいです」
「変わってません」
「生活のためです」
「少しマシです」
「家賃を払わないと追い出されるので」
「重すぎます」
地雷ちゃんは頭を抱えた。
「難しいな、履歴書」
「普通に書けばいいんです」
「普通が難しいって昨日言っただろ」
「言いましたね」
「じゃあ助けて」
「嫌です」
「早い」
「俺は仕事です」
「夜」
「嫌です」
「まだ何も言ってない」
「夜に履歴書を見ろと言うつもりでしょう」
「そう」
「嫌です」
「なんで」
「疲れて帰ってくるからです」
「じゃあ疲れてないふりして」
「無理です」
地雷ちゃんはむっとした顔をした。
「ケチ」
「何でもケチで片付けないでください」
「心がケチ」
「昨日も聞きました」
「じゃあ心が滞納」
「嫌な進化をしましたね」
その時、一階のドアが開く音がした。
優人は嫌な予感と、少しだけ安心を同時に覚えた。
足音がする。
きっちりした足音。
階段の下から現れたのは、黒崎真琴だった。
今日もスーツ姿で、髪もきちんと整っている。
朝からちゃんとしている。
その姿を見るだけで、優人は少しだけ背筋が伸びた。
「おはようございます」
「おはようございます」
優人が頭を下げる。
地雷ちゃんは手を上げた。
「おはよ、黒崎さん」
「おはようございます」
黒崎は地雷ちゃんのスマホ画面に目を向けた。
「何をしているんですか」
「仕事探し」
地雷ちゃんが得意げに言った。
黒崎は少しだけ目を見開いた。
本当に少しだけだが、驚いたらしい。
「それは良いことですね」
「でしょ」
「ただ、座り込んで廊下を塞ぐのは良くありません」
「褒めてから刺すじゃん」
「事実です」
「黒崎さんってさ」
「はい」
「銀行員っぽいよね」
黒崎の眉がわずかに動いた。
「なぜ分かるんですか」
「え、当たった?」
「はい」
「マジ?」
地雷ちゃんが目を丸くした。
優人も少し驚いた。
黒崎は淡々と答える。
「銀行で働いています」
「すげえ。金のプロじゃん」
「その言い方はやめてください」
「じゃあお金の番人」
「もっとやめてください」
「ATMの守護者」
「怒りますよ」
黒崎の声が少し低くなった。
地雷ちゃんはすぐに口を閉じた。
強い。
黒崎はやはり強い。
「ちょうど良かった」
地雷ちゃんがスマホを差し出す。
「黒崎さん、履歴書ってどう書くの?」
「なぜ私に」
「ちゃんとしてそうだから」
「それは否定しませんが」
「否定しないんだ」
「ちゃんとしている自覚はあります」
「強いなぁ」
黒崎はため息を吐いた。
だが、スマホ画面を覗き込む。
厳しいが、面倒見は悪くない。
昨日から見ていて、それは分かっていた。
「まず、履歴書は丁寧に書いてください」
「字、汚い」
「丁寧に」
「漢字、たまに怪しい」
「調べてください」
「志望動機、金」
「言い方を変えてください」
「神谷と同じこと言う」
「神谷さんが正しいです」
「正しい人間が二人に増えた」
「増えて困るものではありません」
黒崎はスマホを操作しながら、地雷ちゃんにいくつか求人を見せた。
「短期の軽作業や、イベントスタッフなら始めやすいかもしれません」
「イベントスタッフ?」
「会場設営や受付、案内などですね」
「受付?」
「人に案内する仕事です」
「いらっしゃーい」
「違います」
「また違うのか」
「違います」
黒崎の返事は速かった。
優人は少しだけ笑いそうになる。
「地雷ちゃん」
黒崎が言う。
「まずは、自分が何時間なら働けるのか考えた方がいいです」
「一時間」
「短すぎます」
「二時間」
「もう少し」
「三時間」
「最低でもそのくらいは」
「人類、厳しい」
「また大きい話にしないでください」
黒崎は優人を見る。
「神谷さん」
「はい」
「この人、昨日から本当に仕事を探すと言っていたんですか?」
「言ってました」
「意外ですね」
「俺も意外です」
「二人して失礼だな」
地雷ちゃんが唇を尖らせる。
だが、怒っているというより、少し照れているようにも見えた。
「じゃあさ」
地雷ちゃんが言った。
「私が仕事決まったら、二人とも褒める?」
「決まったらですね」
優人が答える。
「続いたら、です」
黒崎が追加する。
「厳しい!」
「決まるだけなら誰でもできます」
「黒崎さん、刺すなぁ」
「続けることが大事です」
「正論で殴るタイプだ」
「殴っていません」
「心が痛い」
「それは現実です」
「現実ハラスメント二号」
「不名誉ですね」
黒崎は表情を変えないが、少しだけ不満そうだった。
優人は時計を見る。
まずい。
そろそろ本当に出ないと遅れる。
「すみません、俺もう行きます」
「あ、私も」
黒崎も腕時計を見る。
地雷ちゃんだけが廊下に残される形になる。
「え、置いてくの?」
「出勤なので」
「会社なので」
「二人とも働き者だな」
「あなたもそうなるんですよ」
「なるかな」
「なってください」
優人は階段へ向かう。
黒崎も隣に並んだ。
地雷ちゃんが後ろから声を飛ばす。
「神谷ー!」
「何ですか」
「夜、履歴書!」
「考えておきます」
「黒崎さーん!」
「何ですか」
「銀行で雇って!」
「無理です」
「早っ!」
「無理です」
「二回言った!」
黒崎はきっぱり言い切った。
優人は思わず苦笑する。
地雷ちゃんは廊下で文句を言っていたが、それでもスマホは手放していなかった。
仕事探しは続けるらしい。
アパートの外に出ると、朝の空気が少し冷たかった。
黒崎は歩きながら言う。
「意外でした」
「地雷ちゃんが仕事を探していることですか」
「はい」
「俺もです」
「でも、放っておくと変な求人に応募しそうですね」
「かなり」
「神谷さん」
「はい」
「あまり関わりすぎない方がいいですよ」
「昨日も言われました」
「何度でも言います」
「正しいですね」
「はい」
黒崎は迷いなく頷いた。
それが少し面白かった。
「でも」
優人は少しだけ二階を見上げた。
「放っておくと、本当にどこかで詰みそうなんですよね」
「それは分かります」
「黒崎さんも分かるんですね」
「分かります。だから厄介なんです」
厄介。
まさにそれだった。
地雷ちゃんは面倒臭い。
図々しい。
口も悪い。
常識も薄い。
だが、完全に突き放すには危なっかしい。
黒崎もたぶん、同じものを感じている。
「神谷さん」
「はい」
「夜、履歴書を見るんですか?」
「……たぶん」
「そうですか」
「黒崎さんは?」
「私は見ません」
「きっぱりですね」
「でも」
黒崎は少しだけ間を置いた。
「間違いが多そうなら、最終確認くらいはします」
「優しいですね」
「違います」
「俺と同じこと言ってます」
「不本意です」
黒崎はほんの少しだけ目をそらした。
優人は笑いそうになったが、我慢した。
その日の夜。
仕事を終えて、おんぼろ荘に帰ると。
202号室の前に、地雷ちゃんがいた。
予想通りだった。
ただし、今回は床に座っているだけではない。
膝の上に履歴書を置き、ペンを握っていた。
「神谷」
「はい」
「助けて」
「どこで詰まりました?」
「名前」
「最初じゃないですか」
「本名書きたくない」
「履歴書は本名を書いてください」
「地雷ちゃんじゃ駄目?」
「駄目です」
「地雷ちゃんで働けたら強くない?」
「弱いです。社会的に」
地雷ちゃんは履歴書を睨んだ。
その表情は、魔王と向き合う勇者のようだった。
ただし相手は紙である。
「本名、嫌なんだよな」
ぽつりと、地雷ちゃんが言った。
優人は少しだけ黙った。
本名。
やはり、そこには何かあるらしい。
聞くべきか。
聞かないべきか。
迷ったが、優人は聞かなかった。
「じゃあ」
優人は言った。
「俺は見ないので、自分で書いてください」
「え?」
「本名を知られたくないなら、そこは見ません」
「……いいの?」
「はい」
「気にならない?」
「少しは」
「正直だな」
「でも、無理に聞くことじゃないので」
地雷ちゃんはしばらく黙った。
そして、小さく言う。
「ありがと」
まただ。
ずるい。
優人は視線をそらした。
「その代わり、志望動機は見ます」
「そこが一番自信ある」
「嫌な予感しかしません」
「書いた」
「見せてください」
地雷ちゃんは履歴書を少しずらし、名前欄だけ手で隠したまま、志望動機を見せてきた。
そこには大きな字でこう書かれていた。
『家賃を払いたいから』
優人は黙った。
「どう?」
「正直ですね」
「駄目?」
「駄目ではないです」
「お」
「ただ、もう少し整えましょう」
「例えば?」
優人はペンを借りて、別の紙に書いた。
『生活を安定させるため、責任を持って働きたいと考え応募しました。』
地雷ちゃんはそれを見た。
そして眉を寄せる。
「誰?」
「あなたです」
「こんな立派なこと思ってない」
「思ってください」
「履歴書って嘘つき大会?」
「言い方を整える場です」
「社会、怖」
「今さらです」
地雷ちゃんはぶつぶつ言いながら、その文章を書き写し始めた。
字は少し癖がある。
綺麗とは言えない。
だが、意外と丁寧に書こうとしているのは分かった。
「神谷」
「はい」
「仕事決まったら褒めろよ」
「決まったらですね」
「続いたら、じゃなくて?」
「続いたらもっと褒めます」
「じゃあ決める」
「単純ですね」
「褒められたい大人だからな」
地雷ちゃんはそう言って、少しだけ笑った。
優人は何も言えなくなる。
その時、一階から黒崎の声が聞こえた。
「神谷さん」
振り返ると、階段の途中に黒崎が立っていた。
帰ってきたところらしい。
手にはコンビニの袋。
「まだ廊下でやっているんですか」
「履歴書です」
「そうですか」
黒崎は近づいてきて、履歴書を覗く。
地雷ちゃんは慌てて名前欄を隠した。
「見るな!」
「見ません」
「ほんと?」
「個人情報なので」
「銀行っぽい」
「その言い方はやめてください」
黒崎は志望動機の欄だけを見る。
そして小さく頷いた。
「良いと思います」
「マジ?」
「はい。字はもう少し丁寧に」
「やっぱ刺すじゃん」
「事実です」
地雷ちゃんは文句を言いながらも、どこか嬉しそうだった。
優人はそれを見て思う。
これはこれで、悪くないのかもしれない。
もちろん面倒臭い。
かなり面倒臭い。
だが、昨日よりは前に進んでいる。
少なくとも、今日は地雷ちゃんが履歴書を書いている。
それだけで、おんぼろ荘にとっては大事件だった。
「よし」
地雷ちゃんがペンを置いた。
「完成」
「お疲れ様です」
「褒めて」
「まだ完成しただけです」
「褒めて」
「……よく書きました」
「子供扱いじゃん」
「実際、名前で詰まってましたから」
「うるさいな」
黒崎がコンビニ袋から小さなプリンを取り出した。
そして地雷ちゃんに差し出す。
「これ、余ったので」
「え」
「食べますか」
「食べる!」
地雷ちゃんの顔が一瞬で明るくなった。
「黒崎さん、神!」
「神ではありません」
「ATMの女神!」
「返してください」
「ごめんなさい」
地雷ちゃんはすぐ謝った。
強い。
黒崎はやはり強い。
優人は思わず笑ってしまった。
「神谷、笑ったな」
「笑ってません」
「笑った」
「疲労です」
「便利だな、それ」
地雷ちゃんはプリンを受け取り、嬉しそうに笑った。
履歴書はまだ完璧ではない。
仕事が決まったわけでもない。
家賃も払えていない。
現実は何も解決していない。
それでも。
今日の地雷ちゃんは、昨日より少しだけ前に進んでいた。
優人は自分の部屋の鍵を開けながら思う。
このアパートは騒がしい。
面倒臭い。
平穏とはほど遠い。
けれど、たまに。
本当にたまに。
人が少しだけまともになる瞬間がある。
それを見てしまうから、きっと放っておけなくなるのだ。
「神谷」
「何ですか」
「明日の面接、ついてきて」
「嫌です」
「ケチ!」
やはり、放っておけないのと、面倒臭いのは別問題だった。




