自称イケメンは声がでかい
神谷優人は、静かな夜が好きだった。
仕事で削られた精神を回復するには、静けさが必要だ。
誰にも話しかけられない時間。
余計な通知が来ない時間。
隣人が廊下に座っていない時間。
そういうものが、人間には必要なのだ。
だが、おんぼろ荘に住んでいる限り、その願いはわりと簡単に壊される。
「うおおおおおおおおおおお!」
午後十時四十五分。
帰宅した優人は、アパートの前で足を止めた。
何かが聞こえた。
いや、何かではない。
叫び声だ。
それもかなり元気な叫び声。
優人は空を見上げた。
今日は帰りたい。
いつも帰りたいが、今日は特に帰りたい。
しかし、帰る場所から叫び声がする。
なかなか絶望的な状況だった。
「うおおおおおお!」
また聞こえた。
優人は深く息を吐いた。
「……通報かな」
小さく呟いてから、階段を上る。
二階へ行く途中、声の出所が分かった。
一階の端。
103号室。
そこからだった。
窓が開いている。
中から明かりが漏れている。
そして。
「勝ったあああああ!」
勝ったらしい。
何に勝ったのかは知らない。
知りたくもない。
優人はそのまま通り過ぎようとした。
だが、人生とはそう簡単にはいかない。
103号室のドアが勢いよく開いた。
「お!」
中から男が出てきた。
派手なシャツ。
無駄に整えた髪。
謎の自信に満ちた顔。
そして声が大きい。
熱田翔。
103号室の住人である。
何度か見かけたことはある。
会話はほとんどない。
優人の中では、うるさい人、という分類だった。
「君、二階の人だよな!」
「はい」
「名前なんだっけ!」
「神谷です」
「神谷くんか!」
「声、少し小さくできますか」
「できる!」
「じゃあしてください」
「分かった!」
全然小さくならなかった。
優人は帰りたくなった。
すでに帰ってきているのに帰りたい。
「俺は熱田翔!」
「知ってます」
「知ってたか!」
「表札に書いてあるので」
「なるほど!」
翔はなぜか感心したように頷いた。
表札を見れば分かる。
それだけの話だ。
「神谷くん!」
「はい」
「俺、今日勝った!」
「そうですか」
「聞きたい?」
「いいえ」
「聞いてくれ!」
「聞く流れなんですね」
翔は親指を立てた。
「競馬!」
「ああ」
「三千円勝った!」
「おめでとうございます」
「ありがとう!」
「では」
「待て待て待て!」
優人は二階へ上がろうとしたが、止められた。
面倒な気配しかしない。
「三千円勝ったんだぞ!」
「はい」
「つまり」
「はい」
「祝勝会だ!」
「お疲れ様でした」
「参加しろよ!」
「嫌です」
「早いな!」
「疲れてるので」
「疲れてる時こそ飲むんだよ!」
「寝ます」
「真面目か!」
真面目で何が悪いのだろう。
明日も仕事だ。
普通の会社員は、平日の夜に知らない隣人の三千円勝利を祝わない。
「神谷くん、酒は?」
「飲めますけど」
「じゃあいける!」
「いけません」
「つまみもある!」
「寝ます」
「イケメンの誘いを断るのか?」
優人は一瞬だけ黙った。
言うか迷った。
だが疲れていたので、言った。
「イケメン?」
「俺」
「……」
「何その沈黙」
「いえ」
「傷つくぞ!」
「すみません」
「謝られる方が傷つく!」
この人も面倒臭い。
優人は心の中で分類を更新した。
うるさい人。
自称イケメン。
かなり面倒。
その時だった。
二階から足音が聞こえた。
嫌な予感がした。
優人はゆっくり顔を上げる。
階段の上に、地雷ちゃんがいた。
昨日までと同じように、当然のようにそこにいた。
「何してんの」
「帰宅です」
「あんたじゃなくて、そこのうるさい人」
「俺か!」
翔が嬉しそうに自分を指さした。
地雷ちゃんは階段を下りてくる。
「何? 飲み?」
「祝勝会だ!」
「何に勝ったの」
「競馬!」
「いくら」
「三千円!」
「しょぼ」
「しょぼくない!」
「しょぼいだろ」
地雷ちゃんは即答した。
優人は少しだけ同意した。
声には出さない。
「でも飲みなら行く」
「行くな」
優人は反射的に言った。
地雷ちゃんがこちらを見る。
「なんで」
「家賃」
「今その話する?」
「むしろ今する話です」
「空気読めよ」
「家賃滞納者が言う台詞じゃありません」
地雷ちゃんは舌打ちした。
しっかり聞こえる舌打ちだった。
「神谷くん、厳しいな!」
「普通です」
「地雷ちゃん、家賃滞納してるのか!」
「してる」
「堂々と言うな」
「三ヶ月」
「詳細まで言うな」
翔は一瞬固まった。
そして。
「すげえな!」
「褒めるところじゃありません」
「三ヶ月はなかなかだぞ!」
「だから褒めるところじゃありません」
「いや、ある意味才能だ!」
「才能で家賃を滞納しないでください」
翔はよく笑った。
地雷ちゃんも楽しそうだった。
まずい。
この二人は相性が良い。
良すぎる。
優人の中で警報が鳴った。
「で、酒は?」
地雷ちゃんが言う。
「ある!」
「つまみは?」
「ある!」
「金は?」
「今日勝った!」
「よし」
「よしじゃないです」
優人は止めに入った。
だが地雷ちゃんはすでに103号室の中を覗いている。
翔も満面の笑みだ。
「神谷も来いよ!」
「行きません」
「なんで」
「明日仕事なので」
「一杯だけ」
「その一杯が信用できません」
「大丈夫だって!」
「大丈夫な人は夜に叫びません」
「正論!」
翔は笑った。
地雷ちゃんも笑った。
優人は笑えなかった。
「地雷ちゃん」
「なに」
「あなたは明日、家賃のために何かする予定では?」
「明日から本気出す」
「昨日も言ってました」
「昨日の私は昨日の私」
「便利ですね、それ」
「今日の私は飲む私」
「最低ですね」
「人生楽しくいこうぜ」
「家賃払ってから言ってください」
地雷ちゃんはうるさそうに手を振った。
「分かった分かった。じゃあ一杯だけ」
「絶対嘘です」
「嘘じゃない」
「本当に一杯だけですか」
「たぶん」
「ほら」
優人は頭を抱えた。
この「たぶん」は信用してはいけない。
地雷ちゃんの「たぶん」は、大体何も保証していない。
「神谷くん!」
翔が声を張る。
「君も来い!」
「だから行きません」
「同じアパートの仲間だろ!」
「今日ほぼ初めて喋りましたよね」
「今日から仲間だ!」
「距離感が怖いです」
「気にすんな!」
「気にします」
その瞬間。
ぐぅぅぅ。
聞き覚えのある音がした。
優人は地雷ちゃんを見た。
地雷ちゃんは目を逸らした。
「……またですか」
「違う」
「今のは?」
「お腹の自己主張」
「腹が減ってるんでしょう」
「そうとも言う」
翔が笑顔で手を叩いた。
「ならちょうどいい! つまみ食え!」
「食う」
「食うな」
「なんで」
「あなた、また人の金で食べようとしてますよね」
「翔がいいって言ってる」
「翔って呼ぶほど仲良くなりました?」
「もう仲良い」
「早すぎます」
「おう! 俺たちはもう仲間だ!」
「そっちも早い」
優人は完全に置いていかれていた。
これは駄目だ。
この二人を一緒にしてはいけない。
地雷ちゃんは図々しい。
翔は勢いがある。
混ぜるな危険。
おんぼろ荘の新しい注意事項だった。
「分かりました」
優人は言った。
「一杯だけなら」
「お、来るのか!」
「俺じゃありません」
「え?」
「地雷ちゃんが一杯だけ飲んで、つまみを少し食べたら部屋に戻る。それを確認したら俺も帰ります」
「保護者かよ」
地雷ちゃんが嫌そうな顔をした。
「保護者ではありません」
「じゃあ何」
「監視員です」
「もっと嫌だ」
「嫌なら行かないでください」
「行く」
「でしょうね」
結局、優人は103号室の前までついていくことになった。
何をしているのだろう。
今日も仕事で疲れている。
本当なら、風呂に入って寝るだけだった。
それなのに、隣人が飲み過ぎないよう監視している。
人生はどこで間違えたのだろう。
103号室の中は、想像よりも片付いていた。
ただし酒の缶は多い。
競馬新聞らしきものもある。
部屋の中央に小さなテーブル。
その上につまみと缶ビール。
翔は缶を三本持ってきた。
「はい!」
「俺は飲みません」
「なんで!」
「帰るからです」
「一杯だけ!」
「その一杯を拒否します」
地雷ちゃんはすでに缶を開けていた。
早い。
ものすごく早い。
「ぷはー」
「おっさんですか」
「うまい」
「一杯だけですからね」
「分かってるって」
絶対分かっていない。
翔も缶を開けた。
「乾杯!」
「かんぱーい」
二人が缶を軽くぶつける。
優人は立ったまま見ていた。
帰りたい。
とても帰りたい。
「神谷くん、本当に飲まないのか?」
「はい」
「真面目だな!」
「普通です」
「地雷ちゃん、神谷くん真面目だな!」
「真面目っていうか細かい」
「細かくないです」
「財布の中身とか家賃とか現実とか、すぐ言う」
「全部大事です」
「現実ハラスメント」
「何ですかそれ」
翔が大笑いした。
「現実ハラスメント! いいな!」
「良くありません」
「神谷くん、現実ハラスメントだってよ!」
「笑わないでください」
「いや、面白い!」
地雷ちゃんはつまみを食べていた。
かなり自然に。
まるで自分の部屋のように。
「それ、食べ過ぎないでください」
「うるさいな」
「翔さんのです」
「翔がいいって言ってる」
「いいぞ!」
「本人もこう言ってる」
「甘やかさないでください」
優人は翔を見た。
翔は胸を張る。
「俺は懐が深い男だからな!」
「三千円勝っただけですよね」
「今日の俺は富豪だ!」
「富豪の基準が低い」
地雷ちゃんが笑う。
翔も笑う。
優人だけ笑えない。
だが、少しだけ分かった。
地雷ちゃんはこういう空気が好きなのだろう。
何も考えなくていい空気。
その場の勢いだけで笑える空気。
家賃とか、財布とか、現実とか。
そういうものから少しだけ逃げられる空気。
ただし逃げ過ぎると大変なことになる。
「地雷ちゃん」
「なに」
「一杯終わりましたよね」
「終わってない」
「缶、空です」
「まだ魂が残ってる」
「残ってません」
「じゃあ二杯目」
「駄目です」
「ケチ」
「監視員です」
「最悪」
翔が二本目を渡そうとする。
優人はそれを止めた。
「渡さないでください」
「えー」
「明日から本気を出すらしいので」
「ああ、それなら飲んだ方が景気づけに」
「なりません」
「ならないか!」
「なりません」
翔は素直に缶を引っ込めた。
意外と話は通じるらしい。
声はでかいが。
「じゃあ、今日はここまでだな!」
「えー」
地雷ちゃんが不満そうに声を出す。
「つまんない」
「あなたの家賃の方がつまらないことになってます」
「うるさいな」
「明日、本気出すんですよね」
「……出す」
「本当に?」
「たぶん」
「不安しかない」
地雷ちゃんは渋々立ち上がった。
少しだけふらついた。
「一杯で?」
「空腹だったから」
「だから飲むなと言ったんです」
「言われてない」
「言いました」
「記憶にない」
「都合がいいですね」
優人は地雷ちゃんを連れて103号室を出た。
翔がドアの前で手を振る。
「また飲もうな!」
「飲む!」
「飲ませません」
「神谷くんも今度飲もう!」
「機会があれば」
「それ来ないやつだ!」
「よく分かりましたね」
翔は笑った。
本当にうるさい。
でも悪い人ではなさそうだった。
そこが厄介だ。
おんぼろ荘には、悪い人ではない面倒な人間が多すぎる。
二階へ上がる。
地雷ちゃんは少し機嫌がよさそうだった。
「翔、いい奴だな」
「今日会ったばかりですよね」
「いい奴はすぐ分かる」
「あなたはすぐ人を信用しすぎです」
「あんたは疑いすぎ」
「普通です」
「普通って疲れそう」
「疲れますよ」
優人は自分で言ってから少し黙った。
普通は疲れる。
働いて、家賃を払って、財布を管理して、夜は寝る。
たったそれだけでも疲れる。
地雷ちゃんは、それが少し下手なのだろう。
「神谷」
「何ですか」
「明日さ」
「はい」
「仕事探す」
優人は思わず地雷ちゃんを見た。
地雷ちゃんは目を逸らしていた。
少しだけ恥ずかしそうだった。
「本気ですか」
「たぶん」
「そこは言い切ってください」
「本気」
「なら良いです」
「褒める?」
「まだ探してません」
「厳しい」
「探したら褒めます」
「じゃあ探す」
「単純ですね」
「褒められたいからな」
地雷ちゃんはそう言って、202号室のドアを開けた。
中へ入る前に振り返る。
「神谷」
「はい」
「今日もありがと」
まただ。
こういう時だけ普通になる。
優人は少しだけ視線をそらした。
「……どういたしまして」
「あと明日の朝、おにぎり」
「買いません」
「ちっ」
「舌打ちしないでください」
ドアが閉まる。
優人は自分の部屋の前に立ったまま、深いため息を吐いた。
今日は翔という住人とちゃんと話した。
地雷ちゃんは飲み仲間を見つけた。
そして明日、仕事を探すと言った。
進展はある。
あるのだが。
どう考えても、平穏からは遠ざかっている。
優人は鍵を開けながら思った。
おんぼろ荘は、名前より中身の方がずっとおんぼろかもしれない。




