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家賃滞納地雷ちゃん  作者: leemero


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2/8

黒崎さんは正しい

 翌朝。


 神谷優人は寝不足だった。


 原因は仕事ではない。


 仕事も原因ではある。


 だが、今日に限って言えば違う。


 原因は隣人だった。


 202号室の前に座り込み、財布をなくし、金がないと言い、おにぎりを食べ、最後には「ありがと」と言ってきた変な女。


 地雷ちゃん。


 そう呼べと言われた。


 本名は知らない。


 知りたいかと聞かれたら、別に知りたくはない。


 ただ、昨日の夜のことが妙に頭に残っている。


 優人は洗面所で顔を洗い、鏡を見た。


 目の下に薄く疲れが残っている。


 いつものことだ。


 だが、いつもより少しだけ濃い気がする。


「最悪だ……」


 小さく呟いてから、優人はスーツに着替えた。


 会社に行きたくない。


 これは毎朝思う。


 だが、行かなければ給料が出ない。


 給料が出なければ家賃が払えない。


 家賃が払えなければ、おんぼろ荘から追い出される。


 そうなったら終わりだ。


 だから行く。


 大人とは、そういう生き物である。


 鞄を持ち、玄関のドアを開ける。


 そして、閉めた。


 一度閉めた。


 見なかったことにした。


 だが、現実はドアの向こうにいる。


 優人はもう一度ドアを開けた。


「おはよ」


 202号室の前。


 地雷ちゃんがいた。


 昨日と同じように座っていた。


「何してるんですか」


「朝の挨拶」


「場所がおかしいです」


「廊下」


「分かってます」


「じゃあ聞くなよ」


 地雷ちゃんは眠そうにあくびをした。


 髪は昨日より少し乱れている。


 服も昨日とほとんど同じに見える。


 もしかして着替えていないのではないか。


 優人は考えるのをやめた。


「財布は見つかりましたか」


「まだ」


「探しました?」


「これから」


「昨日も同じこと言ってませんでしたか」


「昨日の私と今日の私は別人だから」


「都合のいい別人ですね」


「進化してる」


「退化してるように見えます」


「朝から失礼だな」


 地雷ちゃんは立ち上がる気配がない。


 つまり、また何かある。


 優人は嫌な予感がした。


「それで、何ですか」


「朝ご飯」


「嫌です」


「まだ何も言ってない」


「言う前から分かります」


「じゃあ話が早いな」


「早くないです」


 優人は階段の方へ歩き出す。


 地雷ちゃんが後ろから声をかけてきた。


「神谷」


「何ですか」


「昨日のおにぎり、うまかった」


「それは良かったですね」


「今日も同じのでいい」


「買いません」


「なんで」


「なんでじゃありません」


「ケチ」


「あなたが図々しいんです」


「図々しくないと生きていけない」


「働いてください」


「急に重い話するなよ」


 朝から疲れる。


 会社に着く前にすでに一仕事終えた気分だった。


 その時。


 ガチャリ、と一階のドアが開く音がした。


 階段下から誰かが出てくる。


 昨日の夜、話し声を注意してきた女性だった。


 黒崎。


 たしか、そう名乗っていた。


 彼女は階段の下からこちらを見上げた。


「おはようございます」


「おはようございます」


 優人は軽く頭を下げた。


 地雷ちゃんは片手を上げる。


「おはよー」


 軽い。


 昨日からずっと軽い。


 黒崎は二人を見比べると、少しだけ眉を寄せた。


「また廊下ですか」


「またって言うほど会ってないじゃん」


「昨日も廊下でした」


「細かいなぁ」


「細かくありません」


 黒崎は階段を上がってくる。


 スーツ姿。


 髪もきちんと整っている。


 表情もきちんとしている。


 地雷ちゃんとは正反対だった。


「神谷さん」


「はい」


「昨日はすみません。いきなり注意してしまって」


「いえ、こちらこそすみませんでした。夜中にうるさくして」


「主にこいつです」


 優人は地雷ちゃんを指さした。


「売ったな」


「事実です」


「おにぎり買ってくれたくせに」


「それとこれとは別です」


 黒崎の視線が少し鋭くなった。


「おにぎり?」


「あ」


 言わなくていいことを言った。


 地雷ちゃんは悪びれずに笑っている。


「神谷さん、この人に食べ物を?」


「事故です」


「また事故ですか」


「昨日も言いましたけど、事故です」


「二日連続で事故を起こすのは、もう体質だと思います」


「否定できないのが嫌ですね」


 黒崎は地雷ちゃんを見る。


「あなたも、人に迷惑をかけないでください」


「かけてない」


「かけています」


「昨日は助けてもらっただけ」


「それを迷惑と言います」


「厳しいなぁ」


「普通です」


 普通。


 たしかに黒崎の言っていることは普通だった。


 おかしいのは地雷ちゃんだ。


 問題なのは、普通のことを普通に言われると、この場では黒崎の方が怖く見えることだった。


「えっと」


 優人は空気を変えるように言った。


「黒崎さんは、出勤ですか?」


「はい」


 黒崎は頷いた。


「神谷さんもですよね」


「はい」


「同じですね」


「そうですね」


 まともな会話だった。


 朝にするべき会話だった。


 それなのに、横から地雷ちゃんが入ってくる。


「二人とも働いてて偉いな」


「あなたも働いてください」


「やだ」


「即答ですか」


「働いたら負けかなって」


「その考え方がすでに負けています」


「辛辣」


 黒崎は一切笑わない。


 地雷ちゃんは楽しそうだ。


 この二人、相性が悪いのか良いのか分からない。


「ところで」


 黒崎が言った。


「あなた、財布をなくしたんですよね」


「そう」


「警察には?」


「行ってない」


「なぜですか」


「面倒」


「最悪ですね」


「朝から最悪って言われた」


「最悪です」


 優人は少しだけ黒崎に親近感を覚えた。


 言いたいことを全部言ってくれる。


 ありがたい。


「神谷さん」


「はい」


「この人にお金を貸してはいけません」


「貸すつもりはありません」


「食べ物もなるべく」


「昨日は本当に事故です」


「事故多いな」


「あなたが言わないでください」


 地雷ちゃんは不満そうに頬を膨らませた。


 子供っぽい仕草だった。


 ただし中身は図々しい大人である。


「黒崎さんってさ」


「はい」


「怖いよね」


「よく言われます」


「否定しないんだ」


「事実なので」


「強い」


 地雷ちゃんは感心したように頷いた。


 黒崎は表情を変えない。


「それより、あなたは部屋へ戻って財布を探してください」


「えー」


「えー、ではありません」


「あとで」


「今」


「あとで」


「今」


「神谷、助けて」


「黒崎さんが正しいです」


「裏切り者」


「味方になった覚えがありません」


 朝の廊下で何をしているのだろう。


 優人は時計を見た。


 まずい。


 本当にまずい。


「すみません、俺そろそろ行かないと」


「あ、私もです」


 黒崎も腕時計を確認する。


 地雷ちゃんだけが床に座ったままだ。


「いってら」


「財布探してください」


「気が向いたら」


「向けてください」


「うるさいなぁ」


 黒崎が地雷ちゃんをじっと見る。


「探してください」


「……はい」


 地雷ちゃんが素直に返事をした。


 優人は少し驚いた。


 黒崎は強い。


 かなり強い。


 二人で階段を下りる。


 背後から地雷ちゃんの声が飛んできた。


「神谷ー」


「何ですか」


「帰りにプリン」


「買いません」


「黒崎さーん」


「買いません」


「まだ言ってない!」


「言わなくても分かります」


「二人とも冷たい!」


 優人と黒崎は同時にため息を吐いた。


 タイミングがほぼ同じだった。


 少しだけ気まずくなり、優人は苦笑する。


「すみません」


「なぜ神谷さんが謝るんですか」


「なんとなく」


「謝り癖がついてますね」


「仕事のせいです」


「分かります」


 黒崎の声が少しだけ柔らかくなった。


 昨日より話しやすい気がした。


 ただ、やはりきつい。


 言うことが正しい分、余計に刺さる。


 アパートの外に出る。


 朝の空気は少し冷たかった。


 おんぼろ荘の看板が、相変わらず堂々と古びている。


 黒崎は一度だけ二階を見上げた。


「大変ですね、隣」


「かなり」


「関わらない方がいいですよ」


「俺もそう思います」


「でも、もう関わってますよね」


「……そうですね」


 否定できなかった。


 黒崎は小さく笑った。


 本当に少しだけ。


「では、行ってきます」


「行ってらっしゃい」


「神谷さんも、お気をつけて」


「はい」


 黒崎は駅の方へ歩いていく。


 背筋が伸びていて、足取りも迷いがない。


 優人とは違う。


 ちゃんとしている人だ。


 優人も駅へ向かおうとした。


 その時。


 二階から声が聞こえた。


「財布あったー!」


 地雷ちゃんの声だった。


 優人は足を止める。


 黒崎も少し離れた場所で振り返る。


 次の瞬間。


「中身なかったー!」


 朝の住宅街に、地雷ちゃんの声が響いた。


 黒崎は額に手を当てた。


 優人は空を見た。


 今日も仕事だ。


 そして帰れば、たぶんまた面倒な隣人がいる。


 優人は深いため息を吐き、駅へ向かって歩き出した。

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