黒崎さんは正しい
翌朝。
神谷優人は寝不足だった。
原因は仕事ではない。
仕事も原因ではある。
だが、今日に限って言えば違う。
原因は隣人だった。
202号室の前に座り込み、財布をなくし、金がないと言い、おにぎりを食べ、最後には「ありがと」と言ってきた変な女。
地雷ちゃん。
そう呼べと言われた。
本名は知らない。
知りたいかと聞かれたら、別に知りたくはない。
ただ、昨日の夜のことが妙に頭に残っている。
優人は洗面所で顔を洗い、鏡を見た。
目の下に薄く疲れが残っている。
いつものことだ。
だが、いつもより少しだけ濃い気がする。
「最悪だ……」
小さく呟いてから、優人はスーツに着替えた。
会社に行きたくない。
これは毎朝思う。
だが、行かなければ給料が出ない。
給料が出なければ家賃が払えない。
家賃が払えなければ、おんぼろ荘から追い出される。
そうなったら終わりだ。
だから行く。
大人とは、そういう生き物である。
鞄を持ち、玄関のドアを開ける。
そして、閉めた。
一度閉めた。
見なかったことにした。
だが、現実はドアの向こうにいる。
優人はもう一度ドアを開けた。
「おはよ」
202号室の前。
地雷ちゃんがいた。
昨日と同じように座っていた。
「何してるんですか」
「朝の挨拶」
「場所がおかしいです」
「廊下」
「分かってます」
「じゃあ聞くなよ」
地雷ちゃんは眠そうにあくびをした。
髪は昨日より少し乱れている。
服も昨日とほとんど同じに見える。
もしかして着替えていないのではないか。
優人は考えるのをやめた。
「財布は見つかりましたか」
「まだ」
「探しました?」
「これから」
「昨日も同じこと言ってませんでしたか」
「昨日の私と今日の私は別人だから」
「都合のいい別人ですね」
「進化してる」
「退化してるように見えます」
「朝から失礼だな」
地雷ちゃんは立ち上がる気配がない。
つまり、また何かある。
優人は嫌な予感がした。
「それで、何ですか」
「朝ご飯」
「嫌です」
「まだ何も言ってない」
「言う前から分かります」
「じゃあ話が早いな」
「早くないです」
優人は階段の方へ歩き出す。
地雷ちゃんが後ろから声をかけてきた。
「神谷」
「何ですか」
「昨日のおにぎり、うまかった」
「それは良かったですね」
「今日も同じのでいい」
「買いません」
「なんで」
「なんでじゃありません」
「ケチ」
「あなたが図々しいんです」
「図々しくないと生きていけない」
「働いてください」
「急に重い話するなよ」
朝から疲れる。
会社に着く前にすでに一仕事終えた気分だった。
その時。
ガチャリ、と一階のドアが開く音がした。
階段下から誰かが出てくる。
昨日の夜、話し声を注意してきた女性だった。
黒崎。
たしか、そう名乗っていた。
彼女は階段の下からこちらを見上げた。
「おはようございます」
「おはようございます」
優人は軽く頭を下げた。
地雷ちゃんは片手を上げる。
「おはよー」
軽い。
昨日からずっと軽い。
黒崎は二人を見比べると、少しだけ眉を寄せた。
「また廊下ですか」
「またって言うほど会ってないじゃん」
「昨日も廊下でした」
「細かいなぁ」
「細かくありません」
黒崎は階段を上がってくる。
スーツ姿。
髪もきちんと整っている。
表情もきちんとしている。
地雷ちゃんとは正反対だった。
「神谷さん」
「はい」
「昨日はすみません。いきなり注意してしまって」
「いえ、こちらこそすみませんでした。夜中にうるさくして」
「主にこいつです」
優人は地雷ちゃんを指さした。
「売ったな」
「事実です」
「おにぎり買ってくれたくせに」
「それとこれとは別です」
黒崎の視線が少し鋭くなった。
「おにぎり?」
「あ」
言わなくていいことを言った。
地雷ちゃんは悪びれずに笑っている。
「神谷さん、この人に食べ物を?」
「事故です」
「また事故ですか」
「昨日も言いましたけど、事故です」
「二日連続で事故を起こすのは、もう体質だと思います」
「否定できないのが嫌ですね」
黒崎は地雷ちゃんを見る。
「あなたも、人に迷惑をかけないでください」
「かけてない」
「かけています」
「昨日は助けてもらっただけ」
「それを迷惑と言います」
「厳しいなぁ」
「普通です」
普通。
たしかに黒崎の言っていることは普通だった。
おかしいのは地雷ちゃんだ。
問題なのは、普通のことを普通に言われると、この場では黒崎の方が怖く見えることだった。
「えっと」
優人は空気を変えるように言った。
「黒崎さんは、出勤ですか?」
「はい」
黒崎は頷いた。
「神谷さんもですよね」
「はい」
「同じですね」
「そうですね」
まともな会話だった。
朝にするべき会話だった。
それなのに、横から地雷ちゃんが入ってくる。
「二人とも働いてて偉いな」
「あなたも働いてください」
「やだ」
「即答ですか」
「働いたら負けかなって」
「その考え方がすでに負けています」
「辛辣」
黒崎は一切笑わない。
地雷ちゃんは楽しそうだ。
この二人、相性が悪いのか良いのか分からない。
「ところで」
黒崎が言った。
「あなた、財布をなくしたんですよね」
「そう」
「警察には?」
「行ってない」
「なぜですか」
「面倒」
「最悪ですね」
「朝から最悪って言われた」
「最悪です」
優人は少しだけ黒崎に親近感を覚えた。
言いたいことを全部言ってくれる。
ありがたい。
「神谷さん」
「はい」
「この人にお金を貸してはいけません」
「貸すつもりはありません」
「食べ物もなるべく」
「昨日は本当に事故です」
「事故多いな」
「あなたが言わないでください」
地雷ちゃんは不満そうに頬を膨らませた。
子供っぽい仕草だった。
ただし中身は図々しい大人である。
「黒崎さんってさ」
「はい」
「怖いよね」
「よく言われます」
「否定しないんだ」
「事実なので」
「強い」
地雷ちゃんは感心したように頷いた。
黒崎は表情を変えない。
「それより、あなたは部屋へ戻って財布を探してください」
「えー」
「えー、ではありません」
「あとで」
「今」
「あとで」
「今」
「神谷、助けて」
「黒崎さんが正しいです」
「裏切り者」
「味方になった覚えがありません」
朝の廊下で何をしているのだろう。
優人は時計を見た。
まずい。
本当にまずい。
「すみません、俺そろそろ行かないと」
「あ、私もです」
黒崎も腕時計を確認する。
地雷ちゃんだけが床に座ったままだ。
「いってら」
「財布探してください」
「気が向いたら」
「向けてください」
「うるさいなぁ」
黒崎が地雷ちゃんをじっと見る。
「探してください」
「……はい」
地雷ちゃんが素直に返事をした。
優人は少し驚いた。
黒崎は強い。
かなり強い。
二人で階段を下りる。
背後から地雷ちゃんの声が飛んできた。
「神谷ー」
「何ですか」
「帰りにプリン」
「買いません」
「黒崎さーん」
「買いません」
「まだ言ってない!」
「言わなくても分かります」
「二人とも冷たい!」
優人と黒崎は同時にため息を吐いた。
タイミングがほぼ同じだった。
少しだけ気まずくなり、優人は苦笑する。
「すみません」
「なぜ神谷さんが謝るんですか」
「なんとなく」
「謝り癖がついてますね」
「仕事のせいです」
「分かります」
黒崎の声が少しだけ柔らかくなった。
昨日より話しやすい気がした。
ただ、やはりきつい。
言うことが正しい分、余計に刺さる。
アパートの外に出る。
朝の空気は少し冷たかった。
おんぼろ荘の看板が、相変わらず堂々と古びている。
黒崎は一度だけ二階を見上げた。
「大変ですね、隣」
「かなり」
「関わらない方がいいですよ」
「俺もそう思います」
「でも、もう関わってますよね」
「……そうですね」
否定できなかった。
黒崎は小さく笑った。
本当に少しだけ。
「では、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
「神谷さんも、お気をつけて」
「はい」
黒崎は駅の方へ歩いていく。
背筋が伸びていて、足取りも迷いがない。
優人とは違う。
ちゃんとしている人だ。
優人も駅へ向かおうとした。
その時。
二階から声が聞こえた。
「財布あったー!」
地雷ちゃんの声だった。
優人は足を止める。
黒崎も少し離れた場所で振り返る。
次の瞬間。
「中身なかったー!」
朝の住宅街に、地雷ちゃんの声が響いた。
黒崎は額に手を当てた。
優人は空を見た。
今日も仕事だ。
そして帰れば、たぶんまた面倒な隣人がいる。
優人は深いため息を吐き、駅へ向かって歩き出した。




